バウハウス創立100周年 ドイツ・デザインの歴史を紐解く
第一次世界大戦終戦から間もない1919年。ヴァイマル共和政期のドイツで、芸術の総合的教育機関「バウハウス」が誕生した。性別や年齢に関係なくアートやデザインを学べる場として、ここには世界各国から芸術家の卵や著名な講師陣が集まった。後に多くのアーティストを輩出するバウハウスを取り巻く環境や人々から、その歴史を紐解く。 (Text:編集部)
バウハウス造形学校の略年表
1902年 | アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデがバウハウスの前身「私立ヴァイマル工業ゼミナール」設立 |
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1907年 | 「大公立美術工芸学校」に名称変更 |
1919年 | ヴァイマル共和国成立。ヴァイマルの「大公立工芸学校」と1915年に閉校になった「ヴァイマル美術学校」が合併し、「国立バウハウス・ヴァイマル」設立 初代校長はヴァルター・グロピウスが務めた |
1925年 | デッサウに移転「市立バウハウス・デッサウ」設立 |
1932年 | ベルリンに移転「私立バウハウス・ベルリン」設立 |
1933年 | ナチスの台頭により閉校 |
1976年 | 戦争時に破壊された建物の一部が修復される |
1996年 | デッサウとヴァイマルの「バウハウス関連遺跡群」が世界文化遺産に登録 |
バウハウスを知るQ&A
Q1 バウハウスが誕生したきっかけは?
1880年代に英国で始まった、アーツ・アンド・クラフツ運動※の影響や流れをくむ動きがドイツでも起こる。当時のドイツは産業革命による工業化によって、職人を育成するシステムが一度廃止されていたため、工芸品などが大量生産されている時代だった。そんななか、工芸品の品位を高めることを目的に活動する「ドイツ工作連盟」が1907年に誕生する。この団体にはヘルマン・ムテジウスやアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデを中心に建築家やデザイナー、アート関係者が参加したという。しかし、1914年にムテジウスとヴェルデが仲たがいをしたことで、ヴェルデはドイツを去ることに。ヴェルデが1902年に設立したヴァイマル工芸ゼミナールを、同連盟に参加していたヴァルター・グロピウスに託したのが、バウハウスの始まりだった。
※19世紀後半に英国で盛んになった造形芸術運動。その後、欧州をはじめ世界各国に影響を及ぼした。
Q2 バウハウスって建築の学校?
バウハウスは絵画や彫刻、工芸品や写真、建築などのさまざまな芸術分野の総合的造形教育を行う機関として設立された。創設者であるヴァルター・グロピウスの「建築家、彫刻家、画家……われわれはみな、手工業に立ち返らなければならない。芸術家と職人の間に本質的な違いはない。芸術家は崇高な職人なのである」という理念のもと、画家のリオネル・ファイニンガー、画家で芸術家のヨハネス・イッテン、そして彫刻家のゲルハルト・マルクスらが教員として招集された。初期は金・銀・銅製品の工芸、製本、グラフィックプリントのコースがあり、独立した建築コースも開催された。バウハウスの中核を担っていた建築が学科として立ち上げられたのは、デッサウに移転してからの1927年のことだった。
バウハウスのデッサウ校舎から撮影に応じる生徒たち
Q3 バウハウス出身の著名人は?
前衛的なファッションやヘアスタイルに身を包むバウハウスの学生たちは、当時「バウハウス人」と呼ばれていたという。日本からは建築家で写真家の山脇巌や、教育者の水谷武彦らが留学していた。写真家でグラフィックデザイナーのヘルベルト・バイヤーはバウハウスで学んだ後、教師としても活躍。ほかにも建築家のアルフレート・アルント、建築家で家具デザイナーのマルセル・ブロイヤー(下写真)、画家・版画家のゲオルク・ムッへ、美術家のヨゼフ・アルバース、彫刻家のヨースト・シュミット、建築・彫刻・絵画・グラフィックデザインなど、多分野にわたって活躍したクリエイターのマックス・ビルがいる。また、テキスタイルデザイナーのグンタ・シュテルツルやア二・アルバースら、さまざまなアーティストを輩出した。
マルセル・ブロイヤーと女学生たち
Q4 バウハウスが閉校したのはなぜ?
20世紀以降の芸術・建築史に大きな影響を与えたバウハウスは、時代に翻弄された。バウハウスが閉校したのは1933年。ヒトラー率いるナチスが権力を掌握すると、国内の芸術活動が制限されるようになる。バウハウスも退廃芸術として弾圧されたことで、閉校を余儀なくされたのだった。活動自体は終了したが、現代でも数多くの建築物や作品がドイツ国内をはじめ、世界中に残っている。1996年にはデッサウとヴァイマルの「バウハウス関連遺跡群」 が世界文化遺産に登録されるなど、その記憶や歴史は現代にもしっかりと受け継がれている。
Q5 バウハウスの精神はどこへ?
バウハウスが閉校すると、多くの芸術家たちはドイツから逃れることを選択した。建築家のミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスは、亡命先である米国でも著名な建築家として活躍し、多くの作品を残している。また、バウハウスで講師として活動した美術家のラースロー・モホイ=ナジは、シカゴ芸術産業協会からの招聘に応じて、米国に「ニュー・バウハウス・アメリカン・スクール・オブ・デザイン」を開校した。後にイリノイ工科大学に吸収され、現在はイリノイ工科大学デザイン大学院として多くの学生が学ぶ。また、ドイツには総合芸術大学としてバウハウス大学ヴァイマルが設立された。このように100年経った今でも、ドイツ国内外でバウハウスの精神は多様な形で継承されている。