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ミール・ヨネス・ムサヴィザデー
ミール・ヨネス・ムサヴィザデー

黎明期からコンピューターに伴走

ギムナジウムの数学の
成績は悪かったけれど、
大学の数学の講義に
魅了されたんだ

今回の仕事人
Mir Yoness Moussavizadeh
数理経済学士、LOGAN Systementwicklung社代表、ITエキスパート。テヘランで生まれ、2歳のときに家族でハンブルクに移住。ハンブルク大学数理経済学部卒。1991年に会社を立ち上げ、アップル社のコンピューターの販売・サポート業務を開始。現在は複数の企業のIT部門をサポートする。

インフォメーション
LOGAN Systementwicklung
www.logan.eu/logan/Home.html

一家でテヘランからハンブルクへ

ミール・ヨネス・ムサヴィザデー(58)は、モハンマド・モサッデク首相が失脚し、パフラヴィー朝の皇帝(シャー)、モハンマド・レザー・パフラヴィー(パーレビ国王)が権力を回復した時代にイランの首都テヘランで生まれた。運送会社を共同経営していた父親は、シャーの権威主義的な政治に反感を持ち、一家で母国を後にすることを決意した。商売道具だったトラックを売り払って旅費を捻出し、1960年にドイツに向かって出発。父母と4人の子供たちは、バス、船、鉄道を何度も乗り継いでハンブルクに辿り着いた。末っ子のヨネスは当時2歳。彼には2週間の壮絶な旅の記憶はない。父親がハンブルクを目指したのは、イラン人のじゅうたん商人たちが集まって暮らしていた地区があることを知っていたからではないかと言う。ドイツでは1955年からイタリア人のガストアルバイター(外国人労働者)が続々と流入しており、ヨネスの一家はガストアルバイター枠で入国が認められた。父親は間もなく、港でクレーンの運転士として働き始め、母親は4人の子供を育てることに専念した。「両親は結局ドイツ語を流暢に話せるようにはならなかった。入国時に10歳と8歳だった僕の兄たちがドイツ語を習得し、両親を助けていたんだ」そうヨネスは振り返る。

チェスに夢中のギムナジウム時代

ヨネスはドイツの幼稚園に通い、フォルクスシューレからギムナジウムへと順調に進学し、ドイツ人のように育った。自宅では、父はペルシャ語、バクー出身の母親は、アゼルバイジャン語で子供たちに話しかけていた(アゼルバイジャンは1991年に独立)。しかしヨネスはドイツ語でしか返事ができない。兄たちと違い、彼にとってはドイツ語を話す方が自然だった。ギムナジウム時代にチェスに出会った。ヨネスはチェスに夢中になり、ハンブルクの青少年チェス大会で準優勝するほどの腕前となった。17歳になると家を出て、友人とアパートをシェアして暮らしはじめた。「家を出て、自分で料理、洗濯、掃除をやり、アルバイトしたことは、とても価値のある経験となった」、そうヨネスは言う。

滞在理由とコンピューターとの出会い

その後アビトゥーア(大学進学資格)を取得し、将来について思いをめぐらせているとき、思いがけない難題が舞い込んだ。ハンブルク市の外国人局から、滞在理由を報告しなければイランに送還となると言い渡されたのだ。ドイツに滞在し続けるためには、3カ月ごとに滞在理由の届け出が必要だという。幸い知り合いの弁護士の助けで、滞在権は保証されていたことが分かったが、手続き上のトラブルを避けるため、ヨネスは早急に「滞在理由」を作る必要があった。てっとり早いのが大学に入学すること。しかし何を勉強したらいいのか分からない。

ギムナジウム時代、数学は大好きなのに成績が悪かったため、教師から数学系は難しいだろうと言われていた。悩み抜いた末、ハノーファー大学の機械工学科に入学。しかし、好きな分野ではないので肌に合わない。どうしようかと悩んでいたとき、数学の講義に出席してみた。その講義があまりにも面白く、数学系の勉強をしたいという気持ちが湧いて来た。同じ頃、友人が選択していたコンピューターの授業に連れて行ってくれた。そこでプログラミングのデモンストレーションを見たヨネスはすっかり魅せられてしまう。

その後ヨネスは機械工学科を中退。別の滞在理由が必要となり、病院実習生のポストを得て、実習後もその病院で看護士として働いた。病院の同僚が当時まだ珍しいパソコンを持っており、中古を安価で譲ってくれた。テレビモニターとカセットテープレコーダーを接続して使う初期のものだ。ヨネスはこのパソコンにのめり込んだ。ハノーファー大学で受けた数学講義の面白さも、再び脳裏をよぎった。

そんなある日、ハンブルク大学に数理経済学部が新設されたことを知った。ヨネスはこの学部にピンとくるものを感じ、入学を希望し、許可された。大学では第一世代のIBM社のコンピューターの実習もあった。あらゆる講義に参加し、猛烈に勉強した。中でもプログラミングが一番面白かったという。在学中、ドイツ初のアップル社のパソコン販売会社であるシステマティックス社に勤めていた兄の友人と知り合った。同社は当時急成長中で、技術に長けた人材はひっぱりだこ。ヨネスは学業の合間に技術部で働き、重宝された。学位を取得すると、独立を考え始めた。当時アップル社のパソコンは限られた店でしか買えなかったので、まずはディーラーになろうと考えたのだ。

ハンブルクのマック・ユーザーのよりどころ

1991年に事務所を開設し、ローガン(Logan)社と名付けた。Logische Analyse(理論的分析)の自家製略語と、当時最強だったドイツの長距離競走馬の名前を兼ねている。高品質のサポートを行う、長距離走に耐えられる会社をとの願いを込めた。ヨネスの会社は順調に発展し、スタッフは10人に増え、いつしかハンブルクのマック・ユーザーのよりどころとなっていた。

しかし、アップル社のコンピューターがどこでも買えるようになると、会社は方向転換せざるを得なくなった。ヨネスは企業向けに独自のソフトウエアを開発するなど、徐々にサービス業務にシフトしはじめ、社員教育にも力を入れた。しかし、彼についていける人材がおらず、気がついたら1人になっていた。「パソコンがどこでも買えるようになったとき、僕の会社はつぶれると言った人もいたが、僕はそうは思わなかった。より多くの人がパソコンを利用すればサポートの需要は増えるはず。実際にはその通りになった。1人で再出発し、仕事を専門化できたのも良かった」。ヨネスは満足そうだ。現在はベルリンを拠点にハンブルクを行き来するほか、米国に進出した顧客をネットワークを利用してサポートしている。仕事は好調だ。

アゼルバイジャンの母の味

ヨネスの両親はすでに亡くなっているが、母の手料理の思い出は今も鮮やかだ。「母はアゼルバイジャン料理とペルシャ料理の両方ができた。僕も最近料理を作るようになった。母の味をしっかり覚えているから、味付けは得意だよ」。ヨネスはすでにドイツ国籍を取得し、ドイツ人女性と結婚しているが、娘には故郷の味を伝え、イランにも家族で里帰りしたいと願っている。

 

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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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