1860年にヴィルヘルム1世がプロイセン王国の摂政の座に就くと、彼はパリ大使ビスマルクを呼び戻し、宰相に任命します。ビスマルクはヴィルヘルム1世の右腕として、普墺戦争(1866)や普仏戦争(1870~71)を主導して勝利を収め、ドイツ統一の立役者となりました。彼はラインガウ地方のワイン、シュタインベルガーを好んだと伝えられています。
普墺戦争は、プロイセン王国対オーストリアを盟主とするドイツ連邦諸国の戦いでした。プロイセンが圧勝してドイツ連邦は解体され、まずはプロイセン王国を盟主とする北ドイツ連邦が生まれます。続く普仏戦争でプロイセン王国はナポレオン3世を破り、フランス第2帝政が崩壊。1871年にヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が誕生します。ドイツ帝国は、諸王国や公国、自由都市などが統合された連邦国家で、統一後、帝国内の関税はすべて廃止されました。
19世紀はドイツワインの品質がさらに向上した時代で、ぶどうを糖度別に数回に分けて収穫する技術がさらに発展しました。物理学者のフェルディナンド・エクスレ(1774~1852)が比重による糖度の計測を可能にしたためです。この計測法は現在も引き継がれています。
また、ぶどう栽培・ワイン醸造専門学校や研究所、国営醸造所も次々に設立されました。1860年にヴァインスベルクのアカデミー(ヴュルテンベルク王国管轄)、1870年にはガイゼンハイムの研究所(プロイセン王国管轄)がそれぞれ発足。プロイセン王国はラインガウでエーベルバッハ修道院の分散した畑を統合して国営醸造所を設立したほか、ナーエやモーゼルにも国営醸造所を開業しました。また、設備投資ができない零細農家は、協同組合を設立することで生き残りを図りました。最初の協同組合は1869年にアールで設立されています。
19世紀は、ヨーロッパのワイン界における激動の時代でした。例えば補糖(注)に関し、生産者間で対立が起こったのはこの時期です。ドイツの化学者ルードヴィヒ・ガル(1791~1863)が、フランスのジャン=アントワーヌ・シャプタル(1756~1832)と同様に補糖を提唱し、寒冷地モーゼル地方のワインを救済した一方、補糖しない「ナトゥアライン(Naturrein / 自然純粋の意)」であるワインを重視する潮流も生まれました。1892年制定の初のワイン法は条件付きで補糖を認めており、1909年の帝国ワイン法は補糖できるワインを全体の20%に制限しています。
しかし、この時期最大の事件はオイディウム(ウドンコ病 / 1847年)、フィロキセラ(レープラウス / 1863年)、そしてペロノスポラ(ベト病 / 1878年)などの襲撃でした。これらのカビ菌および害虫は、アメリカ大陸から持ち込まれました。特にフィロキセラはヨーロッパ品種のぶどうを根から破壊する害虫で、その繁殖により、フランスだけで250万ヘクタールのぶどう畑が壊滅したといわれています。ドイツで初めてフィロキセラが確認されたのは1874年、ボン近郊で、1885年にはドレスデンでも確認されています。20世紀に入ってからは、モーゼル地方やバーデン地方などのぶどう畑にも被害が及びました。
注:気候条件により、十分な糖度が得られなかったぶどうからワインを醸造する場合に砂糖を添加し、充分なアルコール度数を得られるようにする手法。添加した糖分はアルコール発酵により分解され、ワイン中には残留しない。
(プファルツ地方)
写真: シュテフェン・クリストマン氏とダニエラ夫人
プファルツ地方の中心都市ノイシュタット近郊のギンメルディンゲンにある名醸造所。1990年代半ばから醸造所を運営するシュテフェン・クリストマンは、プファルツ地方のワインの高品質化を常に牽引している1人。栽培品種は8割近くがリースリング。土壌の力を活かした深みのあるリースリングで飲み手を魅了する。21世紀に入ってからは、ビオディナミ農法を実践。1ヘクタール当たり7000本を植樹し、ぶどうの力を最大限に引き出そうとしている。VDP会員。シュテフェン・クリストマンは、2007年からVDP会長職も務めている。
Weingut A. Christmann
Peter-Koch-Straße 43, 67435 Gimmeldingen
Tel. 06321-66039
wwww.weingut-christmann.de
2008 IDIG
2008年産イーディッヒ、リースリング グローセス・ゲヴェックス(辛口)
33€