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高額紙幣とテロ対策をめぐる激論

ユーロ圏には、500ユーロという高額紙幣がある。日本円にして、約6万5000円だ(1ユーロ=130円換算)。だが私は、実物をまだ見たことがない。一体誰がこんな紙幣を使っているのだろうか?

500ユーロ
一般市民には縁のない500ユーロ紙幣の束

500ユーロ紙幣に高まる批判

欧州連合(EU)では、「高額紙幣は、テロリストや麻薬の密売人などに使われるほか、脱税にも使用されるかもしれない」として、500ユーロ紙幣を廃止するべきだという意見が強まっている。つまり政府や金融機関によって金の流れを把握されたくない人々が、このような紙幣を使っているというのだ。

昨年12月にドイツ連邦財務省のヴォルフガング・ショイブレ大臣は、欧州委員会に対して、資金洗浄に関する法律を強化するよう求めた。彼は、500ユーロ紙幣を廃止するとともに、ユーロ圏での現金による支払いに、5000ユーロ(65万円)の上限を設定することを提案している。今のところユーロ圏での現金支払いについては、統一された上限がない。フランスでは現金支払いについて1000ユーロ、イタリアでは3000ユーロの上限が設けられている。

さらに今年1月末には、社会民主党(SPD)の議員団が、「500ユーロ紙幣を廃止し、現金による支払額に上限を設ければ、犯罪組織などによる資金洗浄を防止することができる」とする意見書を公表した。実は欧州ではこれまでも現金の使用について様々な意見が出されてきた。ノルウェーでは一部の銀行が、紙幣と貨幣の全廃を提案したことがある。

欧州中央銀行(ECB)の大半の理事は、500ユーロ紙幣の廃止に賛成している。同理事会は、銀行委員会に対し、500ユーロ紙幣廃止のための技術的な手続きを検討するよう命じた。

市民に無縁の高額紙幣

ECBの統計によると、これまでに発行された500ユーロ紙幣の総額は、ユーロの紙幣・硬貨の総額の約28%を占める。しかしECBが行ったユーロ圏の市民を対象とした世論調査では、回答者の56%が「500ユーロ紙幣を一度も見たことがない」と答えている。

ECBのベノワ・ケーレ理事は、「今日では、電子決済の重要性が高まる一方だ。500ユーロ紙幣が、犯罪組織などによって、違法な目的のために悪用されているという事実を、無視することはできない。この紙幣を使い続けるという理由は、どんどん減っている」と述べ、廃止に賛成する姿勢を打ち出している。ドイツ銀行のジョン・クライアンCEO(最高経営責任者)も今年のダボス会議で、「現金による支払いは時代遅れだ」と語っている。

また通貨政策関係者の一部からは、「現金を完全に廃止すると、通貨政策の有効性がこれまでよりも高まる」という意見も聞こえる。その理由は、ユーロ圏やスイスのようにマイナス金利が存在する国では、企業や個人が預金を引き出して現金として金庫に保有する可能性が高まり、通貨政策が及ばない分野が生じるからである。このように、ECBや政治家の間では、高額紙幣や多額の現金支払いに対する風当たりが徐々に強まっている。

現金制限に反対する人々

だが、ドイツでは、現金使用の制限についての批判も根強い。ドイツの右派ポピュリスト政党アルファに属する経済学者のヨアヒム・シュターバッティー教授や、マンハイム大学で国民経済学を教えているロラント・ファウベル教授は、「現金支払いが禁止された場合、市民は国家と銀行によって、完全に監視されることになる」と主張している。

UBS銀行のチーフエコノミストだったアンドレアス・ヘーフェアト氏も、「現金支払いが廃止されて、金の流通が完全に電子化された社会では、プライベートな金のやりとりが全く不可能になってしまう。犯罪防止という大義名分のために、個人の領域が犠牲にされる」と警告している。またドイツ連邦憲法裁判所のハンス・ユルゲン・パピーア元長官は、「現金支払いについて制限を加えることは、契約形態を選ぶ自由などの個人の権利を侵害するものであり、憲法違反だ。市民のあらゆる行動を国家が監視することを許してはならない」と述べている。

「タンス預金の自由を」?

ドイツ産業連盟(BDI)のハンス・オラーフ・ヘンケル元会長も「現金支払いの制限は、監視国家への入り口。現在多くの国々でマイナス金利が問題になっているが、今後は、民間の銀行でも預金者に対して、「預金料」を請求するようになるかもしれない。その場合、市民は、金を銀行に預けずに、現金として持っていれば、マイナス金利による損失を防ぐことができる。資産を現金で保有することは、マイナス金利による財産没収を免れるための、唯一の道だ」と述べ、現金廃止に反対している。

日本や米国には、高額紙幣はない。1枚で6万5000円の価値がある500ユーロ紙幣は、先進国の通貨としては突出した存在である。こう考えると、500ユーロ紙幣は将来廃止されるかもしれない。

ただし、現金の完全廃止は別問題だ。そのような提案が浮上した場合、ドイツで経済学者や企業経営者らが連邦憲法裁判所に違憲訴訟を提起するだろう。

現金が地球から完全に姿を消す日は、まだかなり先のことになるのではないだろうか。

4 März 2016 Nr.1021

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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