ゲーテやグリム兄弟、ヘッセやノーベル賞作家のギュンター・グラスなど、世界的に有名なドイツ文学者は多い。これをオーストリア、スイスのドイツ語圏、あるいは昔のオーストリア・ハンガリー帝国にまで押し広めれば、ムージルやブロッホ、「ハイジ」の著者シュピーリ、リルケといった文学史上欠くことができない作家がずらりと並ぶ。しかしドイツ文学の中には、ナチス政権という体制に抗い、アメリカやフランスなどに亡命を果たし、彼の地で活躍した作家たちもまた少なくない。ドイツ語圏の外に出たドイツ文学。世界に流通するWeltliteratur(世界文学)。そんな 歴史の濁流の中で現れた作家たちの作品に触れてみよう。
( Texte by Masato Enya )
ドイツを後にして外国へ向かった作家たちの中には、もちろん未知の国への芸術的・文学的憧れからこの国を離れた者もいる。しかし、どうしてもドイツの亡命作家・知識人とナチス政権を切り離して考えることは出来ない。
世界恐慌による社会不安が渦巻く1930年代、ナチスは民衆を惹きつけ33年に一党独裁を確立。34年には総統に就任したヒトラーの下、いわゆるドイツ第三帝国が成立した。圧倒的な力を持ったナチスは、その人種論に基づきユダヤ人迫害を行い、その結果として多くのユダヤ系知識人や自由主義者が亡命を余儀なくされることになった。こうしてアインシュタインや作家ハインリヒ・マンはアメリカへ向かい、また哲学者ベンヤミンはパリへと向かうことになるのであった。美貌の女優マレーネ・ディートリッヒがアメリカへと移り住んだのも、ヒトラーからのナチス協力の要請を断ったことがその背景にある。
中央・東ヨーロッパへのナチスの勢力拡大は、ドイツのみならずオーストリアやポーランド、チェコスロバキアなどからも亡命者を生むことになり、またその後のソ連軍による「解放」は、パリのセーヌ川に身を投げた詩人パウル・ツェランのような新たな亡命者を誕生させることにもなった。こうして、ドイツ文学の偉大な作品が国を離れた亡命作家の手によってドイツ語で書かれるという一時代が、歴史の巨大な力によって生み出されたのである。
生きることとは何かを問う
ノーベル賞受賞作家
トーマス・マン
(Thomas Mann 1875-1955)
1929年、「ブッデンブロークの人びと(Buddenbrooks - Verfall einer Familie)」を主な対象としてノーベル賞を受賞したマンは、間違いなく20世紀のドイツ文学を代表する一人だ。第1次大戦中、帝政ドイツを支持していた彼は、後に民主主義擁護の立場を取り始め、 ヒトラーが政権を取った33年、講演旅行に発ったその足で亡命を果たした。スイスに逃れた後アメリカへ渡り、44年にはアメリカの市民権を獲得している。
マンといえば、ルキノ・ヴィスコンティ監督が71年に映画化した 名作「ベニスに死す(Der Tod in Venedig)」の原作家。ベネチアで出会った少年に理想の美を見出し、その少年を捜し求めて街をさまよう老年の作家の物語を映像化したヴィスコンティの作品にのめり込んだ人も、あるいはまたスクリーンに現れた美少年ビョルン・アンドレセンや渋いダーク・ボガード、イタリア美女のシルヴァーナ・マンガーノに惚れ込んだ人も少なくないのでは?
マンの代表作に、ここでは24年に出版された「魔の山( Der Zauberberg)」を挙げておこう。スイスのサナトリウムを舞台に、人々の生き方を深い考察に基づいて描いた長編小説で、主人公は結核を患ったハンス・カストルプ。病は人間を尊厳から遠ざけるものか、それとも人間とはそもそも病気であるのか。生と死を巡る考え方が議論を生み続ける。そうした中、病気を理由に療養地で惰眠のような生活を送るハンスに戦争という現実が突きつけられる。マンが実際に生きていた時代を背景に人間の生き方に迫ったこの作品、未読なら手にとって読んでみても悪くないだろう。
重いテーマに苦いユーモアで
迫った劇作家
ベルトルト・ブレヒト
(Bertolt Brecht 1898-1956)
ブレヒトといえば、作曲家クルト・ワイルが音楽を担当した劇「三文オペラ(Die Dreigroschenoper)」がとりわけ有名だろう。ジャズや古典オペラの技法を取り入れた音楽と辛辣な社会風刺で作られたこの音楽劇は、1928年の初演から1年間のロングランを果たし、今でも世界中で上演され続けている作品だ。
彼が反ヒトラーの立場からドイツを去りデンマークへと向かったのは、他の多くの亡命者と同じく33年。その後スウェーデンなどに移り住みながら、41年にはアメリカのカリフォルニアに移住を果たす。ちなみに、この亡命中に大部分を執筆していたにもかかわらず、彼の死後にしか刊行されなかった「亡命者の対話(Flu.. chtlingsgespra..che)」は、ファシズムが吹き荒れる世界をユーモラスで軽妙な対話を通して描いた傑作でお薦めだ。
アメリカでは、ウィーン生まれのユダヤ人映画監督フリッツ・ラングとの出会いがあった。「メトロポリス」や「M」で有名なこの監督も、ナチス政権下から逃げるようにアメリカに亡命を果たしていた一人だ。こうしてドイツ語圏の劇作家と映画監督とがアメリカで巡り会い、映画「死刑執行人もまた死す」が作られたのである。
彼の代表作の一つである「肝っ玉おっ母とその子どもたち(Mutter Courage und ihre Kinder)」も良作だ。30年戦争中のドイツとポーランドを背景に、3人の子供を引き連れ、幌車を引き、日用品や食料を売り歩く肝っ玉おっ母を主人公にした物語。子どもをも奪い、人々に重く圧し掛かる戦争と、その中で肝を据えて生きていかねばならない庶民の底力を描いたこの作品は、舞台で上演されることもある。観劇に足を運ぶのも良いだろう。
自由思想のフランスに
憧れた詩人
ハインリッヒ・ハイネ
(Heinrich Heine 1797-1856)
デュッセルドルフ市庁舎近くには、詩人ハイネの家があった。ハイネの詩を基に、ドイツの民謡作曲家フリードリヒ・ジルヒャーがメロディーをつけた「ローレライ」は、ライン河畔の岩上に立ち、美しい歌声で船乗りを死に誘う妖精の伝説を歌った名作。作曲家シューベルトやシューマンが曲をつけたことでも有名な詩集「歌の本(Buch der Lieder)」(1827)を紡ぎ出したことでも知られている、この叙情的な詩人もドイツを後にした一人だ。
彼の作品は、後にナチス政権下で焚書(ふんしょ)の扱いを受けることになるが、19世紀の詩人である彼のパリへの移住にヒトラーは関係ない。
彼を異国の地へと突き動かしたのは、ドイツの専制制度への批判とナポレオンへの傾倒、フランス革命の民主主義思想など、より自由な政治的・文学的な場を求める魂であった。実はこの未来の大詩人がまだ少年だった頃、デュッセルドルフの街はフランス革命軍の駐留地で、この環境が後の自由思想の土台を築いたのだ。
1831年、新聞社の特派員としてパリに移り住んだ彼は、息を引き取るまで生涯をその地で過ごすことになった。そこでは、フランスの作曲家ベルリオーズやポーランドからパリに移り住んでいたショパン、作家のバルザックやジョルジュ・サンドと親しく付き合うことになる。晩年は脊髄の病を患い、寝たままでの創作を続けることになるが、その中には長編詩「ドイツ、冬物語(Deutschland. Ein Winterma.. rchen)」もあった。その詩の中には、亡命先から祖国への望郷の念をつづったものも含まれている。フランスの自由思想に憧れて国境を越えたハイネは、博愛の精神を持ちつつも、ドイツへの愛を失っていたわけではない。
20世紀最大の
哲学者のひとり
ヴァルター・ベンヤミン
(Walter Benjamin 1892-1940)
ナチス政権の成立によって亡命したユダヤ系知識人の代表の一人とも言えるベンヤミン。ベルリン大学や、スイス・ベルン大学で学び、フランクフルト学派の社会研究所で研究員として研究活動を行ったこともある。亡命以前にはベルトルト・ブレヒトと出会い、彼の作品を高く評価して分析している。ドイツロマン主義やゲーテといったテーマは、一見するとドイツ文学論を書いているようにも思えるが、ベンヤミンの射程はドイツのみに留まらない。彼は、近代資本主義社会を深く分析している。例えば、写真や映画といった技術の発展によって生産可能になった芸術を論じた「複製技術時代の芸術(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit)」は、間違いなく芸術作品の見方に新しい視点 を呼び起こしてくれるだろう。
その彼が亡命先に選んだのは、ドイツを離れた2年後の1935年に「19世紀の首都(Paris, die Hauptstadt des XIX Jahrhunderts)」と彼が呼ぶことになるパリである。ベンヤミンを語る上でパリは切り離せない。その顕著な例が、彼の代表作「パサージュ論」であろう。パリには現在でもパサージュと呼ばれるガラス屋根で覆われたアーケードの商店街が残っているが、ベンヤミンはこの「家屋でもあり街路でもある」場所に引きつけられ、未完に終わった「パサージュ論」という膨大な草稿の束を終生書き連ねていく。そこでは、ショーウインドーに飾られた商品や鉄骨建築、万博博覧会や娼婦を通して、商品社会が隆盛を極めるパリが哲学者の目によって描き出されている。
彼の人生の幕切れは、あまりにも悲しく不幸だ。40年、大戦勃発後のドイツ軍のパリ侵攻の際に、アメリカへ亡命を図ったが失敗。スペインに入ろうとするが、それも失敗に終わり、フランス国境に近い町で服毒自殺によってその生涯を閉じたのである。
ハイネはパリの北に位置するモンマルトルの墓地に眠っている。
シャンゼリゼ大通りのすぐ近く、マティニョン通り3番地にあるハイネ臨終の地。
ハイネ臨終の地に掲げられたプレート。「詩人アンリ・エーヌ(Henri Heine・ハイネのフランス語名)1797年デュッセルドルフに生まれ、1856年2月17日ここに死す」と書かれている。
ベンヤミンが語ったパサージュ。パリには今もパサージュが20カ所ほど残る。写真はその一つで、パサージュ・ジュフロワ。
ドイツ人ではないけれど、ドイツ語で執筆してドイツ文学の一翼を担いつつ、その境界を越えていく作家たちがいる。
そんな作家の作品も読んでみよう。
多言語の中で書く
日本・ドイツ語作家
多和田 葉子
(Yoko Tawada 1960-)
多和田葉子がドイツ文学の作家なのか、それとも日本文学の作家なのかと問うこと自体、ナンセンスなことかもしれない。1982年からハンブルクに住み、ドイツ語と日本語の2カ国語で執筆を行う彼女の視点は、ドイツ・日本という国の境界を越えていくというより、二つの境界線上に留まることに向けられているからだ。彼女が受賞した文学賞を見ても、その二重性がわかる。例えば93年には「犬婿入り」で芥川賞を受賞しているし、96年にはドイツ語での文学活動に対して、バイエルン州芸術アカデミーからシャミソー賞を与えられているのだ。
代表作の一つ「犬婿入り」は、町の学習塾で教師をする主人公の元へ、突如、犬男の「太郎さん」が押しかけてくる物語。独特のリズムで語られるストーリーは、奇想天外で読者を引き込む。単行本に同時収録されている「ペルソナ」はドイツに留学している姉弟の道子と和男を主人公に、人種や文化、言語の問題を横たえつつ、深い問題にまで切り込んでいく物語に仕上がっている。二作品合わせて彼女の作品の幅の広さと、その文体を楽しむことが出来るだろう。
彼女のエッセイ「エクソフォニー 母語の外に出る旅」はベルリンやパリ、モスクワ、北京と街の名を冠した章が並ぶ第1章と、ドイツ語の表現にまつわるエッセイの第2章から成り、言葉に興味がある人はもちろん、そうでなくとも読んで面白い一冊だ。言葉に対して内・外の両面からアプローチをかけ、そこから日本や現代社会、歴史、文化をめぐる彼女の思考が軽やかに語られる。もし、旅というものが異文化に触れ、自己や他者を見つめ直す機会であるとすれば、この本を通して読者は文字通り「旅」をすることになるだろう。
プラハのユダヤ人
ドイツ語作家
フランツ・カフカ
(Franz Kafka 1883-1924)
時にドイツの作家と思われるカフカだが、彼はオーストリア・ハンガリー帝国治下のプラハ生まれだ。労働災害保険局に勤務しながら執筆を行うという二重生活を送っていた彼は、生涯の大半をその街で過ごした。かつて錬金術師たちが住んだという黄金小路のカフカのアトリエは、今ではプラハの観光名所になっている。
20世紀の最も重要な作家の一人に数えられるカフカ。その作品には不安や孤独、不気味さが漂う、いわゆる「カフカ的」世界が繰り広げられる。例えば、「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目を覚ますと、ベッドの中で一匹の巨大な虫に変身していた」という「変身(Die Verwandlung)」はあまりにも有名。
カフカはいくつかの短編を除き、全ての作品を燃やすように遺言を残してこの世を去ったが、託された友人マックス・ブロートはその約束を違えた。その行為が友人への裏切り行為となるかどうかは別の問題として、カフカの作品や書簡は残り、我々が読めるところとなっている。
そんな彼の数ある作品の中から長編「審判(Der Prozess)」を紹介しよう。ヨーゼフ・Kはある朝、突然逮捕される。だが、身柄が拘束されるわけでもなく、今までと同じように生活を送ることが出来る。裁判所から呼び出しを受けても、その裁判所へはなかなかたどり着くことが出来ない。自分の罪状もわからず、弁護も虚しく意味をなさない。
多くの芸術家に影響を与えたこの不思議な小説の面白さは、実際に読んで実感してほしい。この作品はアメリカのオーソン・ウェルズ監督が映画化したことでも有名。また劇作家ハロルド・ピンターが脚本を担当し、「ツインピークス」のカイル・マクラクランや「羊たちの沈黙」のアンソニー・ホプキンスが出演した映画「トライアル」が、この作品を元にしていることも付け加えておこう。
プラハで、ユダヤ人のカフカがドイツ語で作品を創作すること。そこに注目したのがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析学者のフェリックス・ガタリだ。多くの哲学者や作家、芸術家、そして読者がカフカに魅了され、それぞれのアプローチでカフカに接近してきた。そんな中で、ドゥルーズとガタリが注目したのは、カフカの「書かないことの不可能性」「ドイツ語以外で書くことの不可能性」「ドイツ語で書くことの不可能性」であった。
彼らの原動力となっていた考え方が、「マイナー文学」という位置付けだ。これは有名なメジャー作品とマニアックなマイナー作品という意味ではない。彼らが「マイナーであること、つまり、あらゆる文学に対して革命的であることは、このような文学の栄光である」と肯定するそのマイナー文学というのは、「少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学」のこと。それはカフカに限らず、国民文学の枠や文学における言語の境界が揺らいだ20世紀、21世紀の文学を考える上で重要な視点を打ち出しているが、こういったマイナー文学の定義の中で、ドゥルーズとガタリが第一に考えるのはカフカのことだ。「自分たちの言語から、その言語を深く掘り下げることができ、冷静に、革命的にその言語を展開させることができる」方法としてカフカの執筆活動を見ている。
ドゥルーズとガタリの『カフカ─マイナー文学のために』。もしカフカの作品に魅了されたなら、じっくりと付き合ってみたい本だ。