記念年を迎える偉人たち
彼らが後世に残してくれたもの
技術、音楽、文学など、ドイツの偉人が後世に残したものは、その人の生き様を反映している。 2017年、記念年を迎える人物に焦点を合わせ、彼らの功績や未来に託した夢を改めて振り返ってみよう。
没100年
「意思を貫き、かなえられると信じること」
フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵
Ferdinand Graf von Zeppelin 1838-1917
夢に取りつかれた狂気の伯爵と言われたツェッペリン。彼の夢は、推進装置を持つ航空機、「飛行船」を作ることだった。最初は誰からも相手にされず、私財を投じて開発する道を選ばざるを得なかった。1894年から硬式飛行船の試作に取り組み、1900年にとうとう第1号を完成させた。ボーデン湖で行われたテストフライトでは、全長127mもある巨大な飛行船の飛行が成功。12年に作られた「ビクトリア・ルイーゼ号」は、空飛ぶ豪華客船の趣だったという。第1次世界大戦が始まると軍用機として利用された。ツェッペリン伯爵はその大戦の最中、17年に79歳で生涯を終えた。
ツェッペリンの夢は、後継者のエッケナーが引き継ぎ、世界1周用の飛行船を完成。29年8月19日、全長235mという巨大な飛行船「グラーフ・ツェッペリン号」は世界一周の途中で日本に立ち寄った。東京上空を通過し、ドイツ出発時からの公式記録99時間40分で茨城県南部、土浦上空に到着。国立公文書館アジア歴史資料センターの資料によると、歓迎会場には30万人もの人々が詰め掛けた。現在、日本にある唯一の有人飛行船「スヌーピーJ号」が全長約39m。235mもある飛行船が東京の空に浮かぶ姿は、どのような光景だったのだろうか。
フリードリヒスハーフェンにあるツェッペリンの記念碑には、彼が残した言葉が刻まれている。「人はこうしたいという思いを、ただ貫けばいい。そしてかなえられると信じるのだ。そうすれば成功するだろう」。
没125年
「平和を祈って突き進んだ大女優」
マレーネ・ディートリッヒ
Marlene Dietrich 1901-1992
「100万ドルの脚線美」と称えられた20世紀の大女優、ディートリッヒは1901年、ベルリンの裕福な家庭に生まれた。しかし、父を早くに亡くし、継父も戦死。生活費を稼ぐためにディートリッヒは舞台に立つようになる。映画出演を通して知り合ったルドルフ・ジーバーと結婚し、24年に娘マリアを出産。30年、映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画『嘆きの天使』に出演したことで、一躍有名に。ドイツにナチスが台頭してきた時代、ヒトラーもディートリッヒを気に入っていたが、政府からの出演要請は拒否。ドイツ哲学や文学を愛していたが、ナチスは許せなかった。39年に米国の市民権を取得し、戦時中は米軍兵の慰問活動を積極的に行った。彼女の「リリー・マルレーン」は反戦歌として流行したが、戦後ドイツで念願のコンサートを開いたときは暖かい拍手と同時に罵声を浴びることに。92年、パリで亡くなり、10年後の2002年、ベルリン名誉市民としてようやく迎え入れられた。
没120年
「重厚な曲に感じるロマンティシズム」
ヨハネス・ブラームス
Johannes Brahms 1833-1897
ドイツ音楽の「三大B」として、J.S. バッハ、ベートーヴェンとならび称されるブラームスは、1833年にハンブルクで生まれた。53年には彼の音楽人生に多大な影響を与えることとなるロベルト&クララ・シューマン夫妻との出会いがあった。ピアニストとして評価されていたブラームスは、シューマンの批評のバックアップを受け、作曲家としての地位を築いていく。62年からはウィーンを拠点に作品を世に出し続け、クララが亡くなった翌年の97年にウィーンで息を引き取った。ハンブルクの生家は1943年に戦災で焼失してしまい、生家の近くに記念館がある。晩年ウィーンで過ごした住居は既に取り壊され、ブラームスが過ごした家としては1865-74年に過ごしたバーデン・バーデンの一軒のみ。ブラームスはバーデン・バーデンが気に入っていたが、その理由には敬愛していたクララがこの町に住んでいたこともあるだろう。2年に1度、バーデン・バーデンでは「ブラームスの日」が開かれる(2017年10月開催)。
生誕140年
「人間のあり方を問う」
ヘルマン・ヘッセ
Hermann Hesse 1877-1962
黒い森に囲まれ、ナーゴルト川が流れる小さな街カルフで1877年7月2日、ヘッセは生まれた。彼は最も美しい町だと言って、カルフを愛した。ヘッセの代表作「車輪の下」は自叙伝的作品と言われていて、カルフには小説に出てくるような風景が広がっている。18歳のとき故郷を離れ、テュービンゲンにある本屋「ヘッケンハウアー」の書店員となり、仕事の傍ら詩や散文を書き始め、次第に認められていく。しかし、早くからドイツの軍国政治を非難して平和主義を唱えていたため、ドイツ国内で居場所を失っていく。晩年はノーベル文学賞を受賞するほどの偉大な作家になり、戦後カルフの名誉市民となった。
生誕220年
「言葉の自由を追い求めた詩人」
ハインリッヒ・ハイネ
Heinrich Heine 1797-1856
詩人、作家、ジャーナリスト。1797年12月13日、デュッセルドルフで「ハリー・ハイネ」として生まれた。1825年ゲッティンゲンで法学博士号を取り、雇用に有利となるようにキリスト教徒に改宗したが、期待していた効果は得られなかった。この改宗によって、名前が「ハインリッヒ・ハイネ」に変わった。卒業後26~31年を旅に費やし、その間に文学作品や出版社と接触。これが将来に生かされることになる。31年、プロイセン王国による検閲が強化されたのを機にフランスへ移住。ここで多くの芸術家、文学者と交流を持った。ハイネは、フランスで文学的に自由に活動できることを喜びながら、最期まで祖国を想い続けた。
生誕300年
「美の本質を追究」
ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン
Johann Joachim Winckelmann 1717-1768
1717年、ブランデンブルクの貧しい家族のもと誕生した。ドレスデンでギリシア美術に目覚め、当時主流であったバロック・ロココ様式ではなく、ギリシア美術模倣論、すなわち「古代人の模倣」を唱えた。「高貴な単純さと静かな偉大さ」を併せ持つギリシア美術が美の本質とし、ゲーテをはじめ、当時の人々に絶大な影響を及ぼした作家。
生誕200年
「詩的リアリズムに酔いしれる」
テオドール・シュトルム
Theodor Storm 1817-1888
テオドール・シュトルムは、フーズムで1817年に誕生した。学生のときに執筆した詩と短い散文の文章が、地元の新聞に掲載されている。キールとベルリンで法律を学び、法律家として進む傍ら、詩作に励む。政治問題によって、一時故郷を去るが、地元を愛する気持ちを持ち続けた。ドイツ文学の詩的リアリズムを代表する一人。
生誕150年
「ユーモアあふれる皮肉を学ぶ」
ルートヴィヒ・トーマ
Ludwig Thoma 1867-1921
オーバーアマガウで1867年に誕生。父が営林監督官で、林務官の家に育ち、ミュンヘンとエアランゲンで森林科学と法律を学ぶ。93年からミュンヘン、ダッハウで弁護士として働いていたが、99年から「ジンプリチシムス」、1907年から「メルツ」というドイツの政治風刺雑誌で働き、方言作家としても市民から人気を得た。
生誕100年
「時には武器になる言葉の意味を考える」
ハインリヒ・ベル
Heinrich Böll 1917-1985
20世紀の最も影響力のあるドイツ人作家の一人と称されるベルは、1917年ケルンに生まれた。50年代初めに執筆を始め、政治的な主張の強い評論家として70年代初頭、ペン・クラブの会長に就任する。72年にノーベル賞を受賞。国内外の政治的なイベントに積極的に参加し、平和と人権のために戦った、ペンを武器にした作家。