青木奈緖 特別エッセイ
過ぎてきた時
1963年、東京都生まれ。作家、エッセイスト、翻訳家。学習院大大学院修士課程修了。ウィーン留学後、翻訳や通訳をしながらドイツ・フライブルクに長期間滞在。98年に帰国し、『ハリネズミの道』(講談社)でエッセイストとしてデビュー。曽祖父は幸田露伴、祖母は幸田文、母は随筆家の青木玉さん。
ドイツから帰国してからの年数をずっと覚えていたのに、いつのまにか頭の中で計算して確認するようになった。それだけ歳月が流れたということなのだろう。多少の寂しさと、それを上回る懐かしさ、そして揺るぎない親しさを持って振り返ってみようと思う。
----
大学でドイツ文学を学び始めた頃の私は、典型的な日本の学生らしく文法は多少理解していたが、会話はまったくできなかった。語学力のなさというより、口を開く勇気を持たなかったということかもしれない。
それから間もなく、知り合いがドイツ人留学生を紹介してくれた。私と同じくらいの歳の女性で、彼女はドイツ語を教えるアルバイトを探しているという。引っ込み思案の矯正のような感覚で私は時おり彼女に会って、たどたどしいドイツ語のおしゃべりをした。
それが縁で、彼女がドイツへ帰国してからも間遠な文通を続けた。メールではなく、文通という響きがなんともクラシカルだが、30年以上前はそれが普通だから仕方ない。
----
大学卒業後の私は居残りのようなかたちで大学院へ進み、奨学金を得てドイツとオーストリアへ留学した。この頃の空路はまだ南回りの欧州便が残っており、アンカレッジ経由が人気だった時代。街角の電話ボックスから硬貨を握り締めてかける国際電話は、いくら早口で話しても、気が急いて無事を伝えるのが精一杯だった。
ドイツへ渡ったばかりの私を、友人は遠くの街から気に掛けてくれ、クリスマス休暇には実家へと呼んでくれた。それまで模造品のクリスマスツリーとアイスクリームのケーキしか知らなかった私に、ろうそくを灯した本物のツリーはきらきらとまばゆく、ほの暗い教会で開かれるコンサートやクリスマス市から漂うグリューワインのかぐわしさにドイツのクリスマスを実感した。
ところが、友人の実家に泊めてもらった私は日本にいたときの感覚そのままで、コーヒーか紅茶かという選択にも「どちらでも」と答えて友人の家族を困らせた。彼女は何度私に「それは自分で決めて」と言っただろう。これまでの自分がどれほど他人任せに生きてきたかを思い知る出来事だった。
それからようやく、質問されたときには何らかの答えをしようと心掛けたが、意見は日頃から努めて持つようにしなければ自然にわいて出てくるものではなかった。何も言わないことはゼロではなくて、むしろマイナスの評価が下されるということを身にしみて学んだ。
やがてドイツの暮らしにもすっかり慣れ、私はフライブルクで学生を続けながら翻訳のアルバイトを始めた。一方、友人は日本でかねてから興味を持っていた歌舞伎の研究をしながら家庭を持っていた。互いに話すときはドイツ語でも日本語でも、そのとき思いついた言葉を使って障りなく、次に会うのはドイツか、日本か、それともどこか別の国でも構わないけれど、という気楽さだった。
そんな日々で、はっきり記憶に残っているのは1995年の阪神淡路大震災である。私が日本の出身というだけで周囲の人たちは心配して声を掛けてくれたが、ドイツにいては実際には何が起きているのかよく分からず、一日中、ニュースをつけっ放しにしていた。そのテレビからふいに友の声が聞こえた。後から聞けば、当時、日本滞在中のドイツ人で手分けをして、ドイツからの急な取材に応えていたのだそうだが、画面には高速道路が倒壊し、煙を上げる神戸の街の静止画が映し出されていた。限られた情報がもどかしく、私は日本を遠く思った。どんなに交通や通信が発達しても、それなりの距離と時差が存在することを改めて感じずにはいられなかった。
それから3年余り経って、私は日本での出版を機に帰国した。ドイツでの暮らしは足掛け12年になり、自分の努力で身に付けたドイツ語で生計を立ててゆこうと思えば、それなりに可能かもしれなかった。問題はむしろ、気持ちの上で遠くなる一方の日本との距離で、このあたりで何か行動を起こさなければ、私は日本にはもはや精神的に属さず、ドイツ人にもなりきれない根なし草になりそうな感覚があった。
友人は日本で子育てに奮闘しながら歌舞伎の研究を続けていた。帰国した私は時おり会っておしゃべりをしたり、彼女が催す食事会に参加したり。お互いに忙しいけれど、穏やかな日々がずっと続くように思われていた中で、私は思い掛けなく結婚し、そうこうするうちに彼女は長い日本生活を切り上げて家族全員でドイツに戻ることになった。
----
今、私は日本でもの書きをし、彼女はドイツで大学に勤め、それぞれ充実した日々を送っている。2つの国に別れてはいるが、どちらかと言えば互いに不在になっているドイツと日本の暮らしを補い合っているような感覚だろうか。そしてどちらの国で再会しても、「ただいま」「おかえり」と挨拶ひとつ交わすだけで、それが1年ぶりであろうと、もっと長い間のご無沙汰であろうと、まるで昨日からの続きのようにお互いに受け入れて違和感はない。
振り返れば35年が経とうとしている。おそらく私たちはこのまま歳を重ねて、いつの日かしみじみとドイツと日本の長い友情を語るのだろう。