ジャパンダイジェスト
振付家への道を歩み出した大石裕香さん
振付家への道を歩み出した大石裕香さん

バレエダンサーから振付家へ

ジョンと出会わなかったら、ここまで来れなかったと思います

今回の仕事人
Yûka Oishi
フリーランスの振付家、バレエダンサー。2000年にハンブルクバレエスクールに留学、研修生を経て、03年に正団員、10年に日本人女性初の同バレエ団のソリストに。ダンサーとして活躍する一方、着実に振り付け作品を発表。12年にオルカン・ダンと共同で振り付けた『RENKU(連句)』はハンブルクバレエのレパートリーとなる。現在はドイツと日本を往復しながら、主に振り付けの仕事に従事。目下取り組んでいる仕事は、宝塚歌劇団月組の『舞音 MANON』。2013年には、花組の『愛と革命の詩アンドレア・シェニエ』も振り付けている。

2歳のときの「これ、やりたい!」

大石裕香(31)は大阪生まれ。医者の家庭で育ったが、祖母が日本舞踊の名取で、母も日本舞踊を習っていた。2歳のとき、通っていた幼稚園の放課後のバレエレッスンの様子を目にして、「私、これ、やりたい!」と言ったそうだ。レッスンは3歳以上が対象だったため、3歳になるのを待ってバレエを始めた。祖母も母も日本舞踊を稽古させたかったそうだが、彼女はその前に自分で進むべき道を決めていたことになる。

6歳になると、大屋政子バレエ研究所に所属し、本格的なレッスンを始めた。そしていつしか、プロのバレエダンサーになりたいと思うようになった。中学生のとき、将来について真剣に思い悩んだ。このまま日本でバレエをやり続けるには、とてもお金がかかる上、プロになれるかどうか分からない。でも3歳から頑張ってきたことを諦める理由も見つからない。プロへの道は、 海外に出なければ開けないのではないか、と感じ始めたのだった。

15歳のときの「これがやりたい!」

15歳のとき、英国ヨークシャーでバレエのサマーセミナーに参加した。この時、決定的な出会いがあった。ハンブルクバレエスクールのバレエマイスター、ケヴィン・ヘイゲン氏に声を掛けられ「スクールのオーディションを受けてみないか」と言われたのだ。まだ英語ができなかった彼女とヘイゲン氏の会話を通訳したのは、当時英国ロイヤルバレエのピアニストだった村上京子さん。村上さんは、「これからはコンテンポラリーも踊れないといけない。ハンブルクバレエは良い環境だから、オーディションを受けてはどうか」と勧めてくれたという。

裕香は早速ハンブルクバレエについて調べ、オーディションを受けに行った。初めてのハンブルクで、ハンブルクバレエの芸術監督ジョン・ノイマイヤー振り付けの『真夏の夜の夢』と『マーラー交響曲第3番』を観た。「私、この時生まれて初めてバレエを観て涙を流したんです。どちらも泣くような作品じゃないんですが、あまりにも美しくて涙が止まらなかった。それはこれまで観たことがない振り付けだった。私のバレエ観を根本から覆すほどの衝撃を受けました。そして『私、これがやりたい!』と思ったんです」。

ノイマイヤーのバレエは彼女の美意識に強く訴え掛けてきた。スクールのオーディションには無事受かり、ハンブルクでの1人暮らしが始まった。15歳の心に不安はなかったという。それよりも、これが正しい道なのだという確信があった。

ダンサーの視点と振付家の視点からバレエにアプローチ

スクール卒業後はハンブルクバレエに入団したかったが、すんなりとはいかなかった。クラスメートの何人かにはノイマイヤーから声が掛かり、入団が決まっていたのに、彼女には声が掛からない。そのため、別のカンパニーのオーディションを受け始めていた。一方で、最後のスクールパフォーマンスの準備も進めていた。その発表会の直前、クラスメートがけがをし、急きょソロを踊ることになった。「ジョンに私を見てもらう最後のチャンスかもしれない!」と思った。演目はノイマイヤーが東京バレエ団のために制作した『時節(とき)の色』。この作品なら日本人である自分にしか出せないものがあるはずだと思って取り組んだ。1週間後、ノイマイヤーから声が掛かり、入団が決まった。

裕香は背が低いため、スクール時代から自分のダンスをいかに大きく見せることができるかを考え続けていたという。入団後も動き方や空間の使い方で、自分を大きく見せる研究を続けた。また、どんなに小さな役にも主役と同様の意気込みで取り組むことを信条とした。並行して、振り付けにも積極的に取り組んだ。初めての振り付け作品は、スクール時代の試験のために作った『太陽(Taiyoh)』。この作品はノイマイヤーに評価され、スクールツアーの演目にもなった。入団後は、たとえ小さくても毎年作品を作ろうと自らに課したという。

振り付けに挑戦することで、彼女のダンスはさらに成長した。「振り付けの際には、正面から舞台を見ます。すると、ああ、こういう風に見えるんだなと解るんです。振付家の視点を得たことは大きな意味がありました」。

26歳のとき、ハンブルクバレエでは日本人女性として初めてソリストに昇格、翌年にはハンブルク州立歌劇場のディレクターから将来有望な人材に授与される「オーバードルファー賞」を受賞。その後ノイマイヤーから『RENKU(連句)』の振り付けを任された。同じくハンブルクバレエのダンサーである、オルカン・ダンとの共作は、ノイマイヤーが長年構想しつつも、実現に至らなかった作品だ。2012年初演の『RENKU』は高く評価され、ハンブルクの舞台芸術賞「ロルフ・マーレス賞」を受賞した。

大石裕香
『連句』を振り付ける大石裕香。
左はハンブルクバレエ、プリンシパルのカーステン・ユング

振付家としての独立

プロのダンサーとして活躍する一方で、振り付けの仕事もどんどん面白くなってきた。「私はダンサーとしてよりも、振り付けにおいて、より多くをジョンから吸収してきたように思う。ジョンの仕事を、ダンサーとはちょっと違う視点から見続けていたように思うのです」と語る。

2015年の夏を最後に、彼女は15年間にわたってかかわったハンブルクバレエを引退し、独立した。今後は振り付けの仕事が主体になるという。7月から8月にかけては、スイスのリオムで開催された「オリゲン文化フェスティバル」に参加、『Joseph(ジョゼフ)』という70分の新作を発表した。8月には、東京で行われた世界バレエフェスティバルのガラ公演で、唯一の日本人振付家として作品『ウロボロス』を上演。現在は、日本で宝塚歌劇の振り付け中だ。担当するのは月組の『舞音MANON』。「ジョンと出会わなかったら、ここまで来れなかったと思います」と語る彼女。欧州と日本を往復しながらの振付家としてのキャリアは始まったばかりだ。

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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