おとぎ話のルーツを探るグリム童話でめぐるドイツ・メルヘン街道
ハーナウを出発して、北のブレーメンまで続く全長約600キロの街道がある。この「ドイツ・メルヘン街道」をたどると、グリム童話やグリム兄弟にゆかりのあるさまざまな場所を訪れることができる。本特集では、「グリム兄弟の足跡を訪ねる旅」、「物語の舞台を訪れる旅」と題して、テーマごとに街をご紹介。奥深いグリムの世界をさらに知って、物語を体感しに出かけよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:Die Brüder Grimm-Gesellschaft e.V.、Brothers Grimm Haus、Deutsche Märchenstraße e.V.
目次
グリム兄弟
ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム
ヤーコプ・グリム(1785-1863)とヴィルヘルム・グリム(1786-1859)は、世界中で親しまれているグリム童話を兄弟で編さんした言語学者・民俗学者。童話以外にも『ドイツ伝説集』や『ドイツ語辞典』の編さんに携わり、ドイツ学の発展に貢献した。上の写真は1847年に撮影されたダゲレオタイプ(銀板写真)をもとに、1900年頃に再現された写真で、立っているのが兄のヤーコプ。
グリム兄弟の足跡を訪ねる旅
生涯さまざまな街で過ごしたヤーコプ&ヴィルヘルム・グリムの兄弟。二人が生まれ育ち、学んだ場所をその人生とともにたどってみよう。
❶ハーナウから❷シュタイナウへ
1785年、ヤーコプ・グリムはハーナウで生まれた。翌年の86年に弟のヴィルヘルムが生まれ、二人はまるで双子のように育つ。兄が6歳、弟が5歳のときに一家は東へ20キロほど離れたシュタイナウへ引っ越した。なだらかな丘が続く牧歌的な環境で幼年時代を過ごし、雄大な自然のなかで二人の感性が磨かれていく。
必見ポイントグリム兄弟像/ハーナウ
ハーナウは第二次世界大戦の被害が激しく、残念ながら兄弟の生家は残っていない。マルクト広場の市庁舎前には、腰に手を当てて立つ兄ヤーコプとその横に座る弟ヴィルヘルムの銅像がある。
Am Markt, 63450 Hanau
グリム兄弟の家(博物館)/シュタイナウ
シュタイナウは、「グリム兄弟通り」と呼ばれるメインストリートの両側に木組みの家が立ち並ぶ小さな街。一家が過ごした家は当時のまま残っており、現在は「グリム兄弟の家」という博物館になっている。すぐ近くのシュタイナウ城でもグリム兄弟に関する展示が見られる。
Brüder Grimm-Haus
Brüder Grimm-Str. 80, 36396 Steinau an der Straße
www.brueder-grimm-haus.de
❸マーブルクで昔話の魅力を発見
1796年、父親の突然の死によって二人はカッセルの伯母に引き取られることに。やがて青年となったグリム兄弟は、そろってマーブルク大学の法学部へ入学した。そこで師事したザヴィニー教授から、法律と同じように昔話も人々の間で生まれ受け継がれてきたことを教えられる。古い民話や伝説に興味を持った二人は、昔話を知っている人を訪ねてまわり、聞き取った話を少しずつまとめる活動を始めた。
必見ポイント下宿先/マーブルク
巡礼地である聖エリザベート教会が有名なマーブルク。立派な木組みの家が並ぶマルクト広場の近くに兄弟が下宿していた家が保存されている。建物内の見学はできないが、記念プレートが立てられている。
Grimm-Dich-Pfad Station 15
Barfüßerstr.35, 35037 Marburg
❹カッセルで誕生した『子どもと家庭の童話集』
1805年、大学を卒業した二人はカッセルに戻る。19世紀初頭、カッセルはフランス軍に占領され、ナポレオンの弟ジェロームがカッセルを含むヘッセンを支配していた。フランス語が得意だったヤーコプはジェロームに雇われて、ヴィルヘルムスヘーエ城で宮廷司書官を任せられたという。一方で1812年、兄弟がコツコツと聞き取りをしていた民話が『子どもと家庭の童話集』(いわゆる「グリム童話」)という形でまとめられ、世に送り出された。
必見ポイントヴィルヘルムスヘーエ城公園/カッセル
ヤーコプが働いていたヴィルヘルムスヘーエの丘にある城は、現在美術館&博物館に。城を含めたヴィルヘルムスヘーエ丘は世界文化遺産に登録されている。
Bergpark Wilhelmshöhe
Schlosspark 1, 34131 Kassel
グリム兄弟博物館/カッセル
カッセル市内にあるこの博物館では、グリム兄弟の直筆メモが記された『子どもと家庭の童話集』が展示されている。これは2005年にユネスコによって世界記憶遺産に登録されており、一見の価値あり。
GRIMMWELT Kassel
Weinbergstraße 21, 34117 Kassel
www.grimmwelt.de
❺ゲッティンゲンの大学から追放処分に
ドイツ語学研究を続けていたヤーコプとヴィルヘルムは、1829年にゲッティンゲン大学から教授として招かれ、ハノーファー王国へ移った。大学の講義は法律や神話、言語、文学の歴史など多岐にわたり、さまざまな書物を出版。順調に生活を送っていたが、1837年に国王の憲法違反に対して教授たち7人で抗議文を提出したため、7人の教授全員が追放となる。
必見ポイントグリム童話の噴水/ゲッティンゲン
第二次世界大戦の被害が激しかったゲッティンゲンには、、古い建物は残念ながらほとんど残っていないが、マルクト広場には1901年に造られたグリム童話「ガチョウ番の娘」の噴水がある。
Markt 9, 37073 Göttingen
❻ベルリンで王室学士院会員に
ゲッティンゲンを追われた兄弟は一時カッセルへ戻るが、すぐにベルリンから声が掛かった。プロイセン王国のベルリン大学が二人を教授として迎えたのだ。二人はそろって王室学士院会員となり、ベルリンで安定した日々を過ごした。1854年に刊行された『ドイツ語辞典』第1巻のほか、数多くの学術論文や評論集を刊行。そして弟ヴィルヘルムは1859年に、兄ヤーコプは1863年に世を去った。
グリム童話は主にヴィルヘルムが加筆し、1857年に第7版を出してこれが決定版となった。兄弟の最も偉大な功績であるドイツ語辞典は二人の生前には完成されず、ヤーコプはアルファベットの第6字「F」を手がけていた最中に亡くなった。この大事業は後継者たちによって作業が続けられ、兄弟の死からおよそ100年後の1961年に完成した。
必見ポイント旧聖マティウス教会墓地/ベルリン
グリム兄弟はベルリンの旧聖マティウス教会墓地に眠っている。この墓地には病理学者のルドルフ・フィルヒョウ(1821-1902)、ミュージシャンのリオ・ライザー(1950-1996)、アフリカ系ドイツ人詩人のメイ・アイム(1960-1996)など偉人が多く埋葬されている。
Alter St. Matthäus-Kirchhof Großgörschenstraße 12-14, 10829 Berlin
www.zwoelf-apostel-berlin.de
物語の舞台を訪れる旅
「むかしむかし、あるところに......」で始まる童話では、明確な時代も場所も語られていないものが多い。しかしグリム童話のなかには、地域独特の風習やモチーフにしているものがあり、ルーツといわれる場所が存在する。グリム兄弟が集めた童話と伝説の舞台とされる、メルヘン街道の街を訪ねてみよう。
「赤ずきん」の帽子は実はこんな形❶シュヴァルム地方
ヘッセン州シュヴァルム地方の伝統衣装は、色彩が重要な役割を担っている。未婚者は赤、既婚者は緑、青、紫を身に着ける。中世から、若い未婚の娘はコップを逆さにしたような赤い帽子をかぶっていたことから、この地方は「赤ずきん」の故郷と呼ばれている。
シュヴァルム地方の伝統衣装はスカートを何枚も重ねる。身に着けるまで1時間ほどかかるという
「赤ずきんの里」と呼ばれるメルヘン街道のアルスフェルトには赤い帽子を頭に載せた少女の噴水がある
今でも祭りの時には赤い帽子を頭に載せた女の子たちが大勢集まってくる。観光地として知られるアルスフェルトという小さな街には、かわいらしい木組みの家が並び、赤ずきんの石像が立つ泉がある。
アルスフェルトの市庁舎も木組みの建物
「白雪姫」は実在していた?❷バート・ヴィルドゥンゲン
ヘッセン州バート・ヴィルドゥンゲンは、16世紀の城主ヴァルデック伯爵の娘と白雪姫の境遇が似ていること、近郊の村に「こびと」が住んでいたとされることから「白雪姫」のルーツといわれている。伯爵の妻は娘を産むとすぐに亡くなり、二人目の妻がやってきた。娘が成長して美しくなると継母は嫉妬し、若い姫を無理やり遠くベルギーに住む城主に嫁がせたのだ。彼女は21歳で亡くなったのだが、死亡の原因はヒ素中毒で、白雪姫が毒リンゴを食べさせられたように毒殺されたといわれている。
村の入口付近では白雪姫と7人のこびとの石像がお出迎え
一方、近郊の村では銅の採掘に子どもを働かせていた。作業着を頭からすっぽり被る姿がこびとのように見えたため、こびと伝説が広がったという。この二つの出来事がもとになって、「白雪姫」の話が生まれたとされている。
ベルクフライハイト地区にある資料館「白雪姫の家」では、こびとたちの暮らしを体験することができる
「ホレおばさん」が住んでいた沼は今も山中に❸バート・ゾーデン・アレンドルフ
継母からいじめられていた娘が、落としてしまった糸巻きを拾うため、井戸に飛び込み意識を失ってしまう。再び目を覚ますと、娘は見慣れない草原におり、そこでホレおばさんに仕えることに。娘は家事を手伝い熱心に羽布団をふるった。すると世界には雪が降るのだった……。この「ホレおばさん」の話は、グリム童話集にもドイツ伝説集にも載っており、マイスナー山地が出どころとされている。この地方の中心であるバート・ゾーデン・アレンドルフで毎年4月に開催される祭りでは、ホレおばさんにふんした夫人が登場。街から10キロほど離れたマイスナーの山の中には、古くからホレおばさんが住んでいると伝えられている沼「Frau-Holle-Teich」もある。また、ドイツでちらちらと初雪が降ると、「ホレおばさんが布団をたたいている」と言うことも。
「ホレおばさん」が住むマイスナー山地で祭になると現れるフラウ・ホレ
130人の子どもが消えた!?❹ハーメルン
ネズミ捕り男の伝説でおなじみのハーメルン。ネズミによる被害に困っていたこの街に、ネズミ捕りの男が現れた。街の人は報酬を払う約束をしてネズミ退治を頼んだところ、男は笛を吹いてネズミを川へおびき出して溺死させたという。簡単に退治できたことで街の人が報酬の支払いを拒むと、今度は笛で街中の子どもたちを連れだして去っていった。街から消えた子どもは130人にも及ぶ。このネズミ捕り男の話について、グリム兄弟の「ドイツ伝説集」には1284年の出来事と書かれている。毎年5~9月の日曜日正午からネズミ捕り男の野外劇が行われている。
夏限定だがマルクト広場では野外劇が行われ、世界各国から観光客が訪れる
あの音楽隊が目指した街❺ブレーメン
厄介払いになった年老いたロバ、イヌ、ネコ、おんどりがブレーメンを目指す「ブレーメンの音楽隊」。旅の途中で泥棒の屋敷に侵入し、泥棒を追い出すことに成功した4匹はその後も仲良くその屋敷で暮らした。結局のところ、ブレーメンには到着していないが、童話の中でも珍しく地名が出てくるブレーメンには、市庁舎の西壁脇に銅像が立っている。ロバの上にイヌ、ネコ、おんどりが乗った銅像は記念撮影スポットとして観光客に人気。銅像のロバの前足に触ると願いがかなうといわれており、多くの人が触るため前足だけ金色に輝いている。
1953年から設置されているこの銅像は、造形作家ゲルハルト・マルクスによる作品
グリム童話の特徴
場所や年代は書かれてない
グリム兄弟の代表的な著作には、「グリム童話」と「ドイツ伝説集」の二つがある。グリム童話はいつのことなのか、どこの話なのか分からないことが特徴だ。登場人物もほとんどが「女」や「男」であり名前はない。「ブレーメンの音楽隊」は街の名がタイトルになっている唯一の話。
しかし4匹の動物たちはブレーメンを目指していただけで目的地にはたどり着いておらず、結局どこを舞台にした話なのかは分からない。それに対しドイツ伝説集では必ず場所が明記され、主人公の名前や年代が書かれている話もある。
実は残酷な話が多い
人殺しや首切りなどが頻繁に行われ、目玉をくり抜かれることもあるグリム童話。こうした残酷な行いは物語の中だけの話に思われるが、中世では実際に行われていた。ほかにも、家計の負担を軽くするために子どもを捨てることや、近親相姦などは頻繁にあったといわれる。
『子どもと家庭の童話』の初版では残酷な描写はそのままだったが、子どもが読むものとしてふさわしくない箇所については、第2版では削除されたり書き換えられたりした。
同じことを3回繰り返す
同じことを3回繰り返すのもグリム童話の特徴である。例えば三人兄弟がいて、長男が失敗し、次男が同じことをして失敗し、今度は三男が挑戦してやっと成功するのは定番。また同じ呪文が3回繰り返されることもある。
人間は知っていることを耳にするとき心地良さを感じるというが、子どもたちは「あ、また始まるぞ!」と期待に胸を膨らませるのだ。そんな効果を狙った繰り返し話法も、グリム童話が親しまれた理由の一つなのだろう。
意外と知らないグリム童話
グリム童話は全部で200話もあるのをご存知だろうか。誰でも知っている有名な話はほんの10話ほどで、「こんな話もあったのか!」と知られていない童話がたくさんある。あまり知られていない、面白い話をいくつか紹介しよう。
糸くり三人女
あるところに怠け者の娘がいた。母親は糸を紡がせようとしたが、泣いて嫌がった。そこへ妃が通りかかると、母親はとっさに「娘は糸を紡ぐのが大好きだが、貧しくて家には亜麻がないので泣いている」と口をすべらせた。妃は娘を城へ連れて行き、山ほどある亜麻の糸を与え、それを紡ぎ終わったら王子と結婚させることを約束する。そして一生かけても紡ぎ終えないと泣き叫ぶ娘のもとを、3人の女が通りかかった。1人目は片足が大きくて幅広い女、2人目は手の親指が大きくて平な女、3人目は下唇が顎までべろんと垂れ下がっている女。三人は「自分たちを親戚として結婚式に招待するなら手伝ってやろう」と提案する……。
解説
「糸紡ぎ」はギリシア神話にも登場し、人間の生死をめぐる運命の象徴として描かれている。この物語では家事としての「紡ぎ」と、秘めた夢を形にしていく「紡ぎ」を対比させているようだ。つまり他人(ここでは母親)からの要求から解放され、自分の意思に従って自分の人生を生きることができるのかという問題を提起している。怠け者の娘がハッピーエンドを迎えるという物語はめずらしいが、どんな人も差別せずに温かく接する娘だからこそ王子と結婚できた、とも読み取れる。
死神の名付け親
貧しい家に男の子が生まれた。名付け親を探していた父親は死神と出会い、「あんたは人を分け隔てなく扱う」と名付け親を頼むことに。その子は大人になると医者になり、死神は名付けた子を助けるようになった。死神が病人の足元に居れば病気が治り、枕元に居ればその病人は死に至るため、医者はそれを利用して次々と重症患者を治していったのだ。ある日、病床の王様のもとへ行くと、枕元に死神がいた。そこで医者はベッドごと持ち上げて頭と足を逆にすることで、死神が王の足元にいるようにし、見事に治してみせた。そんな医者に対し、死神は「今度だましたらお前の命はない」と警告するが……。
解説
これは、日本の古典落語「死神」の基となったグリム童話だ。落語では「生」と「お金」という人間の根源的な欲望への執着を説いているのに対し、グリム童話では合理的な思考で自然(死神)をだまそうとする人間の巧妙な試みは、結局のところ失敗に終わることが描かれている。治療行為でもほかの仕事でも、この医者のように「頭と足を逆」にする、つまり考え方を180度変えることで新しい視点が見つかることはあるだろう。ただし、自然の警告を無視する者は、その責任を追わねばならないのである。
お月さま
月のない国では夜は暗く、国民は寂しい時間を過ごしていた。この国からやって来た4人の旅人が、ある日ナラの木に引っ掛かっている月を見つけ、それを国に持ち帰った。人々は夜が明るくなって喜んだのだった。やがて4人は年老いて1人に死期が近づくと、「月の4分の1は自分のものだから棺おけに入れてくれ」と頼んだ。2人目も同じことを言った。しかしそのたびに月が欠けてしまい、4人目が死ぬと国は昔のように暗くなった。一方、地下の世界は月が埋められたために明るくなり、死人たちが動き出した。そしてどんちゃん騒ぎしていることを天国のペテロさまに知られてしまう……。
解説
木に引っ掛かっていた月を持ち帰る、というロマンに満ちた話。マタイによる福音書16章ではイエスが聖ペテロに「天国の鍵」を授けたというシーンがあることから、聖ペテロは天国の門番役として知られる。中世では死後に天国に行けるか行けないかを知りたい気持ちが強くあったのだろう。そのため、聖ペテロはこの話以外にも「天国へ行った仕立て屋」や「うかれ大将」などさまざまなグリム童話に登場する。またカール・オルフのオペラ「月」の原作になった童話としても知られている。
寿命
神様が生き物に寿命を定めようとした。最初にやって来たロバに30年を与えると、ロバは「そんなに長く働くのはつらいから短くしてくれ」と頼む。神様は気の毒に思って18年に減らした。次に来た犬に30年を与えると、犬も長すぎると言うので12年に減らした。その次にサルが来た。サルも30年は長いと言い、10年に減らした。そして人間が来た。人間は「30年では短い」と言った。ロバの18年を足すことにすると、それでも足りないという。神様はイヌの12年とサルの10年も足して、人間の寿命を70年にした。そんなわけで人間は人生の後半はロバのように働き、イヌのようにほえつき、最後はサルのように滑稽なことをするようになった……。
解説
グリム童話の中には、現代にも通じる人間の性さがが見受けられる。特に年配者や年老いた動物が厄介者にされた物語は複数ある。グリム兄弟が生きた19世紀の平均寿命は、男性が35.6歳、女性が38.4歳だった。そのため30歳までは人生を謳おうか歌し、その後は苦労が続く設定になっているのかもしれない。しかし19世紀以降、乳幼児の死亡率は低下し、結核などの感染症も徐々に減少。ワクチンや抗生物質など医学の進歩によって、今や人間の寿命は当時の倍になっている。不老不死の研究もされている現代も、人間ができる限り長く生きたいという気持ちはずっと変わっていないのかもしれない。