1273年にハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国皇帝、すなわちドイツ王となり、帝国内の一領邦だったハプスブルク帝国が形式上、神聖ローマ帝国を治めるようになります。その後のハプスブルク家の世襲の王たちは、やがてローマ教皇から戴冠されずとも皇帝を名乗るようになりました。ハプスブルク家は16世紀に入ると、婚姻関係を結ぶなどしてブルゴーニュ領ネーデルランドやブルゴーニュ自由伯領、スペイン、ナポリ、シチリアの各王国などを獲得し、カール5世(在位1519~56)の時代に大帝国を築きます。
その頃、免罪符の販売に抗議し、「95ヶ条の論題」(1517)を提示したマルティン・ルターの宗教改革の波が北ドイツを中心に広がっていきました。1524年にはドイツ中南部で、農奴制の廃止などを求める農民戦争が起きます。当初、ルターは農民の立場を支持していましたが、反乱が急進化すると諸侯側につきました。この戦争では、最終的に10万人の農民が殺され、農民側が敗北。結局、彼らの立場は改善されませんでした。そのため南ドイツの農民はルター派から離れ、カトリックを支持するようになったのです。
それから約1世紀後、神聖ローマ帝国を舞台に30年戦争(1618~48)が起こりました。この戦争はカトリック派とプロテスタント派が対立した宗教戦争であり、ヨーロッパの覇権を狙ったカトリック派のハプスブルク家と、それに対抗するプロテスタント系の国々(イングランド、デンマーク、スウェーデンなど)が複雑に入り組んで衝突した国際戦争でした。1648年にヴェストファーレンのミュンスターで締結された多国間条約で、約300もの領邦国家の分立が確認されました。これが神聖ローマ帝国の実態だったのです。
ドイツワインの生産は、中世後期からルネサンス期にかけて頂点に達し、栽培面積は今日の4倍近い35万ヘクタールに及んでいたのですが、それ以後は下降線を辿ります。その原因の1つがこの30年戦争でした。主戦場となったドイツのワイン産地は荒廃し、そこへ寒冷化による凶作とペストの流行が追い打ちをかけ、人口が激減しました。
ドイツが戦場となっていた間、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの各国は、それぞれ世界を制覇しようと躍起になっていました。遠征の船には、もちろんぶどうの苗木が積まれていました。とりわけ17世紀以降は、イエズス会やフランシスコ会など、多くの修道会が新大陸に渡り、宣教活動を行うとともに、ワイン造りを伝えました。こうしてワインは、1541年以降アルゼンチンやチリで、1652年以降は南アフリカで、1779年以降はカリフォルニアで、1788年以降はオーストラリアでも生産されるようになりました。
一方、ドイツのワイン産業が30年戦争で受けた打撃から回復するまでには時間がかかりました。プファルツ地方などは、18世紀初頭までその影響を被ったといわれています。プロテスタント派の地域では、それまで修道院が守っていたぶどう畑が失われていきました。ワイン造りが継承された畑の多くは、カトリック派が守り得た土地でした。
(ラインヘッセン地方)
©Martina Pipisch
ラインヘッセン南部ヴェストホーフェンにある家族経営の醸造所。創業は1663年。ギュンター&エリザベート夫妻と、その息子フィリップ&妻エファによる共同運営。現在、ワイン造りはフィリップとエファが中心となって行っている。エファは、モーゼル地方のトリッテンハイムにある実家のクリュセラート醸造所を往復しながらワイン造りを行っている。1990年からビオ、2004年からはビオディナミを実践。何よりも健康な土壌づくりを第一としている。主にリースリングを栽培。特級畑であるモアシュタイン(Morstein)やキルヒシュピール(Kirchspiel)、アウレアデ(Aulerde)から滋養味たっぷりのワインを生み出している。
Weingut Wittmann
Mainzer Straße 19, 67593 Westhofen bei Worms
Tel. 06244-905036
www.wittmannweingut.com
2009 Riesling trocken
2009年産リースリング(辛口)
8,90€