フランス革命(1789)は、ドイツのワイン産業にも大きな変化をもたらしました。皇帝に即位したナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト / 1769~1821)の在位時代は、大フランス戦争(ナポレオン戦争 / 1803~1815)の時代。ヨーロッパのほぼすべての国がこの戦争に関わり、ナポレオンは一時、ヨーロッパのほぼ全域を征服しました。ドイツ(ライン同盟に加盟したバーデン大公国やバイエルン王国など)はフランス帝国の属国となり、プロイセン王国も当初、ナポレオンには敵わず、領土の約半分を失います。ライン左岸はフランスに割譲され、教会や修道院とその領地は没収されて、その多くが世俗の諸侯など、新たな所有者の手に渡りました。教会主導によるワイン造りの伝統は途絶え、ワインの新時代が始まったのです。幸い、新たに台頭したオーナーたちが高品質なワインの生産を継続したため、ライン、モーゼル地域のワインは、後に世界的名声を得ることになります。
ライン同盟は、1806年にナポレオン1世の圧力により、名ばかりの存在だった神聖ローマ帝国を離脱した領邦国家によって結成されたものでした。つまり神聖ローマ帝国は、ライン同盟に再編されることで解体され、滅亡したのです。
1812年、ナポレオンは対ロシア戦争で敗退します。翌1813年のライプツィヒの戦いは、ナポレオン戦争における最大規模の戦争で、この戦いにおいてフランス軍はプロイセン王国、オーストリア、ロシア、スウェーデンの連合軍に敗北し、ライン同盟は解体していきます。
その後プロイセン王国が、イギリス、オランダの連合国とともに解放戦争と称してフランスへ侵攻、1815年のワーテルローの戦いで勝利を収め、ナポレオンは退位します。ナポレオン退位後、教会は部分的に領地の返還を求めますが、その頃には農民層や市民層の中に、醸造所を所有する人々が台頭していました。
ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序作りを行ったウィーン会議(1814~1815)で、ドイツの政治地図は新しく描きかえられ、オーストリアを盟主とするドイツ連邦(1815~1866)が誕生、この連邦は35君主国・4自由都市で構成されていました。プロイセン王国(1701~1818)もドイツ連邦に加盟し、オーストリアと勢力を二分しました。
ウィーン会議以後、モーゼル地方はプロイセン王国の一地方となり、ラインヘッセン地方はヘッセン・ダルムシュタット大公国に組み入れられ、ラインガウ地方はナッサウ大公国、プファルツ地方はバイエルン王国のものとなりました。ザクセン地方とヴュルテンベルク地方は引き続き王国として存続、バーデン地方は大公国となりました。小国が林立する状態で経済を活性化させるため、プロイセン王国の主導で1834年に関税同盟が発足、加盟国間での関税障壁が取り払われました。その後、徐々に同盟国が増え、やがて各々のワイン生産地域が競合するようになります。その結果、優れたワインが生き残り、低品質のワイン市場が崩壊していくという問題が起こりました。輸送手段、特に鉄道の発達により、優れた地域の優れたワインの流通が容易になったためです。
また、関税同盟によって、ドイツ圏内のワインは特に1820年以降、北ドイツの都市部に大量に入ってきたボルドーワインと競合できるようになりました。関税同盟の導入はオーストリアを除くドイツの物流と経済的統一を促し、1871年のドイツ統一の下地をつくりました。
(プファルツ地方)
写真: ©Weingut Dr. Wehrheim
地形に豊かな起伏が現れるプファルツ地方南部のワイン街道筋、ビルクヴァイラーにある家族経営の醸造所。4世代でワイン造りに取り組んでいる。1990年に醸造所を継ぎ、その柱として優れたワインを生産しているカール=ハインツ・ヴェアハイムは、醸造哲学を共有する仲間と共に「Fünf Freunde(5人友達)」を結成、高品質なワイン造りに専心している。「5人友達」はこの種の醸造家グループとしては草分け的存在で、以後ドイツでは多くの醸造家グループが誕生した。2007年からはビオディナミ栽培に移行。栽培品種はリースリングが主体だが、ヴァイサーブルグンダー、グラウアーブルグンダー、シュペートブルグンダーなどブルグンダー(ブルゴーニュ)品種のワインにも定評がある。VDP会員。
Weingut Dr. Wehrheim
Weinstrasse 8, 76831 Birkweiler
Tel. 06345-3542
www.weingut-wehrheim.de
2009 Bundsandstein Grauer Burgunder
2009年産ブントザンドシュタイン(雑色砂岩)・
グラウアーブルグンダー(辛口)
7,80€