特集


マックス・ホフ選手 - ロンドン五輪カヌー ドイツ代表候補

ロンドン五輪カヌードイツ代表候補 マックス・ホフMax Hoff

ウインタースポーツ真っ盛りのこの季節、約5カ月後に迫ったロンドン五輪を目指す選手たちにとっては、「ひたすら我慢の時期」なのかもしれない。世界最高峰の大会を戦い抜く体力と気力を養うため、ひたすらハードな基礎トレーニングに打ち込まなければならないのだから。しかし、人生の晴れ舞台を最高のコンディションで迎えるべく、その苦痛をも喜びに変えてしまうのが、トップ・アスリートの成せる業だ。カヌー競技のドイツ代表候補、マックス・ホフ選手もその1人。水の流れに全身を委ねる快感に身も心も奪われたホフ選手が、このスポーツに懸ける想い、そして五輪が近付くとともに高鳴る胸の内を明かしてくれた。(編集部:林 康子)

Max Hoff
1982年9月12日ノルトライン=ヴェストファーレン州トロイスドルフ生まれ。1994年、12歳のときにカヌーワイルドウォーターを始める。2006年にはワイルドウォーター世界選手権カヤック1人乗りスプリント優勝、同ワールドカップ・シリーズ総合4位、ドイツ選手権同種目優勝。07年にカヌーに転向し、09年カヤック1人乗り1000メートルで悲願の世界チャンピオンに。11年には国内3800人のスポーツ選手が選ぶ最優秀スポーツ選手「今年のチャンピオン」に選ばれた。現所属クラブはKGエッセン。分子生物学でディプロムの称号を持つ。www.maxhoff.de

競技解説
カヌー競技には、静水で直線コースのタイムを競うフラットウォーター(スプリント)と、流れの中を、途中2本のポールで構成されたゲートを指定順にクリアしながら下っていくスラローム、急流を下る(スラロームのようにポールで構成されたゲートはなくどこを通っても良い)ワイルドウォーターがある。五輪種目になっているのは、スプリントとスラローム。両種目とも、両端にブレード(水かき)が付いたパドルを左右交互に漕ぎながら進むカヤックと、片端にブレードが付いたパドルで片方のみを漕ぎながら進むカヌー(カナディアン)がある。種目は、スプリントでは男子カヤック1人、2人乗り(各500、1000メートル)、4人乗り(1000メートル)、カヌー1人、2人乗り(各500、1000メートル)、女子カヤック1人、2人、4人乗り(各500メートル)、スラロームでは男子カヤック1人乗り、カヌー1人、2人乗り、女子カヤック1人乗りがある。

ボートと一体になり、水上を飛ぶ

ライン川の支流ジーク川とそこへ流れ込むアッガー川が東の市境を成す清流と緑豊かな土地で、マックス・ホフは生まれ育った。ここでは、人々は幼少の頃から当然のごとく自然に親しむ。マックス少年も例に漏れず、その名付け親である叔母に連れられて、地元のスポーツクラブに通い始めた。時は折しも、クラブ内にカヌーワイルドウォーター競技の青年部が立ち上がった頃。物は試しと始めたこのスポーツに、今ではのめり込んでいる。寝ても覚めても熱中するカヌーの魅力とは。

言葉で上手く表現できないのですが、あえて言うなら「ボートと一体になる感覚」でしょうか。本当に調子が良いときは、水上を飛んでいるかのような気分になるのです。ワイルドウォーターやカヌーという競技は、環境を犠牲にして行なわれるスポーツではなく、むしろ自然との共生を目指すものです。自然を体感し、そこで「自由になる」という感覚がたまりません。また、極度に体力が要求されるので、自分の身体の限界を知ることができるというのも醍醐味の1つです。

ワイルドウォーターを始めてから6年後、2000年にドイツ・ジュニア選手権優勝という初の快挙を成し遂げた。これを皮切りに、ドイツ選手権やドイツカップ・シリーズなどで優勝を重ね、国内で右に出る者はなし、世界大会でも上位に立つなど、順当に実力を付けていく。これまでの輝かしい成果を振り返り、彼自身が満点を付けた最高の瞬間は。

06年に、ワイルドウォーター・スプリント世界選手権を制したことです。自分にとって最初の、そして思いもしなかった優勝だったので。その他、09年のカヤック1人乗り1000メートルでの優勝も印象深いものです。この勝利が、カヌー競技への転向が間違っていなかったことを証明してくれました。また、昨年のカヤック4人乗り1000メートルでの優勝は、チームメイトと喜びを分かち合えたという意味では最高でしたね。

「カヌー競技への転向」。ワイルドウォーターで数々の成功を収める中、マックスが07年に下した一大決心だった。競技変更には、それなりのリスクも伴うはず。決断の背景には、どんな想いがあったのだろう。

いつかオリンピックに出る、というのが僕の夢でした。ワイルドウォーターは五輪種目ではなく、近い将来もそうなる可能性は低いと言われています。だから、オリンピックに出場するにはカヌー競技へ乗り換えるしかなかったのです。もちろん、転向は自分にとって大きな「実験」でした。もし結果が出なかったら、ワイルドウォーターの世界に戻っていたと思います。でも、今こうして振り返ると、転向して正解でした。万事順調ですから。

念願叶って初出場を果たした08年の北京五輪では、決勝まで進むも結果は5位。惜しくもメダルを逃した。雪辱戦となるロンドン大会には、否が応でも気合が入る。この先、五輪出場への道程は。

ロンドン五輪への割当出場枠を競った昨年の世界選手権で、ドイツ・チームはこの種目における出場枠を獲得しました。4月に国内選考大会が2つあり、そこで代表メンバーが決まります。そして当大会の結果をもとに2人乗り、4人乗り用のチームが形成され、その後2回行なわれるワールドカップで五輪出場に必要とされる一定基準(ドイツ選手の中で最高の記録を出すこと、メダルを獲得することなど)を満たすことができれば、出場が決まります。

マックス・ホフ

成果を挙げ続けるには、99%の力では足りない

出場権は、ほぼ手中にあると言って良いだろう。五輪で見据えている目標は。

大会で勝利できるか否かは、その日のコンディションによります。当日が、自分にとって「最高の日」とならなければいけません。つまり、事前に体調を崩してはだめだし、大会前のシーズンをトレーニングによってベストな状態で終えている必要があります。加えて、当日の風の状況も大きく影響します。自然相手のスポーツなので、どうしても天候に左右されますからね。どれか1つのレーンに有利となる横風が吹かないよう、全選手にとってフェアな条件の天候になることを祈るのみです。

僕が目指すのは、メダル獲得です。もちろん、どの選手にとっても金メダルは夢。どんな結果が出るか、楽しみです!

04年アテネ五輪金メダリストのエイリク・ベラス・ラルセン(ノルウェー)、08年北京五輪金メダリストのティム・ブラバンツ(英国)、昨年の世界選手権覇者アダム・バンコバーデン(カナダ)をはじめ、五輪でライバルとなる選手は多い。競合ひしめくカヌー競技でトップレベルを維持するには、強靭な精神力が必要だろう。そのためのエネルギーやモチベーション、集中力の源は。

1つのスポーツで常に成功を収め、世界のトップレベルに君臨し続けるというのは、簡単なことではなく、自分の心臓はこのスポーツのために鳴っているという意識、つまりそれに人生を賭けていることにほかなりません。必要なのは、取り憑かれたように熱中すること、肉体を酷使するトレーニングを楽しみと感じ、絶えず新たな目標を見出し、その達成に向かって努力すること。具体的な目標を持たずに練習していても、成功にはつながりません。

また、スポーツをフルタイムの職業と捉え、自分に課された任務に集中し、理想の成果を得るためにあらゆる手段を尽くすことも大切。成果を挙げ続けるには、99%の力では足りませんからね。

大会に限って言えば、気負い過ぎて自分自身の存在が障害になってしまうことがないようにベストを尽くすこと以外、考えないようにしています。競技中は自分の強さや実力を信じ、ライバルの戦略に影響されないよう集中することを心掛けています。

常に持てる力の100%を出し続けることがトップ・アスリートの必須条件。心が折れそうになること、後ろ向きになることはないのだろうか。


2010年8月、カヌー・スプリント世界選手権カヤック1人乗り1000メートルで優勝したホフ選手(中央)

最も大変なのは、日々のトレーニングにやる気を出すことです。体力を激しく消耗するスポーツなので、練習量は半端ではなく、内容もハードです。それも、大会へ向けての体力作りなので、たいてい退屈な練習の繰り返し。しかも、トレーニングに伴う体の痛みと毎日付き合う気にはなれませんよ。特に冬、大会シーズンはまだはるか先なのに、ひたすら同じ練習を繰り返すのは辛いです。トレーニングを怠らず、その効果を大会で発揮できるようにモチベーションを維持しようとすると、精神的に衰弱しますね。

でも、目標を見失ってはいけない。成功しているアスリートたちは、冬にこそ努力を怠らないものなので。来る夏に少しでも好タイムを出すために、必要な基礎体力をつけなければいけないと思っています。

テクニカルな面での得意、不得意は?

得意な種目は、カヌー1人乗り1000メートルです。短距離の種目では、今の自分が出せる限界以上のスピードと体力を要求されるので、記録を出すのが難しいですね。

不得意なことと言えば、スプリントが大の苦手。それから、身体を休めるタイミングをうまく計れない。休養は特にトレーニング期間中や大会前、体に再生の機会を与えるのに必要なプロセスなのですが、その時間が僕の場合しばしば短過ぎるんですよ。我慢できず、つい「もうトレーニングに行かなければ」と考えてしまってね。

失敗を次のモチベーションに変え、「穴」から這い上がる

練習は辛いと正直に言う。自分の弱点もちゃんと把握している。冷静に自己を分析できてこそ、成長し続けられるというもの。彼の強み、そして右肩上がりの成績の要因は?

自分の強みは、全く自分の意思でこのスポーツをやっている、本当にやりたいからやっている、というところだと思っています。僕の心はカヌーの虜で、とにかく夢中なのです。だからこそ、トレーニングにもやる気が出せる。しかも、集中して効果的な練習に取り組んでいると自負できます。それこそが成功の鍵なので。

年々成果を挙げている理由は、カヌーへの転向後も優勝を経験して自信が付いたから、そして年齢と共に自分のコンディションを高めるために過酷なトレーニングもやってのけられるようになったからでしょうか。あとは、神様の力もあるかも。こんなに調子が良いのは、幸運としか言いようがないです。

とはいえ、好調続きとばかりも行かないのがスポーツの世界。思うような結果が出せなかったとき、どのように気持ちを切り替えているのか。

大会での敗退は、次への成功の礎。失敗からモチベーションや精神的な強さを得ることが大切です。なぜ失敗したのかを理解し、そこから学習する、そして新たな目標を立て、少しずつまた意欲に変えていくことで、自分の中にできた失敗の“穴”から這い上がるようにしています。

アスリートとして、表彰台に立つときの高揚感ほど最高な気分はないだろう。その瞬間のために全神経をスポーツに注いでいるわけだから。目標を達成したという満足感や誇りは、次の目標を描く勇気を与えてくれると語るマックス。カヌーイストとして現役真っ只中にいる彼は、この競技の将来をどう見ているのか。

ドイツではカヌーというのはマイナーなスポーツで、興味を持つ人が多いとは言えません。もちろん世界選手権や五輪では、ドイツ・チームのレベルが比較的高いこともあって(僕たちが頑張っているので!)、観客もそれなりに多いですが。でも、国民の大半はサッカーやウインタースポーツに夢中なので、カヌーは市場に例えれば“ニッチ”の存在ですね。

ただ、あまり悲観はしていません。後継者は十分いますし、この種目を学校の授業の選択科目に取り入れていけるような基盤は整っていると思います。

マックスは昨年、国内のスポーツ選手が選ぶ「今年のチャンピオン」に選ばれ、本人の喜びのコメントと共に各メディアによって大々的に報道された。これは、どのような賞なのか?

この賞は、市民やジャーナリストではなく、スポーツ選手がその年に優れた成果を挙げた選手を選ぶというものです。市民による選考だと、そのスポーツや選手の知名度によって結果が決まることが多いですが、純粋に現役選手のみによって自分が選ばれたわけなので、とても誇りに思います。

スポーツ選手は、ほかの選手を本人よりも厳しい目で見ています。だから、隠れた才能を持つ選手やマイナーなスポーツ、その功績にも注目が集まり、評価されることもあるのです。ドイツのスポーツ選手の間では、実は最も有名で認知度の高い賞なんですよ。自分がそれを受賞できたことに、とても感謝しています。また今年も頑張ろうという気持ちにさせてくれました。

言葉の端々にカヌーへのストイックな情熱が垣間見られる一方で、どこか悠然とした余裕をものぞかせる。その余裕は、スポーツをするというよりも、人の力では動かせない自然と溶け合い、遊んでもらっているという感覚から来るのかもしれない。オフもヨットやサーフィンをして過ごす。とことん水が好きなようだ。そんなマックスが人生で大切にしていきたいものは「幸せ、健康、家族との時間」。ライン地方の雄大な自然が育んだ大らかな気風の持ち主に、発破をかけようと、「国を背負ってオリンピックに出るというのは、相当なプレッシャーなのでは?」と尋ねてみると・・・・・・

プレッシャーだなんて! むしろ、栄誉そのものです!! もし重圧に感じるようなら、そんなスポーツはせず、ほかのことをしてますよ!

ロンドンで、エネルギーを炸裂させる用意は整った。

最終更新 Dienstag, 06 August 2019 16:14
 

英国シルバー読解術 - 銀製品の見方

英国シルバー読解術 あなたも即席目利き

常に街のどこかでマーケットが立つ、アンティークの都、英国へひとっ飛び。
あちらこちらに佇む骨董屋では、色とりどりの陶器や古い家具、
絵画にペンにボタンまで、ありとあらゆる品物が歴史を背負って佇んで、
次のご主人様を待っている。
そんな中、雑多な品々に紛れて鈍い光を放つ、シルバー製品にご注目!
マーケットでは散(ばら)で売られていることも多く、
見方さえ心得ていれば意外な掘り出し物に出合えることも。
本特集では、英国シルバー製品の見方をご紹介。製品の背景が分かれば愛着もわくというもの。
にわか目利き気分で宝探しに出掛けよう。
(取材・文: Shoko Rudquist)

英国シルバー製品の「ホールマーク」って?

ホールマーク hallmark
シルバー製品の品質保証マークを付ける際に
使われる刻印

英国のシルバー製品は、古くから、世界に誇る品質を保っているとされる。それもこれも、数百年以上前から国単位で厳格な品質管理が行われ、厳正な審査にのっとった品質保証マークである「ホールマーク」が各製品に刻印されてきたからだ。そこでまずは、英国シルバー製品を見る上で最も重要な要素の1つと言える「ホールマーク」についてみていこう。

鍵は純度

英国ではゴールドと並び、ローマ時代から希少な貴金属としてもてはやされてきたシルバー。その価値の高さから12世紀にはすでに取引法が定められ、14世紀になると銀の含有率が92.5%を超えるものだけを正式なシルバー製品とする、という決まりもできる。日本でも耳にすることの多い「スターリング・シルバー(Sterling silver)」とは、この純度を持つシルバー製品のこと。欧州各国では、純度80%や83%のものもシルバー製品として扱われる中、英国では以来一貫してこの純度が保たれている。英国製のシルバー製品が世界にそのクオリティーを誇るのは、この厳格な制度のおかげだ。  

刻印

そしてこの頃から、各製品は生産者により品質が保証されていることを示す刻印が押されるまで出荷が許されなくなる。これが、「ホールマーク」の始まり。15世紀にはそれに日付を示す文字も加わる。つまり、この時期以降に製造された製品のうち現存する英国産シルバー製品のほとんどは、いつ誰がどこで製造したかが分かるということだ(ただ残念なことに、17世紀以前に使用されていたシルバー製品のほとんどは戦争の際に武器の原料として再利用されたため、現存しているものは少ない)。  

地域によって微妙な違いがあったホールマークの図柄が全国で統一されたのは、「ホールマーク法」が施行された1975年のこと。そしてこの法により、7.8グラム以上の重量があるすべてのシルバー製品は、ホールマークを刻印しない限りシルバー製品と呼んではいけないことに。英国内で流通するすべてのシルバー製品には、必ずホールマークが押されることになったのだ。

アセイ・オフィス

アセイ・オフィスによる刻印

厳格な分析・鑑定を行い、ホールマークを刻印することのできる機関は、国によって定められている。アセイ(試金)・オフィスと呼ばれるこの機関は現在英国内に4つ。1300年から鑑定を行い、1327年には国内初のアセイ・オフィスとして認知されたロンドン・オフィス、教会や家庭で使用される銀器が盛んに製造され、15世紀から鑑定が行われるようになったというエディンバラ・オフィス、1773年の創立時にはシルバー製造業が国内で最も栄えていたというバーミンガム・オフィス、そして燭台の製造で名を馳せ、バーミンガムと時を同じくして創立されたシェフィールド・オフィスがそれらになる。このほかにも、ヨーク、ノリッチ、エクセター、ダブリン、ニューカッスル、チェスター、グラスゴーといった町にもオフィスは存在したが、それぞれすでに閉められている。  

現存するほとんどのシルバー製品には、上記のアセイ・オフィスによる刻印が押されている。マークはオフィスによって異なり、どの街で鑑定された製品かが一目瞭然。併せて押される日付を示す文字(デート・レター)などまで読むことができれば、いつどこで生産され、品質が保証されたかがはっきりするという仕組みなのだ。

ホールマーク読解術

それでは、具体的にどうすればホールマークが読めるのだろう。1975年の法制定以降、ホールマークは、基本的に下のような形で並んでいる。左から、①メーカーズ・マーク、②スタンダード・マーク、③メタル & ファインネス・マーク、④アセイ・オフィス・マーク、⑤デート・レターだ。ここからは、これらのマークを詳しく説明していこう。

ホールマークの読み方

1メーカーズ・マーク
それぞれの生産者のマーク。通常、メーカーの名前が2、3文字のアルファベットに短縮された形で表されている。

2スタンダード・マーク
シルバー含有率92.5%を超える「英国品質」を保証するマーク。ライオンの全体像が描かれている。スターリング・シルバーと呼ばれるのはこれ(1974年頃までに製造されたものは、王冠をかぶったライオンの顔の場合も)。1975年以前のものには「ブリタニア像」と呼ばれる王冠をかぶったライオンの全体像(純度95.84%)が押されていることもある。

3メタル & ファインネス・マーク
シルバーの純度を表すマーク。
800 純度80%
925 純度92.5% スターリング・シルバー
958 純度95.84% ブリタニア・シルバー
999 純度99.9% いわゆる純銀

4アセイ・オフィス・マーク
どこのアセイ・オフィスでホールマークが押されたかが分かる。

The UK Assat Offices

● レオパード
ロンドン・アセイ・オフィス。1327年、英国で初めに分析鑑定の専門組織として承認されたオフィス。1697〜1719年は横向きのライオンが代用された。

● 錨
バーミンガム・アセイ・オフィス。シルバー製品の名産地だったことから1773年に創立。1973年の製品には創立200年を記念した特別印が押されている。ちなみに、錨マークが横向きになっていればその品はゴールドかプラチナだ。

● ヨーク・ローズ
シェフィールド・アセイ・オフィス。燭台の名産地として有名に。1974年12月までは王冠のマークを使用していた。

● 城
エディンバラ・アセイ・オフィス。シルバーの分析鑑定に関しては、15世紀半ばからの歴史がある。

5デート・レター
アルファベットと枠の組み合わせ。大文字だったり小文字だったり、ブロック体だったり飾り文字だったりと、様々なデザインで表される文字を、これまた様々な枠の形と組み合わせ、何年に刻印が押されたかを示す仕組み。ただしロンドン以外のオフィスでは、1999年以降はこの刻印付けが省略されている。

これらのホール・マークの組み合わせ次第で、いつ、どこのメーカーが作った製品か、そしてその品質までがはっきりと分かるというからくり、分かっていただけただろうか。また上記のほかにも、女王の即位記念日などがある年には「コメモレーション・マーク」が刻印される。女王が即位60周年の「ダイヤモンド・ジュビリー」を迎える今年2012年にも、もちろんこれを記念する刻印が用意されている。  

Bookただし、特にメーカーズ・マークとデート・レターに関しては、その種類が相当数に上るため、興味のある方にはオンライン・ショッピングのアマゾン(www.amazon.co.uk)などで5ポンド程度で購入できる、ホールマークの種類を図解したポケット・サイズの本がお勧め。小さめサイズなら、マーケットでの宝探しの際にも重宝する。また各地のアセイ・オフィスでも鑑定を受け付けているので、相談してみてもいいだろう。

英国シルバー豆知識

ホールマークについてのにわか知識は身に付けた。いざ、マーケットでお買い物! となったときに覚えておくと、もしかすると役に立つかもしれない豆知識をここではいくつかご紹介。ディーラーのおじさんやおばさんに舐められないよう、そして話を弾ませて値切りやすい雰囲気を作るため、ちょっとした物知り顔で参上しよう。

銀の燭台

銀の燭台

19世紀にガス灯が普及するまで、ほぼ唯一の照明器具だったろうそく。銀製の燭台も多く製造されたが、17世紀頃までは中心部が空洞だったため壊れやすく、今日手に入る銀製の燭台は主に17世紀以降に製造されたものがほとんどだ。蝋燭を立てる腕が2本以上ある燭台が誕生したのは17世紀後半。3本のものは18世紀後半、5本以上は19世紀になってからだ。

1853 10 Light Candelabrum, Hunt & Roskell

カトラリー

カトラリー

16〜17世紀初頭、人々は友人宅に食事に招かれると、自分専用のマイ・スプーン&ナイフを持参していたのだそう。フォークはまだ存在せず、代わりにナイフの先端が割れて、刺した物を持ち上げやすいようになっていたようだ。1660年以降に、先が2本になったフォークが登場。フォークの歯の数は3本、4本と、時代を追うごとに増していった。4本のものは基本的に1760年以降に製造されたもの。

1691 Treffid Spoon, Richard Sweet

牛のミルク差し

牛のミルク差し

英国に暮らしていれば、愛嬌のある牛の形をした、陶器製のミルク差しに一度は出会う。尻尾を持って傾けると牛の口からミルクが注がれるあの容器、元々はシルバー製品だ。1759年に、シルバー職人ジョン・シュッペによって製造された銀製のミルク差しは、19世紀になってイングランド中部ストラトフォードシャーの陶器メーカーらによってコピーされ始め、現在に至っている。

1758-1759, Creamer Jug in the Form of a Cow, John Schuppe

シノワズリ・モチーフ

シノワズリ・モチーフ

英国における紅茶の歴史は意外と浅く、17世紀後半に東洋の秘薬として売られ出したのが始まりだ。当初は高級食品だった紅茶は、貴族たちの間で大層もてはやされ、流行のデザインが施された美しい銀製の茶器が誕生する。そして、当時人気を博していたデザインと言えば東洋風のモチーフ、「シノワズリ」。初期のティー・セットは、意外にもアジアン・テイストのものがほとんどなのだ。

1747 Tea Caddy, Paul de Lamerie

アンティーク・シルバーを探しに行こう!

ホール・マークの読み方や英国シルバーの歴史がざっくり分かったら、あなたももう立派な目利き。以前はちんぷんかんぷんだったディーラーのおじさんやおばさんの説明にも、訳知り顔で頷けるはず。シルバー製品に関しては世界屈指の品質を誇るここ英国で、シルバー・アンティークを探すのに持ってこいの場をご紹介しよう。

掘り出す / 購入する

世界有数のシルバー専門店街
London Silver Vaults

London Silver Vaults本気で一生物のシルバー製品を探すなら、世界的にも有名なこちらへ。17世紀のアンティークからコンテンポラリーまで、シルバー製品だけを専門に扱うディーラーが店を構える専門店街「ロンドン・シルバー・ボルツ」だ。元大型信用金庫だった重厚な建物を再利用しており、セキュリティー万全の環境で、それぞれその道50年以上という30のディーラーがとっておきの製品をそろえている。中には、中国と日本のシルバー製品を専門に扱うディーラーなどもあり、よそではお目にかかれないセレクションが期待できる。定期的にエキシビションも開催しているので、購入はさておいても、まずは見識を高めに出掛けたい。

53-64 Chancery Lane London WC2A 1QS
Tel: +44(0)20 7242 3844
www.thesilvervaults.com
月〜金9:00-17:30 土9:00-13:00

立地最高!ハイソなマーケット
Grays

Graysロンドン市内中心、ボンド・ストリート駅のそばに位置するインドア型マーケット。元々はトイレのショールームだったという建物を、1977年、ベニー・グレイ氏なる英国人紳士が買い取り創立した。マーケットとはいうものの、各ディーラーがブースごとに店舗を構える小売店の集合体だ。2フロアに200以上のディーラーがひしめき合っており、陶器から家具、ジュエリーまで幅広い品揃え。30を超えるディーラーがシルバー製品を専門に扱っており、掘り出し物に出合える確率は高し。便利な立地を利用して、こまめに覗いてみよう。ちなみに地階では、北部ハムステッドから始まり市内の地下を貫くテムズ河の支流を見ることもできる。

58 Davies Street & 1-7 Davies Mews London W1K 5AB
Tel: 44(0)20 7629 7034
www.graysantiques.com
月〜金10:00-18:00 土11:00-17:00 日休

国内最大級インドア・マーケット
Alfies Antique Market

Alfies Antique Marketボンド・ストリート駅すぐのインドア・マーケット「グレイズ」の仕掛け人グレイ氏が、同館より先に自分の生まれ育った地区で手掛けたのがこちら。すっかり荒れ果てていた古いデパートを改造した、その規模は国内最大級というアンティーク・マーケット、「アルフィーズ」だ。「グレイズ」と同じインドア形態をとり、100以上のディーラーがブースを構える。レトロなファッション小物やインテリア小物があふれ、アンティークというよりむしろヴィンテージ色の強い品揃えながら、シルバーや真鍮(しんちゅう)製品に特化したお店も。シルバー製品目当ての訪問客が少ないからこそ、意外なお宝に遭遇する可能性に期待できそうだ。

13-25 Church Street London NW8 8DT
Tel: 020 7723 6066
www.alfiesantiques.com
火〜土 10:00-18:00

ストリート・マーケットの大御所
Portobello Road Market

Portobello Road Market言わずと知れた国内最大級の週末ストリート・マーケット。ロンドン西部のノッティング・ヒルから続くポートベロー・ロード沿いで、毎週土曜日に開催されている。19世紀後半に誕生した当時は食料を扱う露天商が中心だったというが、20世紀半ばにはアンティークの取引も行われるように。現在は、ノッティング・ヒル・ゲート駅に近い南寄りの通り沿いを中心に、平日も商いを行う骨董品店が軒を連ねるほか、土曜日にはカトラリーや食器類のアンティーク露天商も出店する。スプーンやフォークが束になって無造作に売られているのはストリート・マーケットならでは。じっくり品定めして、お気に入りを見つけよう。

Portobello Road London W11 2QB
Tel: 44(0)20 7229 8354
www.notting-hill.org
土 8:00-16:30

学ぶ / 鑑賞する

シルバーの専門家を目指すなら
The Goldsmiths’ Company

ロンドンのアセイ・オフィスを運営する「ザ・ゴールドスミスズ・カンパニー」が、現在、同組織最大の出資額を投じてロンドン東部のクラーケンウェル地区に建設中の、「ゴールドスミスズ・センター」。2012年初頭に完成予定のこの施設は、シルバーを初めゴールド、プラチナといった貴金属の専門家を目指す人たちを受け入れる学術機関となる。ワークショップやセミナー・ルームなどが完備されるのはもちろん、一般に公開されるエキシビション・エリアやカフェも備える。1872年に創立されたロンドンで最も古い寄宿学校の1つだった建物を再利用した、美しい外観も見もの。同組織のサイトで詳細をチェックして、完成後の雄姿をぜひ一目見に行きたい。

Goldsmiths’ Hall, Foster Lane London EC2V 6BN
Tel: +44(0)20 7606 7010
thegoldsmiths.co.uk
www.goldsmiths-centre.org

充実のコレクションで目を肥やす
Victoria & Albert Museum

英国屈指のシルバー・コレクションを誇るヴィクトリア & アルバート・ミュージアムでは、3階の「シルバー・ギャラリー」内で、世界各国から集めた、実に1万点以上の作品を展示している。中でも英国シルバーのコレクション数は、公的機関としては世界最大。欧州各地の作品も充実しており、希少な1400年代のものから鑑賞できる。アンティーク・シルバーの歴史を一望するには、これ以上の施設はないはず。マーケットでお気に入りの一品を見付けるまで、ここで審美眼を磨いておこう。

Cornwell Road London SW7 2RL
Tel: +44(0)20 7942 2000
月〜日10:00-17:45(金は22:00まで)
www.vam.ac.uk

カトラリーシルバー製品のお手入れ

シルバー製品と聞いて物怖じしてしまう人もいるかもしれないが、銀器は中世から日常的に使われてきた身近な道具でもある。多くのアンティーク・シルバーが出回っていることから、大切に使えば時代を超えて輝き続けるのは明らか。お気に入りのシルバー製品を長く愛でていけるよう、ここで基本的なお手入れの際の注意事項をまとめておこう。
  • 食器洗い機は避け、手洗いを厳守。その際、シルバーの変色を促すレモン成分が入った洗剤は使わないようにしよう。また洗った後は、手早く水滴をふき取ること。そのままにしておくと水滴のあとが残ってしまう。
  • 普段使いのシルバー・カトラリーは、毎回食事が終わったらすぐに洗い、水分を手早くふき取るだけで十分光沢は保たれる。あまり磨き過ぎると却って製品を痛めることになるので注意。
  • 塩は変色の最大の敵。塩用の小皿、ソルト・セラーなどに残った塩は、食事が終わったら毎回別容器に移し替えよう。セラーをきれいに洗うことも忘れずに。
  • シルバーの変色は、主に硫黄成分と空気中の水素成分によって促される。卵、タマネギ、マヨネーズといった食品は硫黄を含むため、変色を促しやすい。これらを使った料理をいただいた後は、何はともあれ即座に洗ってしまおう。
  • もし変色が進んでしまったら、シルバー専用の研磨剤を使って磨こう。シルバー製品を専門に扱うディーラーなら、手袋状になったものや布状のものなど、日常使いに適したものを扱っていることも多いので問い合わせてみて。ただし、高価なものは念のため専門家に頼むのも手だ。

英国シルバー、デザインの変遷

英国における、各年代の代表的なシルバー製品のデザインを紹介。
*カッコ内の記述は制作年と作者名

1450 銀の大杯 (1460、製作者不明) 銀の大杯

1500    
1550 1559年の戴冠式でエリザベス1世が使用したと伝えられているカップ
(1554、製作者不明)
カップ

1600    
1650 お粥用ボウル (1667、製作者不明) お粥用ボウル

1700 チョコレート用ポット(1717、Joseph Ward) チョコレート用ポット

1750 コーヒー・ポット(1796、Henry Chawner) チョコレート用ポット

1800    

1850
ティー・セット(1850、J. Angell) ティー・セット
1870 日本的な装飾が施されたトレイ(1877、Elkington & Co.) 日本的な装飾が施されたトレイ
1880 ワイン入れ (1880、Hukin & Heath) ワイン入れ

1900 ボウル(1902、C.R. Ashbee for the Guild of Handicraft) ボウル
1930 蓋付きボウル (1931、H.G. Murphy) 蓋付きボウル

1950 燭台 (1958、Robert Welch) 燭台
1960 昆虫を彷彿とさせるデザインのボウル (1962、Gerald Benney) ボウル

1990 エナメル加工された皿 (1999、Jane Short) エナメル加工された皿

2000 古代エジプトの女神、イシスの名が付けられたボウル
(2011、Abigail Brown)
エナメル加工された皿

©The Goldsmiths' Company

最終更新 Mittwoch, 07 August 2019 12:00
 

ベティー・ハイドラー - BETTY HEIDLER -ドイツ代表ハンマー投げ選手

ベティー・ハイドラー ドイツ陸上界期待の星ハンマー投げベティー・ハイドラー ドイツ陸上界期待の星ハンマー投げ

戦いの年が明けた。2012年、ロンドンで行われる夏季五輪に向けて、スポーツ界全体が盛り上がりを見せる中、ドイツでは陸上競技に熱い視線が向けられている。ロンドン五輪を占うと目された2011年大邱(韓国)での世界陸上で、金3つ、銀3つ、銅1つとメダルを量産。ドイツ陸上競技連盟(DLV)スポーツディレクター、トーマス・クアシルゲンは「ロンドンでは素晴らしい結果を残せるだろう」と胸を張った。  

2000年のシドニー五輪以来、12年も遠ざかっていたメダル獲得を目指すドイツ陸上界の、メダル候補の筆頭に挙げられるのが、先の大会で銀メダルを得たハンマー投の世界記録保持者、ベティー・ハイドラー選手。28歳と、今まさにアスリートとして旬を迎えている彼女に、ハンマー投という競技の魅力、そして五輪への想いについて語っていただいた。(編集部:高橋 萌)

BETTY HEIDLER
1983年10月14日、ベルリン生まれ。14歳のときに、友人の誘いで陸上競技の世界に入り、15歳でハンマー投を専門とすることを決める。2001、02年にユースのドイツ王者に、02~05までは、無敗のドイツ・ジュニア王者に君臨するなど、めきめきと頭角を現し、07年には世界陸上の大阪大会で優勝、10年には欧州選手権で優勝。11年5月21日に79.42メートルを投げて世界記録を更新し、世界トップの女子ハンマー投選手として、世界各国から注目されている。連邦警察官としての任務を担う一方で、ハーゲン通信大学にて法学の学士課程に在学中。現在、トレーニングと生活の拠点はフランクフルトに置いている。 www.bettyheidler.de

ハンマー投は、
心技体のすべてを必要とする種目

1983年、東ドイツ(DDR)統治下のベルリンで産声を上げたベティー・ハイドラー。東ベルリンの記憶は幼すぎたためほとんどないが、学校の体育の授業が、陸上から体操、球技まで多岐に渡り、しかも専門性が高かったことは印象に残っているという。様々なスポーツの専門教育を受けてきた中で、ハンマー投という種目に行き着いたきっかけは何だったのだろうか?

14歳で陸上競技のクラブに入りました。きっかけは仲の良い友達に誘われたことです。中でも投擲(とうてき)のグループが一番楽しそうだったので、そこに所属し、投擲種目全般に親しむようになりました。ハンマー投との出会いは15歳のとき。ベルリンでの競技会の後に、ハンマー投のコーチが「一度、私のところにトレーニングに来ないかい?」と誘ってくれたのです。その誘いを受けて、私はハンマー投の世界に入っていきました。

ハンマー投げ15歳にしてハンマー投の才能を見出されたベティー。ハンマー投の、どんなところに魅力を感じているのだろうか?

この種目の、心技体のすべてを必要とする複合性と、技術面での難易度の高さに魅力を感じています。自分を高めるためには、相当ハードに肉体を酷使する必要があり、技術面では正確性とリズミカルでダイナミックな動きを生み出す勘が求められるのです。そのため、トレーニングは多岐に渡ります。

そんなハードなトレーニングを楽しみながら、ハンマー投を始めて3年後には、ユースやジュニアの大会で好成績を連発。その後もとんとん拍子に国内トップに上り詰め、28歳の今、世界記録保持者として女子ハンマー投のトップに君臨する。トップレベルの結果を出し続けることの難しさは、想像を絶するものがあるだろう。そのモチベーションの源は?

自分のこれまでの実績や成功が、モチベーションの源です。また、トレーニングによって自分の可能性が広がっているという実感を持つことができれば、自分はまだまだやれる、もっと上を目指せると、自ずと闘志が湧いてきます。私にとっては、トレーニングも競技会も、アスリートとしての生活がもたらしてくれるすべてのことが楽しく、苦には感じないのです。

喜びと苦しみ、その経験と共に
ハンマーを投げる

ハンマー投の競技人口は、ドイツ国内でおよそ100人を数えるのみと言われる。高度な技術と成熟した肉体が必要な競技ゆえ、トレーニングの厳しさも折り紙付き。彼女はそれこそが魅力だと言うが、それでもハンマー投の競技者として苦悩もあるのでは?

もっとも難しいことは、トレーニングで培ったことのすべてを競技会で余すことなく発揮し、最高の記録を引き出すことです。日々のトレーニングは本当に楽しいものです。投げることに繋がる一連の動作のすべてが、私に喜びを与えるのですから。でも、結果が出なければだめです。技術なしには、この競技は成り立ちませんが、それだけでもありません。そこにダイナミックな肉体の力と、喜びや苦しみなど経験したすべての要素を加えてようやく、人より遠くまでハンマーを投げることができると思っています。

技術力のほかに大切にしていることは?

肉体的に、さらに作り込むこと。健康を維持すること。そして、自分の目標を見失わないこと! また、私を支えてくれる人たちの声によく耳を傾けること。彼らはいつも、私に大切なことを気付かせてくれ、重要なヒントを与えてくれるのです。

アスリートとしての顔のほかに、警察官としての身分を持つベティー。仕事と競技との両立は難しい?

連邦警察官の職に就きながらも、私はアスリートとして活動することを認められ、任務の一部を免除されているので、全く問題なくトレーニングに励むことができます。年に一度、自分が選んだ部署にて、1つの研修プログラムを修了しなければなりませんが、トレーニングの予定が空いている秋に行うなど、スケジュールを自分で管理できることも利点です。

アスリートとしての活動だけでは、経済的に不安が尽きないと言う彼女にとって、競技に集中させてくれる職業は、まさに天職。一方で、仕事からも、トレーニングからも離れたときは、どんな顔を見せるのか?

オフのときは、たくさん寝て、たくさんの本を読んでいますね。ショッピングに行くのも好きだし、友人や家族と時間を過ごすことも私の楽しみです。

昨年夏にヴェルト紙に掲載されたインタビューは、ドイツのカリスマモデル、ハイディ・クルムが司会を務めるテレビ番組“ Germany's Next Topmodel ”について聞かれるユニークなものだった。それによると、彼女はトレンドにも敏感な28歳。競技に臨むときは、ばっちりアイメイクを決め、カメラ映りだって気にする。ハンマー投の競技者として、普通の女の子よりも逞しい体つきをしている自覚はあるが、モデル体型には憧れない。その理由は、競技を通して精神的な満足感を得て、人生に必要なあらゆることを学んでいるから。

そんな彼女は、ハンマー投の選手としては小柄な175cmの身長に、バランスの取れた体型を誇るが、オフシーズンには筋肉が落ちて8キロも体重が減るという。今はまさに、冬のトレーニング期間の真っ只中。

私にとって、オフシーズンとなる冬の期間が一番ハードです。長い冬の期間、限られた環境の中でトレーニングに没頭しなければならず、ストレスが溜まります。でも、来るべき夏に、表彰台の一番高い場所に立つため、そして自分の目標を達成するため、自分を鼓舞激励し、トレーニングに打ち込んでいます。

一番に立つ、
それは本当に素晴らしい感覚

メダル我慢の冬を越え、表彰台のてっぺんに立つ。経験した者にしか分からない感動があるだろう。

「79.42メートル」。これが、昨年5月に私が叩き出した世界新記録です。この記録を樹立できたことを私は誇りに思うし、それによって、その試技で全力を出し切ったことを証明できました。表彰台に立つことは、自分がこれまでにやってきたすべてのことが正しかったことを示し、これまでのトレーニング、苦しみ、ひた向きさが、意味のあることだったと教えてくれるのです!

ベティーが記録を塗り替える前の世界記録はアニタ・ウォダルチク(ポーランド)の78.30メートル。これに1メートル以上も差を付け、夢の80メートルを目前にした大記録。日本記録が室伏由佳の67.77メートルであることからも、彼女のパフォーマンスがどれほどのレベルかが分かる。アスリート人生において、特に思い出に残っている瞬間は?

思い出に残るシーンは多々あります。その中でも最高の瞬間は、2007年の世界陸上での優勝です! そしてもちろん、世界新記録を生み出した瞬間。また、4位ではありましたが、2004年のアテネ五輪も深く印象に残っています。

2007年の世界陸上は日本・大阪での開催。彼女の目に、日本はどのように移ったのか?

日本は、ただただ素晴らしかった!そこでは、すべてが完璧。大会の進行も、人々の友好的な対応も。日本での競技会は文句なしに素晴らしい雰囲気でした。

世界陸上のほか、数々の世界大会で表彰台の常連である彼女も、オリンピックでは、まだメダルなし。今回のロンドン五輪に懸ける想いは?そして、そこで勝つために必要なこととは?

まず、77メートル以上の投擲は必須だと思います。昨年の世界記録の更新により、女子ハンマー投選手として、初の80メートル台という快挙も近付いていますが、私の今の一番の目標は、ロンドン五輪でメダルを勝ち取ることです!ドイツ代表のユニフォームを着ることを許される。そのことが私にとって大きな名誉であり、また、連邦警察官としても、ドイツという国を代表する立場で、競技に臨めることを誇りに思います。

ハンマー投げ

五輪では誰がライバルになる?

近年、ロシア、ポーランド、中国、キューバは強豪が揃っています。彼らが私の最大のライバルです。

アスリートとしての目標、そして、その先にあるものは?

まずは、より良いパフォーマンスを目指して日々努力し、様々な名立たる選手権大会で成果を挙げること。世界一になること。トップに立つ、それは本当に素晴らしい感覚です。そのためにトレーニングをしているといっても過言ではありません。職業の面では、まだまだやるべきことがあります。連邦警察官という職に就けて、私は幸せです。その傍らで法学を学んでいるので、大学を卒業することも目標です。

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くせのある赤毛を頭のてっぺんで1つにまとめたベティーが、サークルの中でトルネードのようにパワフルに4回転し、ハンマーを天に向けて放つ。その一連の動作は、まさに一寸の隙も、迷いもなく美しい。サークルを出れば、天真爛漫な笑顔を周囲に向ける余裕を持てるのは、彼女が成熟した精神力を持ち合わせているから。ハンマー投という競技に向ける、純粋過ぎるほど一途な姿勢を貫き、ベティーは今、ひたすらにロンドン五輪を目指し戦っている。

競技解説
陸上競技の投擲競技に属する種目ハンマー投は、アイルランド発祥のスポーツと伝えられている。ハンマーは、ワイヤーの先に砲丸が付いているもので、ワイヤーの長さは男子で1.175~1.215メートル、女子で1.160~1.195メートル、ハンマーの総重量は、男子で7.260キロ、女子が4キロと定められている。直径2.135メートルのサークルから回転しながら投げ、角度34.92度に広がるラインの内側に入ったものが有効となる。日本人選手としては、室伏広治が2004年のアテネ五輪で優勝、11年世界陸上で優勝するなど活躍している。

最終更新 Dienstag, 06 August 2019 16:29
 

正月なのに:暗いドイツから、暗い日本へ - 神尾 達之

©Maki Shimizu

正月なのに:暗いドイツから、暗い日本へ

作曲家シューベルトの『冬の旅』に収められた「三つの太陽」は、「Im Dunkeln wird mir wohlersein.(暗闇のほうが気分もいいだろう)」で結ばれている。ひょっとすると、ここにはドイツ人の美意識が端的に表れているのではないかと思ったのが、初めてドイツで冬を過ごした時のことだった。ドイツの冬は本当に暗いから、暗さそのものを逆転の発想で快感の原理にしなければならないという倒錯が起こるのかもしれないと考えたのだ。ドイツに留学したのは1980年代半ばのことだったが、教室や図書館が暗いのに驚いた。アジアから来た留学生の中には、ドイツに来てから視力が落ちたと嘆く人もいた。帰国後、私も眼鏡の度数が上がった。レストランや居酒屋だけでなく、自宅に招待された時でも、室内の照明はおおむねロウソクによるものだった。だが、その暗さは決して不快なものではなく、むしろお互いの距離が縮まる心地良い雰囲気を醸し出してくれた。これこそドイツ語で言う“gemütlich”な空間だと実感した。その暗さの中では、人と人は外見によってではなく、声によってつながる。言葉によってつながる。昼間のゼミで、すべてを正確に言葉にすることが求められたのと同じように、晩の憩いの時間にも言葉が人と人とをつないだ。『魔笛』のパパゲーノは黙っていることを罰として命じられたが、沈黙が罰であるのはこの暗い空間の中では当然なのかもしれない。いずれにしても、ロウソクの明かりを挟んで向き合う空間の暗さは、日本人の私にとっても心が落ち着くものだった。

2011年は、日本でも照明が暗くなった。3月11日以降、節電が必要になり、私の研究室の前の廊下も暗くなった。蛍光灯が1つおきに点灯されるようになったからだ。場所によっては町全体が計画停電で暗くなったところもあった。この暗さは、東日本大震災がもたらした日本の未来の危うさを象徴していた。閉店法(Ladenschlussgesetz)がない日本では、それまで幸いにして(?)四六時中、コンビニエンスストアだけでなく、いたるところで人工的な明るさを維持することが可能だった。それが「3.11」以降、不可能になった。電力消費量が上昇する冬には、日本は再び暗さを受け入れなければならない。

©Maki Shimizu

 

新年早々、暗い話になったことをお許しいただきたい。だが、本稿を執筆中の2011年11月現在、2012年に向けた年賀状には、例年のようにほぼ自動的に「明けましておめでとうございます」と書く気持ちになれない。確かに、新しい年が始まることそのものを無邪気に喜ぶことは悪くない習慣だ。去る年をいわば「ちゃらにする」ことで、新年は心機一転、新たな気持ちで出直そうという心意気そのものは、決して責められるべきものではない。そのようなオプティミズムこそが、未来に向かう原動力になることは否定できない。しかしながら、「明けましておめでとうございます」は、字義通りに理解すれば、去る年の記憶を洗い流すことを前提にしているように思われる。

ドイツ語では、新年の挨拶は「Ich wünscheIhnen ein glückliches neues Jahr!(幸せな新年をお祈りいたします)」だろう。ここでは、去年がようやく終わり、新しい年になったというニュアンスは強くない。ドイツでは過去を忘却することは、最も戒められるべき姿勢の1つである。「ちゃらにする」ことはできないのだ。直近の例を挙げよう。シュピーゲル誌の2010年第37号には、日本を代表するアニメーション作家の宮崎駿監督を紹介する記事が掲載されていた。その時点での宮崎監督の最新作は『崖の上のポニョ』だった。その記事の中で彼は、この作品において「大きな波」というモチーフがポジティブな意味を持っていると語っている。同誌の2011年第12号の表紙には、“FUKUSHIMA”というアルファベットの背後に、福島第1原子力発電所の忌まわしい姿が浮かび上がっているが、この号でも前年の宮崎監督の「大きな波」についての発言が再び引用されている。そこには主張の一貫性を求めるような強い調子はないし、宮崎監督の発言が批判されているわけでもない。しかし、私はこの記事を読んで、ドイツ人にとって忘却がいかに困難であるかをひしひしと感じた。過去を忘れることはできないのだ。だから、年が替わっても明けない。これがドイツ人の、少なくとも第2次世界大戦後の時間感覚なのかもしれない。

1995年の阪神・淡路大震災を経験したノンフィクションライターの松本創氏は、目下、東日本大震災の被災地を取材している。『G2』vol.8に掲載された記事によれば、かつての大震災で彼が感じた「最大の敵」である「風化」が、東日本大震災に関しては、すでに始まっているという。

このところ、私の研究室の前の廊下では蛍光灯の明かりが再びこうこうと照らされるようになった。明るさは忘却の証なのかもしれない。しかし21世紀の日本は、忘却が許されない暗い国ドイツから、明るさと暗さについて、そして忘却と記憶について、多くのことを学ばなければならないだろう。それは、必ずしもドイツを模範とすべきということではない。しかしながら、日本が「忘れない暗い国ドイツ」から持続可能な明るさの条件を学び取った時にこそ、後ろめたさを感じずに「明けましておめでとうございます」と書くことができるはずだ。そう言えば、2011年、なでしこジャパンはドイツから日本に、希望の光をおみやげに持って帰ってきてくれたではないか。2012年にはブンデスリーガで活躍する香川選手や長谷部選手らが、新たな光をドイツから日本に運んでくれることを期待しつつ、新年を迎えることにしたい。

神尾 達之(かみお たつゆき) 早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門は身体表象論と文化学。著書に『ヴェール/ファロス 真理への欲望をめぐる物語』(ブリュッケ、2005)『纏う 表層の戯れの彼方に』(水声社、2007;共著)『Schriftlichkeit und Bildlichkeit』(Wilhelm Fink、2007;共著)など。

最終更新 Freitag, 06 Januar 2012 14:31
 

永里優季インタビュー

永里優季インタビューYuki Nagasato

「インタビューの前に少し筋トレをしたいのですが」。チーム練習の後、初めてお会いした永里優季選手は、そう言って奥から大きな鉄アレイを取り出して来た。ほかのチームメートが帰った後も、広いグランドの脇で1人黙々と肉体強化に励む姿がとても印象的だ。やがて、晴れやかな表情で現れた彼女。2010年1月より女子ブンデスリーガ1部の強豪トゥルビネ・ポツダム(1. FFC Turbine Potsdam)でプレーし、11年に女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で優勝を果たした「なでしこジャパン」のメンバーでもある永里選手に、ドイツでの生活からサッカー観まで、たっぷり話を伺った。 (インタビュー・構成:中村真人)

ながさと ゆうき
ながさとゆうき1987年7月15日生まれ。神奈川県の厚木東高校出身。2000年、13歳で日テレ・メニーナに入団。 2004年には日本女子代表に初選出。16歳で日テレ・ベレーザに昇格。 2011年9月までに75試合に出場、32得点を挙げている。2010年、ドイツのトゥルビネ・ポツダムに移籍。ここで、日本人として初の欧州CL優勝を果たした。2011年W杯ドイツ大会では全試合出場、1得点を挙げ、日本の優勝に貢献した。
トゥルビネ・ポツダム: www.ffc-turbine.de

トゥルビネ・ポツダムと女子ブンデスリーガ

「感覚でプレーしないとフットボールが成り立たない」

2010年からドイツでプレーされていますが、どんな思いがあってドイツに来ることになったのですか?

中学生の頃から海外でプレーしたいという思いを持っていました。サッカーが文化として根付いているヨーロッパ、その中でも一番レベルが高いのがドイツで、そこで自分を成長させたいと思ったんです。

トゥルビネ・ポツダムを選んだ理由は?

もう1つ別のチームからもオファーはあったのですが、単純にポツダムのレベルの方が高かったので、こちらを選びました。

永里優季選手先ほどトレーニングを見学させていただいて、素晴らしい環境の中でプレーされているなと感じました。チームの下部組織の10代の女の子たちも同じフィールド内で練習していましたね。サッカーを取り巻く環境は、日本とは大分違いますか?

ドイツに来る前、日本で所属していた日テレ・ベレーザの環境がとても良かったので、正直そこまで大きな違いは感じなかったというか……。環境によってそれぞれの良さを見出せばいいので、(日本とドイツを)比較して見てはいないですね。ただ、ドイツでは1つの文化として女子サッカーが根付いていることは間違いありません。サッカー人口にしても、確か日本は2万5000人、ドイツは20万人だったかな?そのくらいの大きな違いがあります。

では、日本とドイツのプレースタイルの違いはどうでしょうか。求められるものに違いはありましたか?

ありました。最近感じるのは、ドイツのサッカーはシンプルで、前(の方向)に速いサッカー。日本にいた時は、ボールを持ってから多少考える時間があって、スペースにも余裕を持った状態でプレーできてしまう。ドイツでは、そこで考え たりするとチームのリズムが狂ってしまいます。判断、パス、ランニングなど、すべてにおいてスピードが求められるし、動きながらプレーしなければならない。感覚でプレーしないとフットボールが成り立たないんです。

選手同士の意思疎通も感覚によるものが大きい?

試合中も、その場その場で感じたままにプレーをしています。言葉よりもピッチ上で感覚的に分かる部分が大きいですね。むしろ、言葉を使わないでコンビネーションが取れてこそ、フットボールだと私は思っています。

この2年の中で成長したと感じる点は?やはりプレーのスピードでしょうか?

その部分は大きいですし、プレーがシンプルなだけに、得点を奪う感覚がより引き出された気がします。もともと持っていたものがより洗練され、自分の意図した形で、意識して点を取れるようになりました。だから、ゴールが生まれた理由は全部説明が付けられます。

女子チャンピオンズリーグの対グラスゴー(英国)戦をスタジアムで観戦したのですが、そこでも2得点を決めましたね。

チームメートのFW(6番のアノンマ選手)が純粋な点取り屋タイプなので、彼女のコンディションによって自分の役割も変えざるを得ない。得点も狙いたいけれど、その役割だけに徹してしまうとほかが成り立たないので、バランスを取りながら、守備に回る場合もあります。「チームメートに点を 取らせる一方で、自分もいかにして点を取れるか」が、今の自分のテーマ。そして、流れを生み出すプレーをしたい。例えば、縦パスを一本受けたり、サイドで起点になったり。そういったプレーがあると、周りの選手も流れに乗って、チームの状況が変わってきますから。

ポツダムでの生活

「勉強するのは好き」

永里選手のブログをよく拝見していますが、内容が哲学的であったり、詩のようであったり、ほかのスポーツ選手とは少し違うなと感じました。

自分で「考える」ことがもともと好きなんです。ただ、本はほとんど読みません。自分の経験したこと、感じていることをそのまま言葉にしているだけですね。ブログとツイッター、あと自分のノートを組み合わせて思考の整理をしています。

移籍してから間もなく2年が経ちます。ポツダムでの生活は満喫されていますか?

日本よりもこちらのほうが住みやすいです。サッカーの環境も抜群だし、ポツダムはとても静かで、街の人もやさしい。サッカーに集中できる環境ですね。住まいもトレーニング場から歩ける距離にありますし。

オフの日はどう過ごされていますか?

試合の前日がオフなのですが、過ごし方は大体いつも同じで、午前は家、午後はブランデンブルク通りにあるお気に入りのカフェに行きます。

サッカーは、お兄さんの影響で始められたとか?

実を言うと、小学校1年生の時、父に説得されていやいや始めました。兄(永里源気)はFC東京、妹(永里亜紗乃)も日テレ・ベレーザに所属するサッカー選手です。

ドイツ語の勉強はどのようにされていますか?語学学校などに通われたのですか?

はい、ドイツ語の学校には週3回、今でも通っていて、毎回4時間の授業を受けています。私の場合、例えばピッチの上で話されていることが分かればいいと思っていて、言葉を理解するためにドイツ語を勉強している感じですね。あとは日常生活で困らないために。基本的に勉強するのは好きなので、語学の勉強も苦ではないんです。ピッチ上で話されるドイツ語は、ほぼ理解できます。

語学のセンスに優れているのでしょうね。

うーん、どうでしょう。耳がいいのかな。4歳からピアノを11年間ぐらいやっていたので、それが生きているのかもしれません。サッカーよりピアノを先に始めたんです。

ワールドカップ優勝

永里優季の2011年とサッカー観

「1つ信念を持って挑んだ」

昨年、トゥルビネ・ポツダムが女子ブンデスリーガで優勝を決めたのは、東日本大震災の直後だったと聞いています。

優勝を決める試合が行われたのが、震災の2日後だったんです。日本代表のポルトガル遠征から帰って来た次の日でした。

あの試合には、特別な思いがあったのでは?

そうならざるを得ない状況だったし、試合前にスタジアムの全員が黙とうをしてくれて、感慨深かったです。自分のチームと日本のためにプレーをしようと思いました。表彰式の時に、ヴルフ大統領に励ましの言葉をかけていただいたことも印象に残っています。

なでしこジャパンのW杯優勝は、日本の国民に大きな力を与えるものでした。振り返ってみて、個人的にはどのような大会でしたか?

チームとしての目標とは別に、自分の目標を持って挑んだ部分があって、大会を通して(目標に向かって)やり抜くことができた。それによって、新たな目標を見付けられたのが一番大きかったです。自分の中で1つ信念を持って挑み抜けたことがW杯での収穫です。

自分の目標だったものとは?

ドイツのサッカーを経験して、自分のサッカー観がガラっと変わりました。「フットボールとは何か」について、考えるようになったんです。正直、ここでプレーしている自分のすべてを日本のサッカーで出すことはできない。サッカーの考え方、戦術、システム、チームメートのプレーが、みんな違うからです。でも、日本のサッカーに合わせて個を消すのではなく、ドイツで見付けた自分の力を日本のサッカーで表現し続けたい、というチャレンジでした。結果的に、現段階でそれは難しいということが分かりました。それをやり続けたことによって、ドイツ戦(準々決勝)の前半で交替させられ、最後の2試合はベンチスタートになってしまった。でも、そこには自分として貫いた部分があったので、後悔はしていません。

自分が出したいものとチームの求めるものとの間で、せめぎ合いがあったのですね。

守備に回る時間の方が長くなり、結果、攻撃の部分で力を発揮できなかったのは確かです。日本のサッカーでは、FWに求めるのもまずは守備。もちろん、守備をしなければならないのは当然ですが、その方法が違います。日本では、数的優位を作ってボールを奪いにいく。ポツダムの守備は1対1を重視し、相手をどれだけ上回れるかということの連続。それだけ攻撃に掛けられる割合も多くなります。むしろ「下がってくるな!」と言われるほど。つまり、1人ひとりの責任が明確なのです。

永里選手が目指す理想のサッカーとは?

私は、自分でやっていても、見ていても楽しいサッカー、観客を「フットボール」として魅了できるサッカーをしたいと思っています。サッカー選手は表現者だから、フットボールの本当の魅力を表現すべき。守備的なサッカーには魅力を感じません。攻撃的でアグレッシブなサッカーが人を惹き付けるし、やっていても面白い。

新年に向けて

「継続して積み重ねていくこと」

2012年はロンドン五輪の年。多くの日本人がW杯の再来を期待していると思います。

トゥルビネ・ポツダム

出場国も全部決まっていない段階ですし、五輪のことはまだほとんど考えていません。もちろん、やるからには優勝を目指しますよ。チームのタイトルは後から付いてくるので、自分の目指すものがチームの目標につながっていけばいいですね。

永里選手の今年の抱負をお聞かせください。

リーグ戦は年をまたぐものなので、年が変わっても、大事なのはいつでも「継続して積み重ねていくこと」です。先ほどお話ししたように、今の私の課題は「中盤をサポートする時間帯が増える中でも、自分が得点を奪う時間を見付ける」ということですが、シーズンを通して目標、課題は変わっていきます。ピッチ内で起きている現象に対して、その時々で課題を見付けて取り組む。目標は1つではないし、いくつかの目標を同時進行していくものです。あとは単純にゴールを積み重ねることですね。今季は30ゴールが目標。それを目指す過程でいろんな感覚、経験を手にしていければいいなと思います。そして、確信できることを増やしたい。自分のゴール、ピッチで起きている現象をすべて言葉で説明できるようになりたいです。

感覚でサッカーをするという話が先ほど出ましたが、一方で「言葉にする」ことにも強い熱意を持っているのですね。

そうですね。自分が経験したことを言葉にできないと、社会に対して還元していくことはできませんから。

インタビュー中、20代前半の女性アスリートと話しているとはとても思えないと感じる瞬間が多々あった。とにかく徹底的に考える人だ。自分が感じたこと、考えたことだけを正直に話そうとする。そのまっすぐさ、潔さには感銘さえ受けた。最後に読者向けの新春のメッセージをお願いしようとしたが、ありきたりの言葉は彼女の口から出てきそうになかったし、すでに大事なメッセージは発せられていたのかもしれない。「年が変わっても、その時々で課題を見付けて、継続して積み重ねていくこと」。1人で黙々と筋トレをしている様子が脳裏に浮かぶ。永里選手の2012年の進化が楽しみだ。

最終更新 Dienstag, 06 August 2019 16:39
 

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