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特集


ドイツを代表する世界を変えた6人の天才科学者

科学の進歩は何をもたらすか?ドイツで活躍した科学者たち

アインシュタイン、レントゲン、コッホなど、後世に名の残る科学者たちを数多く世に送り出してきたドイツ。彼らが世界を変える大発見や、世の中を便利にする技術を生み出してきた一方で、科学技術が戦争に利用されるということが歴史上繰り返されてきた。本特集では、近代以降ドイツで活躍した天才科学者や、世に知られることのなかった女性科学者たちの姿を通して、科学の発展が人類にもたらす光と影について考えたい。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、Illustration:©️Kanako Amano)

ドイツで活躍した科学者たち

ドイツの科学界を支えた科学アカデミーの歴史

全ての科学者の憧れといっても過言ではないノーベル賞。1901年に設立されて以来、化学・物理学・医学の分野で80人以上のドイツ人にノーベル賞が授与されてきた。そんな受賞者たちを多く輩出してきた機関の一つが、プロイセン科学アカデミー(現ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー)だ。300年以上の歴史を持ち、ドイツの科学界の発展に貢献してきた同アカデミーの歴史をひも解く。

ライプニッツが見出したアカデミーの必要性

ライプニッツの肖像(1695年)ライプニッツの肖像(1695年)

プロイセン科学アカデミーの立役者となったのは、G.W.ライプニッツだ。ライプニッツは、1646年にライプツィヒに生まれ、数学や物理学をはじめ、形而上学や倫理学、政治学、歴史学など、あらゆる分野で活躍した人物。同時代の著名な知識人ほぼ全員と交流があったといわれるくらい活動的で、マインツ選帝侯やハノーファー選帝侯のもとで活躍した。

ライプニッツはマインツ選帝侯の外交官として働いていたころ、パリやロンドンのアカデミーの会員となった。啓蒙思想を掲げる君主の庇護のもと、研究活動に専念する他国の科学者や哲学者と交流するなかで、ドイツでもアカデミーをつくることを展望するように。そんなライプニッツは当時、次のように述べている。

「ドイツの実際生活は依然として元のままで、発明は人間生活の幸福や豊かさに有用化されていない。そのためには、ドイツ人は、隣国のようにアカデミーを設置する必要がある。アカデミーをつくれば、経験を伝えあい協同精神を目覚めさせ、発明家たちの経験や発明を有用化させることができる」

そして1700年、ライプニッツはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世からベルリンに招かれ、アカデミーの必要性を訴えた。その意義を認めた選帝侯は「ブランデンブルク科学会」を設立し、初代会長にライプニッツを任命。その後、プロイセン王国が成立し、何度か名称を変えたのち、「プロイセン科学アカデミー」と呼ばれるようになる。

20世紀のドイツ科学の象徴に

プロイセン王国は神聖ローマ帝国の中にありながら、徐々に中欧での強権体制を形成していった。そして19世紀初頭にはナポレオンの侵攻により、国家体制の再構築が行われることになる。こうした国の変革はもちろん、プロイセン科学アカデミーにも影響が及ぶ。アカデミー会員だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの主導でベルリン大学(現フンボルト大学)が創設され、研究施設は大学に移されたのだ。そのため、アカデミーは会員の研究成果の発表をはじめ、討論会や会議を開くことで、科学の進歩で重要な役割を果たすようになる。

プロイセン科学アカデミーは、1901年から始まったノーベル賞の受賞者を多数輩出したことで、世界的にも注目されるようになった。第1回ノーベル賞では、アカデミー会員のヴィルヘルム・コンラート・レントゲンが物理学賞、エミール・アドルフ・フォン・ベーリングが医学賞、ファント・ホッフ(オランダ人)が化学賞をそれぞれ受賞。その後、毎年のように会員から受賞者を出し続け、そのなかにはロベルト・コッホマックス・プランクアルベルト・アインシュタインといった科学者たちも含まれる。こうしてプロイセン科学アカデミーは、20世紀のドイツ科学の興隆を象徴する存在となったのだった。

アカデミーの負の歴史、そして未来へ

しかし、1933年にナチスが政権を取ってから、ユダヤ人の排斥が始まった。国家の科学介入によって、アインシュタインはアカデミーからの脱退を表明。ドイツ科学の栄光を築いた多くのユダヤ人が国を去った結果、ナチス政権下のドイツは科学の発展の可能性を狭めることになった。第二次世界大戦が終わると、ナチ同調者が追放され、アカデミーの組織は根本的に再編されることになる。アカデミーは追放した会員のうち、生存していた5人に対して復帰を提案しているが、そのうちの一人であるアインシュタインだけはその申し出を断ったという。

東西分断に伴い、旧東ドイツ(DDR)ではDDR科学アカデミー、西ドイツ(BRD)ではBRD科学アカデミー会議という名称で、それぞれ活動が続けられた。東西統一後はDDR科学アカデミーが解体され、1992年にベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーとして新たなスタートを切ることになった。

ベルリンのジャンダルメンマルクトに位置するベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーベルリンのジャンダルメンマルクトに位置するベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー

この300年間に国内外の全科学分野から3500人以上が選出され、現在はおよそ400人が会員として所属する。研究の大部分は、連邦および州からの資金提供を受けている。また、2000年には国立科学アカデミー・レオポルディーナと共に、「Die Junge Akademie」(若手アカデミー)を設立。これは、優れた若手科学者を育成するためのプログラムで、若手育成のための国際的なロールモデルとなった。現在も創始者ライプニッツの理念「Theoria cum praxi」(理論と実践)に基づき、科学と一般の人々の懸け橋を担っている。

参考:Berlin-Brandenburgische Akademie der Wissenschaften ホームページ、木本忠昭「ベルリン科学アカデミー ドイツの科学アカデミー、その(2)」、Tagesspiegel「NS-Zeit: Akademie der Wissenschaften Berlin arbeitet Geschichte auf」

ドイツを代表する世界を変えた6人の天才科学者

近代以降、数多くの優秀な科学者を輩出してきたドイツ。そのなかでも特に著名な科学者6名の功績について、その人生と共に紹介する。

貧しい家庭から生まれた「数学の王子」1. カール・フリードリヒ・ガウスCarl Friedrich Gauss(1777-1855)

カール・フリードリヒ・ガウス

ブラウンシュヴァイクの貧しいれんが職人の家に生まれたガウスは、幼少期から数学と言語学で才能を発揮。例えば子ども時代に学校で、「1から100まで全ての数を順次加えるといくつになるか」という問題に、101の集まり(1+100、2+99、3+98...)が50個なので「50x101=5050」と瞬時に計算したという。才能を見出されたガウスは、ブラウンシュヴァイク公フェルディナンドから経済的支援を受けて、ゲッティンゲン大学へ進学。19歳のときに定規とコンパスによる正十七角形の作図に成功したほか、代数学の基本定理の証明、非ユークリット幾何学、曲面論など数々の研究成果を上げた。

近代の数学と科学の多くの分野で顕著な影響を与えたことから、「数学の王子」と呼ばれるガウスだが、研究の成果を得ることに最大の喜びを感じていたため、他人からの評価を必要とせず、自身の成果全てを公表したわけではなかったという。また1820年にハノーファー王国からブラウンシュヴァイクの領土調査を依頼されたことから、ガウスは小さな面積でも正確に地図上に位置づけることができる座標系を開発。同市内のガウスベルクパークには、いくつかの測量石が残っており、ガウスがかつて市の防御の要であったこの高台を利用して、測量システムをテストした様子を物語っている。

参考:ndr.de「Gauß: Das Genie vom Zehn-Mark-Schein」、braunschweig.de「Gaußbergpark」

平和を愛した物理学者2. アルベルト・アインシュタインArbert Einstein(1879-1955)

アルベルト・アインシュタイン

ウルムのユダヤ人家庭に生まれたアインシュタインは、子どもの才能を伸ばしたいという両親のもと、のびのび育てられた。15歳でスイスに移住し、スイス連邦工科大学を卒業。その後は特許庁に勤めながら研究を続け、1905年に「特殊相対性理論」を発表し、物理学に革命をもたらした。1914年にマックス・プランクの誘いによりベルリンのプロイセン科学アカデミーの会員となる。「一般相対性理論」をはじめとした研究成果を上げ、1921年にノーベル物理学賞が授与された。しかし、ナチスが政権を取った1933年にアカデミーを追放され、米国に亡命。第二次世界大戦後は原子力の平和利用を訴え、1955年に76歳で亡くなった。

1927年に行われた、物理学に関する会議である「ソルベー会議」。最前列の左から二番目にプランク、5番目にアインシュタインが写っている1927年に行われた、物理学に関する会議である「ソルベー会議」。最前列の左から二番目にプランク、5番目にアインシュタインが写っている

スイスの首都ベルンには、アインシュタインの銅像やミュージアムがあるほか、特殊相対性理論を完成させた際に住んでいた家(Einstein Haus)が残っている。またベルリン時代にポツダム郊外のカプート村に建てられた別荘(Einsteinhaus in Caputh)が、現在も見学可能だ。一人の時間も大切にしていた彼は、寒い時期を除いてほとんどこの家で暮らしていた。一方で、科学者、活動家、哲学者、ジャーナリスト、芸術家など、さまざまな分野の友人たちを招き、宗教や政治の問題、とりわけ戦争や人種差別について語り合ったという。

参考:planetwissen「Persönlichkeiten Albert Einstein」、LeMO - Living Museum Online「Albert Einstein 1879-1955」

ナチスに抵抗しドイツの科学を守った3. マックス・プランクMax Karl Ernst Ludwig Planck(1858-1947)

マックス・プランク

キール出身の理論物理学者であり、量子論の創始者の一人。プランクが9歳のときに一家でミュンヘンに移住し、ミュンヘン大学やベルリン大学で学んだ。1895年ごろから黒体放射に関する研究を始め、1900年に放射に関する法則(プランクの法則)を導き出す。これらの功績により、1918年にノーベル物理学賞を受賞した。その後、1930年にはカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長となるが、ナチス政権の台頭により、シュレディンガーやアインシュタインなど親交のあったユダヤ人科学者らが追放される。プランクも辞職を考えたが、政府によって後任に好ましくない者が就くよりも、若いドイツの科学者を導くことを優先すべきと考え、残ることにした。

プランク自身はナチス政権への協力を拒否し続けた。1943年のベルリン空襲で住居が全焼し、さらにヒトラー暗殺計画に加担した疑いで息子を逮捕・処刑されるなど、老齢のプランクは心身共に疲弊した。戦後、カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会は再建されることになったが、占領軍がその名を使うことを禁じたため、マックス・プランク学術振興協会へと改名されたのだった。90歳を超えたプランクは1947年9月にキール市から名誉市民の称号を与えられ、その翌月にゲッティンゲンにて死去した。

参考:ndr.de「Max Planck: Mit Quantentheorie zum Nobelpreis」

細菌学の第一人者4. ロベルト・コッホMax Robert Koch(1843-1910)

ロベルト・コッホ

ハルツ地方のクラウスタールという村に生まれたコッホは、ゲッティンゲン大学で自然科学を学び、その後医学の道へと進んだ。医師として働くと同時に研究も行い、1876年に炭疽菌を発見し、細菌が感染症の原因であることを初めて証明した。1880年にベルリンの帝国衛生局の医官に任命され、1882年には結核菌、1884年にはコレラ菌を発見。1891年には、新設された王立プロイセン感染症研究所(現ロベルト・コッホ研究所)の所長になった。1905年に結核研究の功績が認められ、ノーベル医学・生理学賞を受賞。晩年は研究だけでなくプライベートでも世界中を旅しており、かつて自分の研究室で働いていた北里柴三郎を訪ねて日本に滞在したこともある。そして1910年、バーデンバーデンで療養中に、66歳でその生涯を終えた。

ロベルト・コッホ研究所内のミュージアムでの展示ロベルト・コッホ研究所内のミュージアムでの展示

コロナ禍では、ベルリンのロベルト・コッホ研究所(RKI)はドイツ政府の公衆衛生研究機関として、新型コロナウイルス感染症に関する知見から、最新情報の提供、勧告などを行ってきた。RKI内にはミュージアムがあり、感染症や予防に関する展示が観られるほか、コッホが眠る霊廟の見学も可能。ちなみに、東京都港区には北里がコッホを追悼して建てた神社があり、現在は「コッホ・北里神社」という名で二人が祀られている。

参考:RKIホームページ

正体不明の光線「X線」を発見5. ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンWilhelm Conrad Röntgen(1845-1923)

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン

レントゲンはライン地方の都市レムシャイトで誕生し、3歳のとき一家でオランダに移住。1869年、チューリッヒ工科大学で博士号を取得し、彼の成長に大きな影響を与えた同大学の物理学の教授、アウグスト・クントの助手としてヴュルツブルクへ赴任した。その後、物理学の講師や教授として招聘を受けて移動しながら研究を続けた。

ヴュルツブルク大学で真空放電の研究をしていた1895年11月、そばに置いてあった蛍光板が発光していることに気づく。当時はまだその性質が不明で、レントゲンはこの未知の光を「X線」と名づけた。この光線を利用した「レントゲン」こそ、現在でも医療や工業界で欠かせない画像撮影技術である。この発見によってレントゲンは1901年に第1回ノーベル物理学賞を授与された。ほかの研究でも名誉ある賞を受賞したレントゲンだが、その性格は驚くほど控えめだったという。1900年から20年間、ミュンヘン大学で教えていたレントゲンは、1923年2月10日に同地で息を引き取った。レントゲンの功績を称え、レムシャイトにはレントゲンの生家が残されている。2006年にリニューアルされたレントゲン博物館では、医学、科学、技術というテーマに沿ってさまざまな実験をすることができる。

参考:www.nobelprize.org「Wilhelm Conrad Röntgen」、西尾 成子「ノーベル賞受賞者たち(1)レントゲン」

空を飛ぶ夢を追い続けた6. オットー・リリエンタールOtto Lilienthal(1848-1896)

オットー・リリエンタール

ベルリンから150キロほどの小さな都市アンクラムに生まれる。ハンググライダーによる人間飛行を成功させた最初の人物であり、パイオニアの一人とみなされている。幼い頃から弟のグスタフと共に航空技術に興味を持ったリリエンタールは、13〜14歳のころに初めて飛行に挑戦。翼の形に裁断した布を木の骨組みに縫い付け、これに乗って丘を駆け下ったが、あえなく失敗に終わった。その後、2年間ポツダムの工業学校で設計技師になるための職業訓練を受け、1867〜1870年までベルリン工学アカデミーで力学を学ぶ。普仏戦争に従軍した後、1894年にベルリンのリヒターフェルデのレンガ工場跡地に高さ15メートルの人口の丘を造り、さまざまな滑空機を制作して2000回にも及ぶ滑空試験を重ねた。

1893 年にリリエンタールが行ったベルリンでの飛行実験の様子1893 年にリリエンタールが行ったベルリンでの飛行実験の様子

リリエンタールは滑空実験だけでなく、発明家として煙管ボイラー用の小型蒸気機関などを考案。生涯に25の特許を取得し、これらの発明によって得た利益を飛行実験の資金としていた。1896年、滑空試験中に突風に見舞われて15メートルの高さから墜落。頸椎を損傷し、48歳の若さで亡くなった。リリエンタールが飛行実験を行っていたフリーゲベルク(飛行の丘)の周辺は、現在「リリエンタール公園」として整備され、記念碑が立てられているほか、市民の憩いの場になっている。

参考:www.otto-lilienthal.de「OTTO LILIENTHAL - DER ERSTE FLIEGER」、www.visitberlin.de「Fliegeberg」

男性社会との静かなる闘いを続けた知られざるドイツの女性科学者たち

物理学で博士号を取得したメルケル元首相をはじめ、今でこそ女性科学者の活躍が世に知られるようになったが、歴史上のほとんどの間、「科学の世界=男性の世界」であった。表舞台で活躍することが許されなかった女性科学者たちの人生をひも解くと、男性中心の世の中で闘う苦しみと、それでも持ち続けた研究への情熱が見えてくる。

女性科学者が活躍したのは20世紀以降

アカデミーの門戸が開かれた17世紀、実際に科学分野で教育を受けた女性はいたが、表舞台で活躍することは長い間許されなかった。やがて20世紀後半になると、欧州各地の科学アカデミーでようやく女性会員数が増え始める。科学アカデミーで最初に会員になった女性を国別に見てみると、英国の王立協会では1945年にマージョリー・スティーブンソンとキャスリーン・ロンズデール、ドイツのプロイセン科学アカデミーでは1949年にリーゼ・マイトナーが加わった。フランスの科学アカデミーに至っては、史上初めてノーベル賞を2度受賞したマリ・キュリーでさえ会員になることはできず、女性の正会員は1979年まで認められなかった。

米スタンフォード大学のシービンガー教授によると、17世紀末のドイツには欧州の中でも比較的多くの女性天文学者がいたといい、その理由としてドイツの職人制度を挙げている。というのも、ドイツでは女性でも徒弟として、または婚姻によってギルドに入ることができたのだ。しかし、男性は師匠から師匠へ渡り歩くことも可能だったが、女性は自分の家でできる修業のみが許されるなど、その地位は従属的なものだった。

参考文献:Londa Schiebinger「The History of Science Society-Maria Winkelmann at the Berlin Academy: A Turning Point for Women in Science pp. 174-200」 (The University of Chicago Press)、Arbeitskreis Chancengleichheit in der Chemie「Chemikerinnen – es gab und es gibt sie」、Technische Universität Braunschweig「Wer war Agnes Pockels?」

新しい彗星を発見した天文学者マリア・マルガレータ・キルヒMaria Margaretha Kirch(1670-1720)

マリア・マルガレータ・キルヒ

マリア・ヴィンケルマン(旧姓)は、1670年にライプツィヒで誕生。幼いころから天文学に興味を持っていた彼女は、独学で天文学を習得したクリストフ・アーノルドのもとで見習いとして働き、観測や計算方法を学んでいった。そして同じ天文学者であるゴットフリート・キルヒと出会い、結婚。ゴットフリートはベルリンの科学アカデミーの天文台長に就任し、マリアは助手として研究の手伝いをすることに。2人は交代で天体観測を行った。

1702年、マリアはそれまで知られていなかった彗星を発見する。しかしゴットフリートは、マリアとの共同作業の様子を明かすのをためらい、自分の成果として発表。1710年までその事実を公には認めなかった。1710年にゴットフリートが亡くなり、マリアは息子と共に暦の制作を続けることをアカデミーに願い出たが、女性であることから認められなかった。1716年に息子のクリストフリートが夫と同じ科学アカデミーの天文台長に就任し、マリアもアシスタントに。しかしマリアは歓迎されず、やがて退職を余儀なくされる。その後もアカデミー内で研究することは許されず、50歳で亡くなった。

参考:www.britannica.com「Maria Kirch」、Maria Winkelmann「A Turning Point for Women in Science」、Londa Schiebinger「The History of Science Society」

化学の光と影に苦しんだクララ・インマーヴァールClara Immerwahr(1870-1915)

クララ・インマーヴァール

ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)で生まれたクララ・インマーヴァールは、父親の影響で化学に興味を持つように。ブレスラウ大学で化学を学び、1900年にはドイツで女性として初めて物理化学の博士号を取得した。後にドイツの「化学兵器の父」と呼ばれるフリッツ・ハーバーと出会ったのは、大学時代のことだった。

フリッツと結婚後、クララは家庭に入ることを求められた。1902年に息子が生まれると、フリッツは自分の仕事に重きを置き、クララに母親、そして教授の妻としての役割を強いた。フリッツは順調にキャリアを積み、1911年にはベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所の所長に就任。1914年には政治家としての活動もスタートさせた。陸軍省の部長となったフリッツは、第一次世界大戦での毒ガス使用に尽力。クララは同じ科学者としてフリッツを批判したが、夫婦仲は完全に破綻した。1915年4月、フリッツは自らベルギーの西部戦線で塩素ガス使用の指揮を執った。戦地から戻ったフリッツは英雄となったが、その数週間後、クララは夫の愛用している軍用銃で自ら命を絶った。

参考:AKCC「Chemikerinnen - es gab und es gibt sie」、ちくまweb「彼女たちの戦争 第18回:クララ・イマーヴァール」

キッチンが最初の実験室アグネス・ポッケルスAgnes Luise Wilhelmine Pockels(1862-1935)

アグネス・ポッケルス

1862年、アグネス・ポッケルスはオーストリア支配下にあったイタリアのヴェネツィアで生まれる。父はオーストリア軍に所属していたが、マラリアにかかって早期退職を余儀なくされ、1871年に一家でニーダーザクセン州ブランズウィックに移住した。アグネスは、子どもの頃から科学に興味を持っていたが、当時は女性が大学に入ることは許されていなかった。病弱な両親の世話をしながら、彼女は弟の教科書を見て独学で科学の知識を得ていった。

アグネスは皿洗いの最中、固体表面に接触した水の異常な挙動に気づく。これが今日、「表面張力」と呼ばれているものだ。この現象を調べるため、彼女は1882年に液体の表面張力を測定する方法を開発した。そして英国の物理学者ジョン・ウィリアム・ストラットの協力を得て、権威ある雑誌「Nature」に最初の論文を発表。やがてブラウンシュバイク工科大学で研究をすることが許された。アグネスが世間に認められたのは、70歳を過ぎてからである。1931年、アンリ・ドヴォーと共にコロイド学会からローラ・レナード賞を受賞。翌年には、ブラウンシュヴァイク工科大学から名誉博士号を授与された。

参考:Gesellschaft Deutscher Chemiker「Agnes Pockels (1862-1935): Von der Hausfrau zur Ehrendoktorin」、Technische Universität Braunschweig「Wer war Agnes Pockels?」
最終更新 Dienstag, 07 März 2023 10:34
 

ドイツであらためて考えるウクライナのこと

ロシアのウクライナ侵攻から1年ドイツであらためて考えるウクライナのこと

2月24日、ロシアがウクライナへ侵攻して1年がたつ。実に100万人以上の人がここドイツへ避難した一方、今このときもウクライナの戦地で苦しんでいる人々がいる。しかし、毎日の生活に追われ、ウクライナから気持ちが離れてしまっているという人も少なくないだろう。本特集では、長期化するとみられているウクライナ戦争がドイツや世界にどんな影響を与えているのか、そして平和のために何ができるのかをあらためて考える。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、監修:熊谷徹)

ウクライナの主要都市 ウクライナの主要都市

なぜロシアはウクライナへ侵攻したのか?

ロシアの起源はウクライナのキーウ

「ロシア」という名前は、9世紀後半から13世紀半ばまで存在した「キエフ・ルーシ公国」に由来する。この公国は現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシにまたがり、モンゴル帝国に侵略されるまでキーウ(キエフのウクライナ語読み)を中心に栄えた。その後、別々の国になったものの、ウクライナは18世紀にロシア帝国の支配下に、20世紀にはソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)の構成国の一つとなった。

1991年のソ連の崩壊を機に、ウクライナは独立。そして欧州経済共同体に接近し、1997年には「ウクライナ・北大西洋条約機構(以下、NATO)間の特別な関係に関する憲章」に署名した。ロシアは自国の「発祥の地」であるウクライナが欧州に近づくことに危機感を持っていた。

ロシアが脅威と捉えたNATOの東方拡大

NATOの拡大

ロシアでは20世紀、レーニン率いる史上初の社会主義国家が建国されて以来、連合国による対ソ干渉戦争が始まった苦い経験がある。第二次世界大戦ではドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り「独ソ戦」を開始し、ソ連は人類史上最悪の犠牲者2700万人を出した。こうした侵略が現在のロシア人の中に恐怖として残っていることは否めない。

そして1949年、東西冷戦が勃発してソ連を恐れた西欧によってNATOが設立された。それに対抗する形で1955年に東欧諸国はワルシャワ条約機構を結成したが、ソ連崩壊に伴い解体している。同機構の解体に際して、ロシアは米国との間で「NATOは東方には拡大しないという約束をした」と主張しているが、合意文書は残されていない。しかしロシアが懸念していた通り、1999年からポーランド、ハンガリー、チェコ共和国をはじめ、NATOに加盟する国が続出することになる。こうしてNATOの東方拡大はロシアにとって脅威となり、ロシアは隣国ウクライナのNATO加盟に反対し続けてきた。また西欧諸国も「ロシアを刺激する」として、独仏が中心となってウクライナのNATO加盟に反対してきた。

クリミア半島併合からウクライナ侵攻へ

現在の戦争の発端といわれているのが、2014年にロシアがウクライナ領土のクリミア半島を占領したことだ。その前年、ウクライナのヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は、将来欧州連合(EU)へ加盟することを見据え、経済連携協定を締結するはずだった。しかし親ロシア派であるヤヌコーヴィチ大統領はロシアの圧力に屈し、直前に協定を白紙に戻す。これを受けて市民の大規模な抗議行動「マイダン革命」が勃発。ヤヌコーヴィチ大統領はロシアへ亡命し、政権は崩壊した。

次に選ばれたペトロ・ポロシェンコ大統領は親欧米路線に舵を切る。しかし、その直後の2014年にクリミア半島へロシア軍が侵攻し、住民投票を経てクリミア半島はロシアに併合された。さらに同時期、ウクライナ東部の親ロシア派が「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を一方的に宣言。その後、ウクライナ軍と親ロシア派の間で内戦が始まったが、2015年に当時のドイツ首相、アンゲラ・メルケル氏の主導のもと、ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランスの首脳がベラルーシの首都ミンスクで和平合意に至った。しかしながら、実際には断続的に戦いは続いていたのだった。

そして2022年2月21日、プーチン大統領が突然、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の独立を承認。3日後の同24日、ウクライナ東部のロシア系住民を守り、欧米の脅威に対抗することを大義名分として、ロシアはウクライナへ侵攻を開始した。

親欧米路線を取るウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、翌日の25日にキーウの路上で政府幹部たちと撮影した動画を公開。「自分たちはここにいる」と発言し、「私たちは全員、自分たちの独立と国を守る」と強調した。

ウクライナ戦争でドイツはどう変わった?

この1年で、ドイツは紛争地へ武器を輸出しないという原則をくつがえし、エネルギーにおけるロシア依存からの脱却を決めた。ウクライナ戦争によって、なぜドイツは大きく方向転換をせざるを得なくなったのか、そしてドイツに住む私たちにどのような影響があるのか、ジャーナリストの熊谷徹さんにご解説いただいた。(文:熊谷徹)

2月1日、ピストリウス国防大臣(右)はウクライナへの供与が決定したレオパルト2型戦車を視察した2月1日、ピストリウス国防大臣(右)はウクライナへの供与が決定したレオパルト2型戦車を視察した

この1年間の出来事

2022年
2月24日
ロシア、ウクライナ侵攻開始
ゼレンスキー大統領が戦時体制の導入を宣言
2月26日 2月26日国連安保理事会でロシアが拒否権を行使し、ウクライナ侵攻非難決議の採択を妨害
2月27日 プーチン大統領が核抑止部隊に「特別警戒」命令を出す
2月28日 ロシアウクライナの間で会談開始
3月 ロシア軍によってキーウとハリコフ、マリウポリ、チェルニゴフなどで爆撃が強化される
米国カナダEU日本ロシアの貿易面の「最恵国待遇」撤廃
ベラルーシやトルコでロシアウクライナの停戦に向けて会談→停戦合意に至らず
ロシア軍がウクライナのザポリージャ原子力発電所を占領
4月 首都キーウ周辺地域から ロシア軍が撤退
キーウ近郊でロシア軍によるとみられる大量虐殺が発覚
ロシア軍がウクライナ東部や南部への攻撃に転換
ドイツが初めてウクライナに対空戦車ゲパルトと自走重りゅう弾砲の供与を決定
5月 ロシア軍が東部ドネツク州の要衝マリウポリを完全に掌握
フィンランドスウェーデンがNATOに加盟申請
7月 ロシア軍が東部ルガンスク州の完全掌握を宣言
8月 ロシアドイツなど西欧諸国へのガス供給を停止
9月 ロシアが「部分的動員令」を発令
ウクライナ軍がハルキウ州のほぼ全域、ドネツク州リマンを奪還
ロシア軍がドニプロ川西岸地域から軍を撤退させ、ウクライナ東部に投入
プーチン大統領がウクライナ東部と南部4州の併合を一方的に宣言
ウクライナがNATO加盟申請を提出。NATOは事実上黙殺
海底パイプライン、ノルドストリーム1と2が何者かに爆破される。ロシアは関与を否定
10月 クリミア大橋で爆発。ウクライナ国防省は関与を否定
ロシア軍がミサイルや自爆型無人機によるウクライナ各地のインフラ施設を狙った攻撃を開始→ウクライナで停電、断水被害が発生
ウクライナ軍がヘルソンなど南部の都市を奪還
11月 欧州委員会はウクライナを侵略するロシアの戦争犯罪を裁く「特別法廷」をEU主導で設置する案を発表
12月 ゼレンスキー大統領が訪米し、バイデン大統領と会談
2023年
1月
ロシア国防省がソレダールを掌握したと発表
ドイツがマルダー装甲歩兵戦闘車、レオパルド2型戦車、パトリオット対空ミサイルのウクライナへの供与を決定
防衛政策

「紛争地に武器は輸出しない」の大原則をくつがえす

ドイツはロシアのウクライナ侵攻をきっかけに防衛政策を大きく転換した。オーラフ・ショルツ首相は、昨年2月27日に連邦議会で行った演説で、連邦軍増強のために、1000億ユーロ(14兆円・1ユーロ=140円換算)の特別資産を計上すると発表。2021年の防衛予算(503億ユーロ)よりも98.8%多い額だ。

東西冷戦後、ドイツは「侵略される脅威が減った」として防衛予算が国内総生産に占める比率を減らしていた。このため兵器の不足や老朽化が目立ち、退役将校からは「連邦軍はドイツを守れない」という声が上がっていた。

さらにドイツは「紛争当事国には武器を輸出しない」という原則を固持していたが、ショルツ首相はこの原則を変えてウクライナへの軍事支援を開始。今年1月25日には、初めてレオパルド2型戦車を14両、ウクライナに供与すると発表した。2月にはレオパルド1型戦車も178両送ることを決定。ドイツはこれまでにゲパルト対空戦車30両、自走重りゅう弾砲14両、多連装ミサイルMARSIIを5門などもウクライナに送っており、すでに供与したか予定されている軍事援助の総額は約23億ユーロ(3220億円)に上る。これは米国、英国に次いで世界で3番目に多い。

ウクライナへの軍事支援については政党間で温度差がある。最も積極的なのは緑の党と自由民主党(FDP)だ。ベアボック外務大臣(緑の党)は、1月27日に「われわれはロシアと戦争を行っている」と発言している。野党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も軍事支援の強化を求めているが、社会民主党(SPD)は他党に比べると慎重だ。ショルツ首相は「米国と共同歩調を取らない限り、戦車は送らない」という路線を取り、レオパルド2型戦車供与の決定が遅れたことで内外から批判された。

さらにウクライナ政府はF16など欧米製の戦闘機の供与を要請している。英仏は「可能かどうか検討する」と含みを残しているが、バイデン大統領とショルツ首相は否定的だ。

ドイツ市民の間には「戦車など重火器の供与は、戦争をエスカレートさせるのではないか」という懸念があり、戦車供与についての意見は分かれている ドイツ市民の間には「戦車など重火器の供与は、戦争をエスカレートさせるのではないか」という懸念があり、戦車供与についての意見は分かれている

エネルギー政策

ロシア依存からの脱却でガス価格高騰、脱原子力政策も変更

ドイツは1973年にロシアから天然ガスを輸入し始めて以来、ロシア産エネルギーへの依存度を高めてきた。国際エネルギー機関によると、2021年にドイツが輸入したガスの60.3%、原油の31.0%、石炭の24.1%がロシアからのものだった。ドイツは2019年にロシアの化石燃料を輸入するために約241億ユーロ(3兆3740億円)を支払っている。

ロシアのウクライナ侵攻が始まるとショルツ政権はエネルギー政策を転換し、ロシアのガスの輸入を2024年までに停止すると発表。原油と石炭の輸入は2022年末までに停止したほか、ロシアのガス会社が完成させた、海底パイプライン・ノルドストリーム2の稼働許可申請の審査も凍結した。プーチン政権は報復として、昨年8月31日以降、ノルドストリーム1などを使ったガス輸出を停止している。

昨年8月には欧州のガス卸売価格が1メガワット時当たり約320ユーロと、1年前の約7倍にまで高騰。ショルツ政権はガス需給が逼迫( ひっぱく ) した場合には、消費量が多い約4万社の企業へのガス供給量を制限することも想定していた。そしてミュンヘンのシュタットヴェルケ(地域エネルギー供給会社)が2023年1月からの電力・ガス料金を約2倍に引き上げることを発表するなど、多くの会社が料金を値上げしている。このためショルツ政権は今年1月から約2000億ユーロ(28兆円)の補助金を投じて、家庭・中小企業のガスや電力、地域暖房の料金負担に部分的に上限を設定した。例えば家庭向けガスについては、2021年の消費量の80%に1キロワット時当たり12セントの上限を設けた。これにより消費者の負担は軽減された。また一部の電力会社・ガス会社は4月以降料金を引き下げる方針だ。

ドイツはロシアからパイプラインで送られるガスに依存していたため、液化天然ガス(LNG)の陸揚げ港がなかった。ウクライナ戦争勃発後、ショルツ政権は北海に面した三つの地域で陸揚げ港の建設を開始した(2026年完成予定)。さらにショルツ政権は昨年11月、カタールとの間で2026年から15年間にわたってLNGを購入する契約にも調印している。

またショルツ政権はウクライナ戦争勃発後、ガス貯蔵設備の運営企業に対し、昨年11月1日までに充填( じゅうてん ) 率を95%にすることを義務付けた。この結果、今年2月7日時点でも充填率は75.4%と、冬期にしては高い水準にある。ガスの卸売価格も約57ユーロと戦争勃発前の水準に下落した。ロベルト・ハーベック経済気候保護大臣は、「今年の冬は、深刻な危機を迎えずに乗り切れそうだ」という見通しを打ち出している。

さらにショルツ政権は、発電に使うガス消費量を節約するため、廃止が決まっていた褐炭火力・石炭火力発電所の一部を再稼働させた。このため、2022年の二酸化炭素の排出量は、前年よりも3.2%増えている。政府は電力不足を回避するために、脱原子力政策を部分的に変更し、昨年末に廃止する予定だった3基の原子炉の運転期間を今年4月15日まで延長した。

負担緩和策の遅れなどからショルツ政権の支持率が低下し、政府のエネルギー政策を批判する極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の支持率が上がっている 負担緩和策の遅れなどからショルツ政権の支持率が低下し、政府のエネルギー政策を批判する極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の支持率が上がっている

市民生活

戦後最悪のインフレ率 航空運賃にも影響大

ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー価格の高騰のために、ドイツは第二次世界大戦後最悪のインフレに襲われた。2022年の消費者物価上昇率は7.9%と、ドイツ建国以来、最も高くなった。昨年10月のインフレ率は10.4%に達した。

ユーロ圏のインフレ率を抑制するために、欧州中央銀行が政策金利の引き上げを開始した。2月2日には5回目の利上げを実施し、3.0%に引き上げた。3月には3.5%に引き上げる予定。このためゼロ金利時代は終わったものの、アパートや家を買うためのローンの金利も高騰し、マイホームの夢は遠のく一方だ。またプーチン政権は、同国に経済制裁を科している国の航空会社に対し、ロシア上空の飛行を禁止した。このため欧州と日本の間の飛行時間が、ウクライナ戦争前に比べて長くなった。燃料サーチャージの上昇により、航空運賃が大幅に高くなったことも、大きな悩みの種だ。日本とドイツの間の郵便も一時遅れ気味になった。

ただしドイツ政府は、エネルギー危機が回避される見通しが強まっていることから、景気については楽観的だ。ショルツ政権は、2022年の国内総生産(GDP)の成長率を1.8%と予想。2023年に懸念されていたマイナス成長を回避し、0.2%の成長率になると見込んでいる。

食料価格インフレ率(2022年10月)※前年同月比

昨年10月には、エネルギー費用の高騰や戦争による原料輸出量の削減などにより、食用油や乳製品などの値段が一時大幅に高くなった 昨年10月には、エネルギー費用の高騰や戦争による原料輸出量の削減などにより、食用油や乳製品などの値段が一時大幅に高くなった

世界情勢

欧州は価値観を共有する国との関係強化、日本も重視

欧州では、ロシアのウクライナ侵攻で自国への脅威が高まったと考える国が増えた。フィンランドとスウェーデンが長年の伝統だった中立主義を捨てて、NATOへの加盟を申請したのは、その現れだ。この戦争をきっかけに、世界のブロック化が進行する。EUやNATOは、議会制民主主義や人権重視、言論の自由などの価値観を共有する国として、日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドとの協力関係を強化する方針だ。

ドイツ政府は今年前半に、対ロシア政策の失敗を教訓として、新しい中国戦略を公表する予定。政府は中国経済への依存度を減らすよう提案する方針だが、自動車業界など産業界からは中国事業の削減に強く反対する声が出ている。今後ドイツの政界、経済界では中国との関わり方をめぐる議論が激化するだろう。

昨年5月18日、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請の式典に参加したストルテンベルグ事務総長。全加盟国が両国の加盟を承認すれば、NATO加盟国は32カ国となる 昨年5月18日、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請の式典に参加したストルテンベルグ事務総長。全加盟国が両国の加盟を承認すれば、NATO加盟国は32カ国となる

自分にできることは何か?「知る」ところから始めてみよう
ドイツのウクライナ難民の状況 >
最終更新 Donnerstag, 23 Februar 2023 11:04
 

ドイツのウクライナ難民の状況

自分にできることは何か?「知る」ところから始めてみようドイツのウクライナ難民の状況

ウクライナから100万人以上が避難してきたドイツ。街中でウクライナの人々と出会ったことがある人も少なくないだろう。一体どのような人々がウクライナから逃れてきたのか、どんな支援を受けているのかをご紹介するほか、国内の支援例を取り上げる。

数で見るドイツのウクライナ難民の状況

参考:Mediendienst Integration

ドイツが受け入れたウクライナ難民の数

1056416 ※2022年2月末~2023年1月30日

EU内での受け入れ人数は、ポーランドの156万3386人に次いで、ドイツは2番目に多い。

ロシアのウクライナ侵攻直後、ベルリン中央駅には毎日数千人のウクライナ難民が到着していた。そこでは、宿泊受け入れ可能な市民たちがそれぞれの条件を書いたプラカードを持って駅に立つ姿が見られた ロシアのウクライナ侵攻直後、ベルリン中央駅には毎日数千人のウクライナ難民が到着していた。そこでは、宿泊受け入れ可能な市民たちがそれぞれの条件を書いたプラカードを持って駅に立つ姿が見られた

18歳未満の人数

355031 ※2023年1月23日現在

ドイツの学校に通う子どもの数

203000 ※2023年1月22日現在

ドイツ各地の学校ではウクライナから逃れてきた子どもたちのためにウェルカムクラスを設置し、ドイツ語を学べる環境を整備。しかし教師不足の状態が続いており、すでに引退した教師を現場に呼び戻すケースなどもある。

居住先トップ5

❶ノルトライン=ヴェストファーレン州 21万9000人
❷バイエルン州 14万9000人
❸バーデン=ヴュルテンベルク州 13万1000人
❹ニーダーザクセン州 10万9000人
❺ヘッセン州 8万
※2022年9月現在

ウクライナ難民の男女比

女性 70%
男性 30%

18~60歳のウクライナ人男性は国民総動員令により出国を禁じられているため、女性と子どもが多い。

住居

アパート、一軒家 74%
ホテル、ゲストハウス 17%
難民向け宿泊施設 9%
※2022年12月現在

ドイツで働くウクライナ人の数

12300 ※2022年10月現在

ドイツに避難したウクライナ難民のうち72%が大学もしくは専門学校を卒業しているため、ドイツ全体と比べて高等教育を受けた人の割合が多い。また、ドイツに暮らす15~64歳のウクライナ難民のうち、17%がドイツ国内で仕事をしている。

今後のプラン

ドイツに長期滞在したい 37%
戦争が終わるまでドイツに滞在したい 34%
1年以内にウクライナへ帰る 2%
未定 27%

ウクライナから難民としてドイツへ入国、滞在する場合

● ビザなしの入国および90日間の滞在可
● 一時保護措置により、申請すると1年間の在留資格が与えられ、最大3年間まで延長可
● 宿泊施設、食事、医療のサービスのほか、給付金(例えば、独身もしくは一人親の場合は月367ユーロ)の受け取りが可

語学支援からアーティスト支援までゲーテ・インスティテュート

世界各地でドイツ語講座を開講し、さまざまな催し物を通じてドイツとの文化交流を図ってきたゲーテ・インスティテュート。ゲーテ・インスティテュート・ウクライナは昨年の侵攻以降は休館中で、スタッフはドイツもしくはウクライナ西部へ避難している。一方で、機関としての活動は現在も続いており、本国のゲーテ・インスティテュートと共にドイツ語学習の機会提供やアーティストへの助成金など、ドイツに逃れてきたウクライナ人を支援してきた。 参考:Goethe-Institut(www.goethe.de

Ein Koffer voll mit Büchern (トランクを本でいっぱいに)

ドイツ図書館協会と協力し、ドイツ各地にいるウクライナ難民の子どもたちに本を届けるプロジェクト。ウクライナ人の作家をはじめとしたウクライナ語の絵本や小説が詰まったトランクが全国600カ所の図書館に贈られた。図書館と書籍のリストはホームページから確認できる。

Mein Weg nach Deutschland (ドイツへの道)

ドイツで働きたいウクライナ難民のためのポータルサイト。ドイツ外務省から委託されてゲーテ・インスティテュートが運営している。「1. 私はドイツに(ビザなしで)行くことができますか?」「11. ドイツ語を学ぶ」「13. ドイツで働く」など、ステップ別に必要な情報やお役立ちリンクがまとめられている。ちなみに、ウクライナ人向けにドイツ語初心者のためのオンラインコースが、約5ユーロで提供されている。 www.goethe.de/prj/mwd/de/ukraine.html

Goethe-Institut im Exil (亡命中のゲーテ・インスティテュート)

Goethe-Institut im Exilは、ウクライナ戦争を機に、亡命状態の国々のアーティストたちの発表や交流の場を提供することを目的に企画されたプロジェクト。現在ウクライナ以外にもシリアやイランなどの国々のゲーテ・インスティテュートも亡命状態にある。第一弾は昨年10月6~9日にベルリンで開かれ、ウクライナのアーティストによるパフォーマンスや朗読が披露された。第二弾としてイランのアーティストによるプロジェクトが進行中。

ウクライナの子どもたちを支援したい!日本人支援グループ「ウクライナの友」

昨年6月にデュッセルドルフに暮らす日本人コミュニティーが立ち上げた「ウクライナの友」は、チャリティーコンサートや物資支援など、さまざまなウクライナ支援プロジェクトを実施している。活動を始めたきっかけや支援への思いについて、発起人の岩間倫美さんをはじめ、ウクライナの友のメンバーに話を聞いた。(取材協力:ウクライナの友、Pro Ukraine e.V.)

ウクライナの子どもたちからは、息を吹きかけて回るかざぐるまが人気だったそうウクライナの子どもたちからは、息を吹きかけて回るかざぐるまが人気だったそう

デュッセルドルフに生きる日本人として何ができるか?

「ウクライナの友」の発起人である岩間倫美さんは、在デュッセルドルフ日本国総領館の岩間公典前総領事のパートナーで、ウクライナ総領事と会った際にウクライナから逃れてきた4~18歳の児童養護施設の子ども300名ほど(当時)がノルトライン=ヴェストファーレン(NRW)州に暮らしているという話を耳にした。子どもたちは、戦争が始まってから巡り巡ってドイツ、そしてNRW州へとたどり着いたという。その後、岩間さんは慈善団体「AmericanInternational Women’s Club of Düsseldorf」(AIWCD)主催のチャリティーコンサートに参加。その日はウクライナ総領事の夫も出席する予定だったが、その子どもたちのケアで忙しく参加を断念したことを知る。

自分はコンサートに参加したきりで良いのか。岩間さんは悩んだ末、欧州で3番目の大きさを誇るデュッセルドルフの日本人コミュニティーの一員として、ウクライナの子どもたちを金銭以外でも支援できないかと思うように。そして、デュッセルドルフやその周辺に住む9名の日本人で「ウクライナの友」を発足した。

支援活動には「Pro Ukraine e.V.」の協力も得ている。この団体はNRW州で長くウクライナの子どもたちに人道的支援を行っており、今回避難してきた子どもたちの世話役もしている。ウクライナの友は、上記団体を通してこれまでに食料やマンガの物資支援をするほか、フェイスブックページで日本語による物件情報を呼びかけるなど、メンバーそれぞれができることを持ち寄り、少しずつ支援の輪を広げていった。ここでは、いくつかのプロジェクトをご紹介する。

KUMONプロジェクト

デュッセルドルフの公文式教室の先生であるフックス真理子さんがウクライナの友のメンバーとなり、公文式の教室にウクライナの子どもたちを受け入れることに。個人の希望に合わせ、算数か英語もしくは両科目を教えている。もともと教室には多様な背景を持った子どもたちが多く、当初ウクライナの子どもたちに言葉が通じなかったときには、ロシア人の生徒に通訳をしてもらうことも。子どもたちの世界にはウクライナもロシアもないのだ、と考えさせられたという。

ピアノレッスン

デュッセルドルフ、エッセン、ケルンには音楽大学があり、日本人学生が学んでいるほか、そのまま同地で演奏家として活躍している方も。ウクライナの友のメンバーである富田珠里さんもデュッセルドルフで活躍するピアニストの一人だ。この支援では、昨年9月から富田さんがウクライナから逃れてきたアリーナとミラのピアノレッスンを担当している。楽譜やピアノの寄付があったほか、デュッセルドルフ音楽教室のコンサートにも出演。この取り組みはNHKでも取り上げられ、今も二人はピアノのレッスンに通っている。

昨年11月の発表会に出演した富田さん、アリーナ、ミラ昨年11月の発表会に出演した富田さん、アリーナ、ミラ

ソーラン節ワークショップ

昨年9月30日、International School of Düsseldorf(ISD)に通う日本人の子どもたち16人と、ウクライナの子どもたち20人が集まり、ソーラン節のワークショップを開催した。まずは日本人の子どもたちがお手本を見せ、一緒に一つひとつの動きを練習。ティーンエイジャーだから恥ずかしくて踊らない子も多いのでは……というウクライナの友のメンバーの予想に反して大盛況だったという。ソーラン節を踊った後には、ウクライナの踊りが披露されるなど、互いの文化を知るきっかけにもなった。

全員で記念撮影後、インスタグラムのアカウントを教え合うなど、会が終わってからも子どもたちは積極的に交流していた全員で記念撮影後、インスタグラムのアカウントを教え合うなど、会が終わってからも子どもたちは積極的に交流していた

折り紙ワークショップ

ソーラン節が好評だったことから、昨年11月に折り紙ワークショップを企画。折り紙講師であるマリア・レンズベルク=ペイルさんを招き、日本人の子どもたちとウクライナの子どもたちが参加した。1月に2回目も開催し、継続が期待されている。

なお、これらのプロジェクトの報告や最新のイベント情報は、ウクライナの友のフェイスブックページで随時更新されている。

支援の思いがけない影響

前述のPro Ukraineの代表であるヴェラ・ブッシュさんは、ウクライナの友の活動について次のように述べている。「デュッセルドルフの大きな日本人コミュニティーの友人たちは、ウクライナの子どもたちが(この地で)受け入れられていると感じる素晴らしい取り組みを行っています」。そして先日、Pro Ukraineは支援活動を始めて20年の節目を迎えた。「私たちは長い支援活動のなかで何が必要か、そしてそれがどこへ向かうのか、100%信頼できる人々と協力して行ってきました。そのため、寄付はいつでも最善の支援です」と経済的支援の重要性も話してくれた。

ウクライナの友が企画したソーラン節や折り紙ワークショップでは、参加した日本の子どもたちにも思いがけない影響があったようだ。ウクライナから来た同年代の子どもたちと話したり同じことをやり遂げたりする経験は、日本の子どもたちにとってウクライナを身近に感じたり、親子で戦争について話し合ったりするきっかけに。またウクライナの子どもたちにとっても、自分たちは世界から忘れられていないんだという肯定感につながったという。

ウクライナの子どもたちから「またやってほしい」という声もあることから、ウクライナの友のメンバーの間では「子どもたちはつながりを求めているのではないか」と話しており、そうした機会をもっと作っていきたいという。「支援」は、どうしても一方通行になりがちだ。しかし、こうしたインタラクティブな活動によって、両国の子どもたちがお互いに影響し合う経験を積めることも、これからの時代の支援活動に欠かせないのかもしれない。

各方面で戦争が長期化するといわれているが、ドイツへと逃れてきたウクライナの人々に対しても、今後も長い目での支援が必要だろう。ウクライナについてもっと知ること、何かイベントに参加してみること、信頼できる団体に寄付をすること……一人ひとりの力は小さいかもしれないが、ウクライナ侵攻から1年を節目にあらためて自分に何ができるのかを考え、ぜひ行動に移してみてほしい。

INFO

ウクライナの友:www.facebook.com/friendsofukrainejapan
Pro Ukraine e.V.:www.pro-ukraine.de
ロシアのウクライナ侵攻から1年
ドイツであらためて考えるウクライナのこと >
最終更新 Montag, 27 Februar 2023 16:57
 

ドイツでカーニバルを楽しもう

生真面目なドイツ人が大真面目に羽目を外す ドイツでカーニバルを楽しもう

今年も街中が浮き足立つカーニバルの季節がやって来た。11月11日に始まり、灰の水曜日に終わる「第5の季節」とも呼ばれるこのイベントのハイライトは、2月16~20日の4日間!!老若男女がこぞって仮装し、ここぞとばかりに羽目を外す。欧州の優等生と呼ばれるドイツの意外な一面が垣間見られるだろう。そう、人生は楽なことばかりじゃない、毎日がカーニバルというわけにはいかないからこそ、ドイツのカーニバリスト達は熱く燃え上がるのだ。(編集部:高橋 萌)

カーニバルって、 そもそも何を祝うものなの?
古来、春の到来を祝う風習としてドイツに根付いていたもの。カトリック教会が復活祭(イースター)の前の46日間を断食期間(Fastenzeit)と定めたことから、その前に肉や乳製品などを思いっきり味わっておこう! という食べ納めの祭りとしてカーニバルが再定義された。"carne vale"(ラテン語で「肉よ、さらば!」の意)というわけだ。

カーニバル

カーニバルをもっと深く理解するためのKarneval Kalender 2022/23

11月11日11時11分

聖マルティンの日でもある11月11日をカーニバルシーズンの開始日と定めている地域が多い。デュッセルドルフではこの日、カーニバルの精霊ホッペディッツ(Hoppeditz)が目を覚まし、「第5の季節」の幕開けを知らせる。とは言え、この風習が定着したのは19世紀に入ってから。長いカーニバルの歴史上では、比較的新しい決まり事だ。

11月12日~1月5日

祈りと断食の期間とされるアドヴェント(待降節)を含むこの時期は、カーニバルのお祝いも一時休止。しかし、裏ではカーニバルに向けて着々と準備が進められている。カーニバルのパレードでお披露目される山車の制作などは、この間に佳境を迎えるそうだ。年が開けたら、カーニバルの宴会で忙しくて手が回らないから……。

1月6日(金)

カーニバル

クリスマス関連の最後の祝日1月6日(Heilige Drei Könige)に、カーニバルのイベントが再スタートする。もっとも、19世紀以前は11月11日ではなく、1月6日にカーニバルシーズンが幕を開けたという。ここからは怒涛のイベントラッシュ。灰の水曜日まで連日連夜、宴会(Sitzung)やコスチューム・パーティーなどが開かれ、カーニバル好きがJeckenやNarren(どちらも「道化」の意)と化す。

2月16日(木)

カーニバルのお祭りのハイライト、第1日目。ラインラント地方では「女性のカーニバル(Weiberfastnacht)」と呼ばれ、女性が市庁舎など権力の中枢へ乗り込み、主導権を握ることを高らかに宣言。この日、男性は権力の象徴であるネクタイを切られ、お詫びにキスを贈られる。シュヴァーベン地方では、揚げパンなど油を使った料理をすることから「脂ぎった木曜日(Schmotziger Donnerstag)」と呼ばれている。
注!ラインラント地方在住の男性はこの日、切られても良い古いネクタイを着用しましょう!

2月20日(月)

ローゼンモンターク(Rosenmontag)と呼ばれるこの日、ケルンやマインツ、デュッセルドルフなど各地で大規模なパレードが行われ、カーニバルの盛り上がりは最高潮に達する。「バラの月曜日」とも読まれるが、「Rosen」は植物のバラではなく、rasen(暴れる)から来た言葉とする説も、グリム兄弟の編纂した辞書にある。一部の州以外は公的な祝日ではない。しかし学校や企業、お店などの多くが休業するのでご注意下さい。

2月21日(火)

カーニバル

スミレの火曜日(Veilchendienstag)、ファストナハト(Fastnacht)と呼ばれるこの日、カーニバルのお祭りは最終日を迎える。メンヒェングラットバッハなど、この日にパレードが行われる地域もある。

2月22日(水)

灰の水曜日(Aschermittwoch)は、断食期間が始まる日。デュッセルドルフではカーニバルの聖霊ホッペディッツの葬式が行われる。この日からイースターまで、カトリック教徒は肉を断つことになっており、灰の水曜日にニシンなど魚を食べる風習もある。現代では、本格的な断食の代わりに、お菓子やアルコールなど自分が好きなものを我慢する期間にしている人も多い。また、この日は政治の灰の水曜日(Politischer Aschermittwoch)とも言われ、各地で政治集会が開かれる。

ケルン
ブラジルのリオデジャネイロと同盟を結ぶケルンのカーニバル

ケルンのカーニバル

「アラーフ!」の掛け声が木霊するケルンのカーニバルは、ケルンの3つの星(Kölner Dreigestirn)と呼ばれる、王子と乙女、農夫の3人が取り仕切る。ローゼンモンタークには、7キロの道を4時間掛けて進むパレードがあり、国内外から100万人が詰め掛け、山車に向かって「Kamelle!!(カメレ)」と叫んでお菓子をねだる。今年のモットーは、"200 Jahre Kölner Karneval: Ov krüzz oder quer"。カーニバルは誰にでも開かれているという意味が込められている。

ケルンのカーニバル

注目のイベント

● 野外イベント「Wieverfastelovend」
2月16日(木)11:11~
場所: Alter Markt

● おばけのパレード「Geisterzug」
2月11日(土)
www.geisterzug.de

● パレード「Rosenmontagszug」
2月20日(月)10:00~
場所: 市内中心部


体験!ケルンのSitzung

カーニバルシーズンの楽しみの1つが、各カーニバル協会や団体が主催する大宴会「Sitzung」。コメディアンが時代を皮肉り、ミュージシャンの音楽に乗せて来場者が肩を組んでの大合唱。王様が庶民の仮装をし、庶民が王様になりきる……そんなカーニバルの無礼講の精神を体現するような宴会が連日開催されているが、その1つ、カーニバル協会"Prinzen-Garde"主催のSitzungに参加する機会を得たので行ってきた!

「人生で2番目に大切なこと、それがカーニバル」

クルト・シュトゥンプさん

Prinzen-Gardeの会長
クルト・シュトゥンプさん

1906年創立の老舗カーニバル協会が開くこの宴は、ドレスコードが「Abendgarderobe(正装)」というフォーマルなもの。同協会のシュトゥンプ会長にカーニバルへの想いを語っていただいたのだが、さすがはカーニバル協会を率いる人物、「笑い」を大切にするパワフルな紳士だった。「私の人生で大切なものは、1に家族、2にカーニバル!」と豪語する。「だって考えてもみてください。1月2日から灰の水曜日まで、私の場合は休みが3日間しかない。それ以外は、無償でカーニバルの成功のために日夜活動しているんですよ。好きじゃなきゃやってられない! それに、カーニバルに没頭する期間があるからこそ、人生や仕事における色々な難しい局面に立ち向かえる。そんな風に思っています」。  

深夜0時を越えても一向に終わらない宴、話のオチにつく「ジャッジャーン」という効果音、何度も叫ばれる「Alaaf!」の掛け声……。カーニバルを祝うことが世代を超えて身に染み付いている土地の人々の熱狂ぶりはすごい!!

ケルンのSitzung

ケルン
ホッペディッツが大暴れ個性的なイベント盛りだくさんのカーニバル

デュッセルドルフのカーニバルを特徴付けているのが、精霊ホッペディッツ。11月11日11時11分に当地名産のマスタードの容器から出現し、デュッセルドルフの市民にカーニバルの開始を呼び掛ける。同地のカーニバルを治めるのは、プリンツ(王子)とベネツィア(王女)のカップル。デュッセルドルフのカーニバルは、伝統ある樽運びレース(Tonnenrennen)や女装レース(Tuntenlauf)など、ほかでは見られないイベントが盛りだくさん。今年のモットーは"Och dat noch(Auch das noch)"、「あぁ、またか」というため息にも似たつぶやき。あれもこれも、思うがままにならない世界を笑い飛ばそうというポジティブな意味を含んでいるらしい。永遠のライバルであるケルンとは、野次を飛ばし合う関係。

デュッセルドルフのカーニバル

注目のイベント

● 女性のカーニバル
「Altweiberfastnacht」
2月16日(木)11:11~
場所: Rathaus, Altstadt

● 子どものパレード
「Kinder- und Jugendumzug」
2月18日(土)12:30~
場所: Altstadt

● パレード
「Buntes Kö-Treiben」
2月19日(日)11:00~
場所: Königsallee

● パレード「Rosenmontagszug」
場所: 市内中心部
www.comitee-duesseldorfer-carneval.de


初心者のためのカーニバルのススメカーニバルにどっぷり浸かった日本人

中嶋 総雄さん

デュッセルドルフ日本人学校の元教諭
中嶋 総雄さん

「私自身、もう引退したのですが……」と前置きをし、デュッセルドルフのカーニバルに参加することになった経緯からご説明いただいた。数学教師である中嶋さんが、デュッセルドルフ日本人学校に赴任したのは1972年のこと。自分たちが暮らしている地域の生活文化や社会について、生徒たちにどのように教えていくべきか、開校したばかりの学校には教材もノウハウもなかった。ならば、と、中嶋さんが取った策は、地域の大きな行事の中心にいるSchützenverein(射撃団体)に所属すること。そこから徐々にカーニバル協会との繋がりも生まれた。

「協会のメンバーは無償で、それどころか私財を投じてカーニバルの準備をしていますよ」「山車は、パレードの1日のためだけに手作りしています」。中嶋さんが見てきたカーニバルの舞台裏には、カーニバルを取り巻く熱い人間模様がある。日本でもお祭り好きだった中嶋さんが、ドイツ人の友人から方言(Mundart)の特訓を受け、いよいよSitzungの舞台に上がったのは1983年のこと。それ以来、どっぷりカーニバルに浸かってきた。  

カーニバル初心者に楽しむためのヒントをお願いすると、「Sitzungは、日本人にはハードルが高い。笑いはタイミング。ドイツ語が不自由だとどうしてもテンポが遅れてしまうし、何より、入場料が結構高いんですよ。それよりも、しっかりカーニバルの雰囲気が味わえる野外イベント『Biwak』が断然オススメ!!」とアドバイスをいただいた。羽目を外すドイツ人の中に飛び込む少しの勇気を持てば、カーニバルを通してドイツ社会がもっと身近に感じられそう。

注目のイベント

● 野外カーニバル「Biwak」
2月12日(日)11:00~
場所: Rathaus
デュッセルドルフだけじゃなく、ボンやアーヘンの団体も参加する。歌や踊りを見ているだけでも楽しめる

● 公共放送ARD
「Das Erste, Düsseldorf Helau」
2月21日(土)22:15~00:15
programm.ard.de
Sitzungは、テレビ観戦で雰囲気を味わって

● 野外パレードと樽運びレース
「Tonnenrennen und Umzug」
2月10日(日)12:15~
場所: Niederkassel
樽運びレースはビール樽ではなく、農家の人が肥やし樽を運んだことから来たという説も!

ドイツ各地の個性的なカーニバル

Mainz
マインツ "Mainzer Fastnacht"

ケルン、デュッセルドルフと並び、ドイツ三大カーニバルの地に数えられるマインツ。ここでは、カーニバルではなく、「Fastnacht(断食前夜)」と呼ばれ、「Närrisches Grundgesetz(道化の憲法)」なるものまで定められている。掛け声は、「Helau!(ヘラウ)」
www.mainz.de

Mainz
ロットヴァイル "Rottweiler Fasnet"

黒い森地方のカーニバルは、「Fastnacht(断食前夜)」がちょっとなまって「Fasnet」。ここでは、シュヴァーベン・アレマニア風と言われる独特な雰囲気のファスネットが楽しめる。木製の仮面を着けた市民が練り歩き、「Hu Hu Hu Hu Hu」という掛け声を掛け合う。
www.rottweil.de

Konstanz
コンスタンツ "Konstanzer Fasnacht"

ドイツ南部にあるボーデン湖のほとりに位置し、スイスとも国境を接するコンスタンツ。ここのカーニバルの特徴は、飛び入り参加も大歓迎という開放的な姿勢。2月6日~13日の間、バスなどの近距離交通に乗り放題のチケット「Narrenticket」は11.11ユーロ! 掛け声は、「Ho Narro!!」。シュヴァーベン・アレマニア地方の影響を受け、様々な仮面を被った人で溢れる。
www.konstanz.de

フランクフルト
フランクフルト

http://frankfurt-interaktiv.de

ベルリン
ベルリン

www.festkomitee-berliner-karneval.de

ミュンヘン
ミュンヘン

www.muenchen.de

最終更新 Mittwoch, 15 Februar 2023 09:10
 

ドイツの温泉・サウナめぐり

心と体を芯から温めるドイツの温泉・サウナめぐり

ドイツは、日本などとも並ぶ温泉大国の一つ。天然温泉が噴出する温泉地では保養文化が根付いているのに加え、ドイツ独自のサウナや飲泉の文化など、さまざまな形で温泉を楽しむことができる。本特集では、そんなドイツの温泉・サウナの特徴をはじめ、各地のおすすめ温泉をピックアップ。古くから根付くユニークな温泉文化をのぞいてみよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:本誌852号「日本人の心の故郷「温泉」をドイツで」、本誌911号「ドイツ湯巡り紀行」
※本記事に記載している温泉の効果は、あくまで期待できる効能です。疾病の治療や完治、予防等を保証するものではありません。

ドイツが温泉大国になるまで

古代ローマ人が完成させた「テルメ」

フリードリヒ浴場の地下に残っているローマ時代の公衆浴場の遺跡フリードリヒ浴場の地下に残っているローマ時代の公衆浴場の遺跡

ドイツ語で「温泉」や「公衆浴場」を意味する「Therme」(テルメ)がラテン語の「thermae」に由来している通り、今日に通じる欧州の温泉文化のコンセプトを完成させたのは、古代ローマ人といわれる。それ以前にも、古代ギリシャ人やケルト人は温水が体に良いことを発見していたが、ギリシャ人がスポーツトレーニングの締めくくりとして温泉を重宝したのに対し、ローマ人は個人のリラックスとレジャーのために大規模なスパ文化を発展させた。

初代ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前63年-紀元後14年)の時代には、民衆のために対話や講義の場としての円形浴場、さらにスポーツジムや商店を備えた施設を建設。さらにカラカラ帝やディオクレティアヌス帝なども公衆浴場を造り、帝国領各地に広まっていく。ローマ人が発展させたこれらの温泉施設は、ただ入浴するだけでなく、運動や食事、商売などの社会生活と結び付いた、コミュニケーションの場となった。

ドイツで最も有名な温泉保養地の一つであるバーデン=バーデンもまた、「Baden」がドイツ語で「入浴」を意味するように、温泉を軸に発展してきた。遠征していた古代ローマ軍が同地に20カ所の源泉を発見したことから、その歴史が始まったといわれる。ローマ人たちはバーデン=バーデンの街を建設するとともに、紀元後70〜80年にかけて、皇帝の娯楽や自軍の兵士の治療のため、この地に三つの浴場を造ったという。

貴族の娯楽から、誰もが楽しめる楽園へ

女優マレーネ・ディートリヒ(1901-1992)が「世界で最も美しいカジノ」と絶賛したというバーデン=バーデンにあるクアハウスのカジノ女優マレーネ・ディートリヒ(1901-1992)が「世界で最も美しいカジノ」と絶賛したというバーデン=バーデンにあるクアハウスのカジノ

欧州における最初のスパ全盛期は、ローマ帝国の崩壊と共に終焉(しゅうえん)を迎える。ゲルマン民族の侵入によって多くの浴場が破壊され、再建されることはなかった。しかし古代ローマ浴場の伝統は、ビザンティン帝国を征服したアラブ民族に受け継がれ、今日トルコ式風呂といわれる「ハマム」として発展。13世紀に十字軍の兵士がイスラム諸国を遠征した際、アラブの入浴文化から影響を受け、欧州でも温泉文化が徐々に復活していった。

さらに17世紀以降、欧州の温泉文化は復興し、19世紀には黄金期を迎える。ドイツの温泉街には、豪華なカジノやレストラン、シアターなどが複合した「クアハウス」(温泉のある保養施設)が造られ、温泉保養地の高級リゾート化に成功。有名な温泉地に滞在することが人気の旅行スタイルとして確立された。さらにドイツでは医療としての温泉、すなわち「温泉医学」(Balneologie)が発達し、政治家や貴族、裕福な市民は、定期的に温泉保養地に通い、飲泉や入浴による恩恵を受けた。こうして日本やハンガリー、アイスランドと並んで、温泉大国の地位を確立したのだ。

しかし20世紀には世界恐慌や二度の世界大戦によって観光客が激減し、再び温泉の人気は低下。その後1970年代には、石油危機を受けて採掘が活発に行われ、石油ではなく温泉が見つかったことで、各地に新しい温泉施設が誕生した。また同時に、都市的な生活スタイルが浸透したことで腰痛、肥満、疲労など、いわゆる文明病が増加し、温泉は自然療法として再び注目されるようになった。 今日、ドイツには約240の温泉施設があり、多くの市民から健康とリラクゼーションのオアシスとして愛されている。

参考:In die Therme「Geschichte der Thermen」、THERMENPORTAL. de「Thermalbad-Geschichte: Von Thermalquellen zu Thermalkuren」、Stadtgui.de「Die Geschichte der Thermen」

ドイツ屈指の二大温泉保養地

黒い森が育んだ自然豊かな街バーデン=バーデンと、カール大帝をはじめ世界の著名な文豪も賛美した温泉地ヴィースバーデンは、温泉好きなら一度は行ってみたい場所。まずは欧州を代表する温泉保養地として名高いこの二都市を訪ねてみよう。

バーデン=バーデンBaden-Baden

黒い森の北部に位置する、バーデン=ヴュルテンベルク州バーデン=バーデンは、紀元後80年頃から古代ローマ人によって温泉が築かれ、18世紀には上流階級が訪れる華やかな保養地になるなど、高級温泉保養地として欧州屈指の歴史を誇る。音楽家のブラームスやシュトラウス、小説家のマーク・トゥエインなど、多くの著名人が同地を訪れたという。レストランやカジノ、劇場を備えた温泉社交場の「クアハウス」(Kurhaus)をはじめ、ゴルフ場やショッピング街など、保養地ならではの楽しみも満載。

欧州の温泉文化の真髄を堪能フリードリヒ浴場Friedrichsbad

1873年に建てられたフリードリヒ浴場は、ローマ時代から伝わる17の入浴室を順に回るシステムで、水着なしで入浴する。温度の異なるさまざまな温浴を楽しむローマと、熱気浴の伝統を持つアイルランドの温泉文化を融合させていることから「ローマ・アイルランド浴場」(Das Römisch-Irische Bad)の異名も。中央のドーム型浴場(写真)にはフレスコ画や大理石が施され、そこに漂う奥ゆかしい芳香が体を優しく包み込む。さらに美しい建築物の地下では、ローマ時代の浴場遺跡を見学することができる。

Römerplatz 1, 76530 Baden-Baden
www.carasana.de/de/friedrichsbad

古代ローマ浴場の趣が漂うカラカラ温泉Caracalla Therme

古代ローマ時代にカラカラ帝が湯浴みに来たことから名付けられた温泉で、総面積は約4000平方メートル。モダンなガラス張りの巨大な殿堂が目を引く。浴室に足を踏み入れると、大理石が施された壮麗な空間が広がる。地下2000メートルから湧き出る温泉は天然ミネラルを多く含む塩化物泉で、血液の循環促進や保温効果が高い。人工滝や温水と冷水の洞窟、ワールプール、街を一望できるリラクゼーションルーム、フィンランド式サウナ、多彩なウェルネスプログラムなど、訪問者を飽きさせない工夫がいっぱい。

Römerplatz 1, 76530 Baden-Baden
www.carasana.de/de/caracalla-therme

ヴィースバーデンWiesbaden

マイン川とライン川の合流点に掛かるタウヌス丘陵の麓に位置する、ヘッセン州ヴィースバーデン。15の温泉源および鉱泉源を有し、古代ローマ時代から風情豊かなクアパーク(保養地)を中心に温泉観光地として栄えてきた。カール大帝の伝記には「草原の中の温泉」を意味する「Wisibada」という名で登場し、かの文豪ゲーテやドストエフスキーも好んで訪れたという。ヘッセン州立劇場をはじめとする文化の薫り高き街であり、広大なブドウ畑が広がるワインの産地としても有名。

芸術性の高い建築に注目カイザー・フリードリヒ温泉Kaiser-Friedrich-Therme

1913年に当時広まりつつあったアール・ヌーヴォー建築の温泉施設は、フレスコ画などローマ様式の美しい装飾が施された荘厳な雰囲気。特に施設中央に位置する全面タイル張りの浴室の豪華さは、一見の価値あり。古代ローマの公衆浴場にあったテピダリウム(微温浴室)やロシア式の蒸し風呂、フィンランド式サウナなど、さまざまなスタイルの浴場が訪れる人に癒しを与えてくれる。豊富な各種マッサージメニューもぜひお試しあれ。

※節電のため閉鎖中(2023年1月時点)

Langgasse 38-40, 65183 Wiesbaden
www.mattiaqua.de/thermen/kaiser-friedrich-therme

体に良いミネラルが豊富アウカムタル温泉Thermalbad Aukammtal

上質なウェルネスと本格的な健康プログラムを提供している温泉施設。今から2000年以上前に発掘された源泉には、鉄やマンガンなど多くのミネラルが含まれており、造血作用を高めるのに役立つほか、冷え性体質の改善にも大きな効果があるといわれている。屋内外合わせて約4000平方メートルの広々とした施設には、温水プールや7種類のサウナをはじめ、緑に囲まれた屋外エリアや広々とした休憩スペースなどを完備。

Leibnizstr. 7, 65191 Wiesbaden
www.mattiaqua.de/thermen/thermalbad-aukammtal

ドイツ各地のおすすめ温泉・サウナ 8選

バーデン=バーデンやヴィースバーデン以外にも、温泉大国ドイツには名湯がたくさん存在する。ここでは、「Bad」(入浴、湯治場などの意味)と名の付くドイツ各地の街から、選りすぐりの温泉施設をご紹介。お気に入りの温泉を見つけて、ぜひ出かけてみて。

MAP

Bad Bevensen 色と光に満ちた幻想的な世界❶ ヨード・ゾーレ温泉JOD-SOLE-THERME

ニーダーザクセン州バート・べーフェンセンの温泉の泉質は、日本の温泉に多い塩化物泉。これはリュウマチや関節痛、筋肉痛などの症状を和らげる効果があるとされている。総面積約1万2000平方メートルのヨード・ゾーレ温泉内には、色鮮やかな装飾と光に満ちた浴場、そして自然の要素をふんだんに取り入れた開放感溢れるサウナ庭園が広がっている。温泉施設の近くには、樹齢180年の大木を含む約560本の樹木に囲まれた閑静な公園があるので、温泉に入った後は自然散策に出かけるのもおすすめ。

Dahlenburger Straße 1, 29549 Bad Bevensen
www.jod-sole-therme.de

Bad Salzuflen 新感覚の巨大な湯の風船が目を引く ❷ ヴィタゾール温泉VitaSol Therme

19世紀以降、国内でも重要な保養地の一つに数えられてきたノルトライン=ヴェストファーレン州にあるバート・ザルツウフレン。「水による健康」をコンセプトにしたヴィタゾール温泉は、湯治客を居心地の良い夢の世界へいざなってくれる。天井に設置された巨大なバルーン型シャワー「Regenwolken」(雨雲)は同施設の目玉で、ここから噴き出す温泉を浴びれば気分爽快! 暖炉が付いたファイヤーサウナで汗を流した後は、屋外に出て新鮮な空気を吸い、自然との調和が美しい湖水のサウナで一息つこう。

Extersche Straße 42, 32105 Bad Salzuflen
www.vitasol.de

Bad Sassendorf 塩の力で全身リラックス❸ ベーデ温泉Börde Therme

ミュンスターラントとザウアーラントの間に位置するバート・ザッセンドルフ(ノルトライン=ヴェストファーレン州)は、植物由来の有機質を含んだモール泉と塩化物泉の発掘によって知られるように。濃度3.0〜3.4%の天然塩水で、全身のリラックスや免疫力の強化、リウマチや関節炎の痛みを和らげるなど、さまざまな効能があるとされる。ここベーデ温泉の自慢は、プールやサウナエリアはもちろん、「Meersalzgrotte」(海塩の洞窟)。岩塩に囲まれた空間でゆっくり深呼吸すれば、ストレスや皮膚病、呼吸器系疾患の改善が期待できる。

Gartenstraße 26, 59505 Bad Sassendorf
www.soletherme-badsassendorf.de

Bad Waldsee 硫黄泉で肌にシルクの輝きを❹ ヴァルトゼー温泉Waldsee-Therme

郊外の静かな避暑地として地元市民に愛されている、バーデン=ヴュルテンベルク州南東のヴァルトゼー温泉。多種多様な健康促進プログラムを提供しており、街の健康センターとしての機能も果たしている。なかでも積極的に取り入れているのが、入浴剤でおなじみの「クナイプ」の創始者が提唱したクナイプ療法。体全体の体質改善を図ることを目的とした伝統的な治療法だ。地下約1500~2000メートルから湧き出る硫黄泉は豊富なフッ素を含み、古くなった皮膚の角質の除去をする作用があるとされている。

Badstraße 16, 88339 Bad Waldsee
www.waldsee-therme.de

Bad Saarow 快適なマッサージで健康促進❺ ザーロウ温泉Saarow Therme

ブランデンブルク州のエレガントな保養地として知られるバート・ザーロウは、シャルミュツェル湖畔沿いにあり、自然の恵みを存分に受けた景観が魅力。ザーロウ温泉は、日中はガラス張りの壁面から注ぐ陽光が浴場を照らし、屋内は開放感に満ち溢れている。34~36度に設定された温泉では、天然泥を使用したマッサージをはじめ多くの健康プログラムを提供。フィンランド式サウナや塩サウナをはじめ、映画を観られるサウナ、雪で体を冷やすスノーシャワーなど、バラエティー豊かなサウナ施設を完備している。

Am Kurpark 1, 15526 Bad Saarow
https://therme.bad-saarow.de

Bad Kissingen 伝統と格式の温泉保養地❻ キスサリス温泉KissSalis Therme

バイエルン州の南東に位置するバート・キッシンゲンは、温泉愛好家の間では国内でも一際格式高い温泉保養地として有名。その威厳を象徴するかのように、かつての湯治客にはイタリアの作曲家ロッシーニをはじめ、オーストリアの皇后エリザベート、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクなどの偉人が名を連ねている。キスサリス温泉は、開放感あふれる温泉エリアが自慢で、プラネタリウム風のサウナや足湯、ビーチ風の休憩室など、趣向を凝らした施設が楽しい。泉質は、保温効果が高く、血液循環を良くするとされている炭酸塩化物泉。

Heiligenfelder Allee 16, 97688 Bad Kissingen
www.kisssalis.de

Bad Griesbach ゴルフ好き必訪のリゾート温泉❼ ヴォールフュール温泉Wohlfühl-Therme

欧州随一のゴルフリゾートでプレーした後、汗を流しに温泉でひとっ風呂……なんて楽しみを提供してくれるのが、バイエルン州パッサウの南西バート・グリースバッハの温泉。「バイエルンのトスカーナ」と呼ばれ、優雅なリゾート地として観光客らに人気が高い。ヴォールフュール温泉は、豊富にフッ素を含んだ炭酸水素塩泉で、肌の不要な角質や毛穴の汚れを取り除くなど、肌質改善にも効能があるとされる。トルコ風呂のハマムや、七色に輝く静寂な岩塩洞窟の中でリラックス。心身の疲れやストレスを吹き飛ばそう。

Thermalbadstraße 4, 94086 Bad Griesbach
www.wohlfuehltherme.de

Bad Füssing 大邸宅風のお風呂でのんびり❽ アインス温泉Therme Eins

同じくパッサウ近郊にあるバート・フュッシンクの温泉は70年以上の歴史を持ち、地下1000メートルから汲み出された硫化水素を含む56度の硫黄泉で、背痛や関節痛の解消など、その効能に魅了されたリピーターは多い。大邸宅を思わせるアインス温泉には、西側に噴水の付いた円形浴場、中央には夜間ライトアップされて幻想的に輝く浴場が設置されている。木の温もりを生かしたログハウス風のサウナでは、ジャガイモクリームを使ったピーリングケアを提供する「ジャガイモ庫サウナ」(Kartoffelkeller-Sauna)も体験できる。

Kurallee 1, 94072 Bad Füssing
www.therme1.de

ドイツの温泉・サウナの特徴&持ち物

特徴

ドイツの温泉は36〜40度程度と、日本の温泉と比べてややぬるめの設定。また男女別で入浴する施設はほぼなく、更衣室も男女共用だ。一般的にはプールゾーンでは水着を着用し、サウナゾーンでは着用不可のところが多い(施設によってはレディースデーなどを設けている場合も)。温泉とサウナだけでなく、休憩室やマッサージ、ウェルネスプログラムなども充実しているので、一日中施設内で過ごすことができる。

持ち物

  • バスタオル

    入浴後に体を拭く用と、サウナ用の2枚を用意する

  • バスローブ

    リラクゼーションルームやレストランで着用

  • 水着

    プールゾーンでは水着着用、サウナでは着用不可の場合が多い

  • サンダル

    床が水で滑りやすいため、 施設内はサンダルで移動する

  • お風呂セット

    シャンプーやボディーソープ、化粧水などは、温泉施設で用意されていない場合が多い

  • ビニール袋

    濡れたタオルや水着を入れて持ち帰るのに役立つ

  • 本や雑誌

    浴室には基本的にスマートフォンの持ち込み不可。のんびりと自分の時間を楽しむべく、本や雑誌を持参するのも◎。

日本と異なるマナーも!ドイツならではのサウナ文化

ドイツでのサウナの入り方

ドイツと日本のサウナの最大の違いは、男女混浴かつ全裸で入浴すること。サウナ内では水着やバスタオルの着用も禁止で、基本的に裸で入浴する(移動や休憩室ではバスローブなどを着用)。男女別の入浴に慣れている人にとっては少々ハードルが高いかもしれないが、ドイツのサウナはリラックスして自分と向き合うための場所。セクシャルな雰囲気もなく、おしゃべり厳禁など、しっかりとマナーが守られている。もちろんサウナエリアでの写真撮影も不可。

特にドイツのサウナで徹底して守られているのが、「サウナ内に汗をつけてはいけない」というルール。これはサウナ内の衛生環境を徹底して保つためだ。サウナ室内では自分が腰掛ける部分だけでなく足裏などにもタオルを敷き、体が直接すのこに触れないように注意しよう。またサウナ内の温度を保つため、ドアはきっちり閉める。以下は、一般的なサウナ施設が推奨しているサウナの入浴方法。初心者の方は無理をせず、またその日の体調に合わせてサウナを楽しもう。

  1. まずはシャワーを浴び、タオルで体をよく乾かす。体が乾いている方が汗をかきやすい。
  2. サウナに入り、タオルをお尻や足の下に敷いて座る、もしくは寝そべる。
  3. 体調や慣れ具合により、8〜15分間入って汗を流す。上段に座るほど温度が高くなるため、サウナ経験が少ない人は中段もしくは下段から始めると良い。
  4. サウナで寝そべっていた場合も、最後の1〜2分は座って血行をよくする。もし体調に異変を感じたらすぐに出よう。
  5. サウナから出たら、すぐにシャワーを浴びたり、プールに飛び込んだりせず、まずは新鮮な空気を吸って、体内に十分な酸素を送る。
  6. シャワーを浴びて汗を洗い流し、プールに入って体を冷ます。その後、体を乾かしたらバスローブにくるまって体を冷やさないようにして20〜30分ほど休憩する。温水のフットバスに浸かるのもおすすめ。水分補給も忘れずに!
  7. これを2〜3回ほど繰り返す。

ドイツ人のサウナ愛「アウフグース」

今年の世界大会は、Satama Sauna Resort & Spaで9月11(月)〜17日(日)に開催予定!今年の世界大会は、Satama Sauna Resort & Spaで9月11(月)〜17日(日)に開催予定!

ドイツのサウナでぜひ味わいたいのが、「アウフグース」(Aufguss)と呼ばれる独特のサービス。もともとドイツ語で「コーヒーなどを沸かす」という意味で、施設スタッフがタオルなどで扇いで入浴者に熱風を送る。たいていのサウナ施設では、アウフグースが行われる時間帯が掲示されており、その時間になると大勢の利用客がサウナに集まり、10〜15分のショータイムが始まる。各施設に人気のアウフギーサー(Aufgießer)がいることも。

ドイツのサウナ愛はとどまるところを知らず、ドイツサウナ連盟では、アウフグースのパフォーマンスやエンターテイメント性を競う世界大会(Aufguss WM)を毎年開催。世界各地からトップクラスのアウフギーサーが集まり、50以上の評価基準によって審査される。

大会では、単に熱波を送る技術を競うだけでなく、アロマをはじめ音楽や照明、コスプレ、小道具、ストーリー性など、あらゆる演出を駆使した一大エンターテイメントを披露。起承転結に違うアロマを使ったり、偉人の生涯や環境破壊をテーマにしたストーリー仕立てのアウフグース、タオルを振り回すと共に披露される華麗なダンス……などなど、圧巻のパフォーマンスに拍手が沸き起こる。ちなみに2022年9月にオランダで行われた世界大会には、初めて日本からも公式参加できることになり、熱波師として活躍する五塔(ごとう)熱子(ねつこ)さんがフリースタイルの個人部門で世界第3位に輝いた。

最終更新 Mittwoch, 08 Februar 2023 10:46
 

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