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ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】勘違いが招いた歴史的事件-ベルリンの壁崩壊までの14時間30分 3

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

ベルリンの壁

"革命前夜" 社会主義体制のほころびと市民デモ

1985年にミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任。政治体制の改革「ペレストロイカ」政策を推進し、西側との関係改善を図りながら経済の再建を目指した。それに伴い、ポーランドやハンガリーなどの東欧諸国でも民主化を求める声が高まっていく。しかし、東ドイツではそのような政治改革は一切行われず、国民の不満は募るばかりだった。

1989年5月、ハンガリー政府がそれまで国境にあった有刺鉄線を撤去し、「鉄のカーテン」にほころびが生じ始める。夏になると多くの東ドイツ市民たちが、もう二度と東ドイツに帰ってこない決意を固め、休暇へと出かけた。行先はハンガリー。ハンガリーとオーストリアの国境を越え、さらに西ドイツへと渡っていくのだった。

東ドイツを去る市民が増える一方で、国内にとどまって内部からの改革を目指す動きも広まっていく。最初の大規模なデモは1989年9月4日にライプツィヒで行われ、およそ1200人が「大量逃亡の代わりに旅行の自由を(Reisefreiheit statt Massenflucht)」と叫んだ。以降この「月曜デモ」は、公安当局からの圧力にも屈せず毎週行われ、2週間後の9月25日には8000人、10月2日には1万5000人、10月16日には15万人、そして10月23日には30万人がデモ行進に参加。出国の自由を訴えるとともに、「私たちはここに残る(Wir bleiben hier!)」、「われわれこそが国民だ(Wirsind das Volk!)」と呼びかけ、国内の体制改革と民主化を強く求めた。

人口流出による社会の空洞化、そして国内では市民による激しいデモ。もはや崩壊寸前に追い込まれるなか、東ドイツは1989年11月9日を迎えた。

勘違いが招いた歴史的事件 壁崩壊までの14時間30分

50年先も100年先も存在し続けるだろうといわれていた、ベルリンの壁。しかし、東ドイツからの亡命者の数は日を追うごとに増え、国内ではデモがますます激化。この現状を打破しようと東ドイツ政府が躍起になっていた矢先、壁の崩壊は突然、そして誰もが予想だにしなかった形で訪れることになった。1989年11月9日、この歴史的な平和革命の日は、ゲルハルト・ラウター内務省旅券局長の事務所から始まる。

参考:Bundeszentrale für politische Bildung「Chronik der Mauer」
Berliner Zeitung「Der Tag, an dem die Mauer fiel」
ドイツニュースダイジェスト「そのとき時代が変わった~ベルリンの壁崩壊」

ベルリンの壁 1989年11月4日の東ベルリンのアレキサンダー広場でのデモには、100万人が集まったともいわれる

1989年11月9日(木)

9:00 新しい政令案の作成を開始

ゲルハルト・ラウター内務省旅券局長をはじめとした4人の官僚と国家保安省員が、ラウターの事務所に集まる。東ドイツ市民がチェコスロバキアを経由して西ドイツへ亡命することを防ぐため、将来的に東ドイツからの出国申請に関するすべての制限を廃止することで、すぐに4人の意見が一致した。

東ドイツ市民チェコスロバキアのプラハに到着した東ドイツ市民たち(1989年10月撮影)

10:00 総会協議2日目がスタート

党中央委員会(ZK)総会の2日目の協議が始まり、デモ対策などについて話し合われる。

12:00 政令案が完成

ラウターが政令案を完成させる。10月17日からエーリッヒ・ホーネッカーに代わって国家評議会議長を務めるエゴン・クレンツが、タバコ休憩をしている政治局のメンバーと政令案に目を通す。草稿が各閣僚に渡される。

16:00 クレンツが新政令を発表

クレンツが党中央委員会で旅行規則に関する新政令を読み上げる。

17:30 クレンツが記者会見を要請

クレンツがスポークスマンのギュンター・シャボウスキーに決議案とプレスリリースを渡し、18時から国際プレスセンターで記者会見を行うよう要請。しかし、クレンツの詰めの甘い行動が壁崩壊を導くことになる。

詰めが甘かった4つの行動
  • 1. 本来は新政令に対して18時まで異議申し立てが可能だったが、クレンツはその時刻まで待たなかった。
  • 2. 新政令は翌日4時に公開予定だったが、クレンツはそれを見落としていた。
  • 3. 記者会見前にクレンツ自身がシャボウスキーに新政令について説明すべきだったが、それを行わなかった。
  • 4. クレンツは、協議の場にいなかったシャボウスキーに会見を託してしまった。

18:49 歴史的記者会見が始まる

シャボウスキーが東ベルリンの国際プレスセンターで記者会見を始める。記者会見は中継され、各国メディアも招かれていた。新政令について正しく理解していなかったシャボウスキーは、記者の質問に対し、新しい旅行規則が「今すぐに」効力を発揮すると発表。事実上、ベルリンの壁が開くことをここで宣言してしまう。

記者会見のやり取り(抜粋)
  • シャボウスキー:私たちはすべての東ドイツ市民が国境を越えての旅行を可能とする規則をつくることにしました。
  • ANSA通信記者:パスポートなしですか? パスポートなし?
  • シャボウスキー:(中略)今私からパスポートに関する質問にお答えすることはできません。(中略)
  • DAPA記者:この政令はいつ施行されるのですか?
    シャボウスキー:私が知る限りでは今すぐに。滞りなく。

歴史的記者会見左)記者会見で話すシャボウスキー 
右)東ドイツのニュース番組で報道された記者会見の様子

19:05 メディアが速報を出し始める

  • 19:05 AP通信社「DDR öffnet Grenze (東ドイツが国境を開く)」
  • 19:41 ドイツ通信社「Die DDR-Grenze ... ist offen (東ドイツの国境が……開かれた)」
  • 20:15 西ドイツの国民的ニュース番組 Tagesschau「DDR öffnet Grenze」

20:30 国境検問所に市民が詰めかける

約100人の東ベルリン市民がボルンホルマー通りのゲートにやってきた。国境警備隊長のハラルド・イェーガーは「シャボウスキーが新しい旅行規則を発表しましたが、それには許可が必要です。人民警察でそれを受け取ってください」と話す。しかし、人々は「今すぐだと彼は言ったんだ!滞りなくと!」と抗議。

20:47 総会協議2日目が終了

党中央委員会総会の2日目の協議が終わったが、この時点でほとんどの総会出席者はベルリンで何が起きているのかを知らず、そのまま帰宅した。

21:20 ボルンホルマー通りに約500人

ボルンホルマー通りに人々が押し寄せ、道路に車が並び始める。

21:50 イェーガーが「通気法」を開始する

上司の指示を受けて、イェーガーは一部の東ベルリン市民のパスポートに「不法出国につき再入国不可」のスタンプを押し、西ベルリンに送り出し始める。これを「通気法(Ventillösung)」という。

23:10 ボルンホルマー通りに約3万人

イェーガーの目測では、ボルンホルマー通りに約3万人が押し寄せていた。この時間になると、西ベルリンから戻ってくる東ベルリン市民も。ある女性はパスポートに再入国不可のスタンプが押されたにもかかわらず、子どもを家に置いてきたから東ベルリンへ帰りたいと泣き始める。イェーガーは、仕方なく全員の再入国を許可する。

23:30 ボルンホルマー通りのゲートが開く

ベルリンの壁崩壊

ゲートが限界を迎え、人々の安全を考えたイェーガーは独断で遮断機を上げることに。人々は橋を渡り、西ベルリン市民に迎え入れられた。その後、ほかの国境検問所も次々に解放され、ベルリンの壁が崩壊した。

ベルリンの壁崩壊国境検問所を越えていく東ベルリン市民

1989年11月10日(金)

1:00 ブランデンブルク門のゲートが開く

東西ベルリンの両市民がブランデンブルク門付近の壁に集まる。クーダム(西ベルリンの繁華街)にも多くの人が集まり、朝までパーティーが繰り広げられた。

ベルリンの壁崩壊壁の崩壊をともに喜ぶ東西ベルリンの市民たち

東西分断時代を知る人のエピソード 「あの日、私はここにいた」

当時を知る人たちは、どのような気持ちでこの歴史的事件を受け止めたのだろうか。ベルリンの壁崩壊30周年記念特集の前編(1107号)の中で「壁の中の暮らし・壁の外の暮らし」について語ってくれた4人の方に、再び話を聞いた。

東ベルリン壁が開いて未来が開けた ウーヴェ・ベネケさん(当時19歳)

1970年東ベルリン生まれ。大学進学前の兵役中に壁が崩壊した。1999年、東ベルリン出身の4 人の仲間とゲーム会社を立ち上げ、現在も同社の共同経営者。

東ドイツでは1年半の兵役義務があったため、兵役後に大学に進学しようと考えていました。壁が崩壊する1カ月ほど前に19歳の誕生日を迎え、兵役が始まったばかりだったので、あの日は東ベルリン市内の軍施設にいました。運動室に向かおうとしていた時だったと思いますが、誰かが壁が開いたと知らせにやってきたんです。壁崩壊を知らされたにもかかわらず、そのまま運動室に行きました。物事は変わっていくものだと思ったくらいで、あまり実感が沸かなかったんですね。その後、東ドイツ市民が西ドイツに行くと祝い金(Begrüßungsgeld)として100ドイツマルクをもらえる期間がありました。11月に父と一緒に西ベルリンに行き、空手の本を購入したことを覚えています。

壁崩壊前は数学か物理の教師になろうと思っていたのですが、ドイツが再統一したことで一気に可能性が広がったと感じました。結局大学では、その当時東ドイツでも熱かった情報学やコンピューターサイエンスを学び、90年代の終わりに東ベルリン出身の仲間たちとゲームの会社を立ち上げることに。今年で創業20周年を迎えることができました。

西ベルリン翌朝の新聞を読んでびっくり! 吉岡俊司さん(当時40歳)

1949年生まれ、和歌山県で育つ。ハンブルク、デュッセルドルフを経て、1973年に西ベルリンに移住した。2018 年まで日本食レストランのオーナー。

11月9日の晩はちょうど親友が自宅を訪ねてきていて、何も知らずに眠ってしまいました。翌朝、買い物に行ったらB.Z.(タブロイド紙)に大きく「Die Mauer ist weg!(壁がなくなった!)」と書かれているのが目に入ってきて。まさかと思って帰宅後にテレビをつけたら、街中がすごいことになっていたんです。それからこの目で確かめようと、すぐ車に乗って見に行きました。クーダムは車道まで人が出ていて、マクドナルドには人がずらーっと並んでいました。写真を撮ってあちこち回ったのですが、すごく浮き立つ気持ちでしたね。だって、西ベルリンを自由に出ていけるようになったんですから。

壁が開いてからは、東ベルリンの人が買い物に来るようになったので、西ベルリンからバナナがなくなって(笑)。それからしばらくして、経営していた日本食屋で新しいアルバイトの子を雇ったのですが、住所がどうも聞いたことない地名で……そしたら、東ベルリンの学生だったんです。すごく真面目に働いてくれていましたが、1つ印象的だったのが、まかないは必ずサラダを食べたがったこと。東ベルリンには新鮮な野菜が売られていなかったからだと思います。

ケルン東ドイツ出身の同僚と泣いて喜ぶ 永井潤子さん(当時55歳)

1934年東京都生まれ。日本短波放送(当時)に勤めた後に、1972年にケルンに移住し、ドイチェ・ヴェレの日本語放送記者として働く。2000年よりベルリン在住フリージャーナリスト。

当時、私は西ドイツの公共国際放送ドイチェ・ヴェレの日本語放送記者として、ケルンで働いていました。あの日は夕方に仕事が終わって、早々に帰宅しました。それで、夜テレビをつけたら、シャボウスキーさんの記者会見をやっていて。壁が崩壊したのは真夜中でしたが、東ドイツ出身の同僚に電話して、彼女と2人で泣いて喜んだことを覚えています。同僚は東ドイツで政治的な迫害を受けたため、大学時代から家族と離れて西ドイツに暮らしていました。そんな彼女の里帰りに何度か一緒に行ったことがあるのですが、ご家族には本当に良くしてもらっていたんですね。東西別れ別れになった家族の苦しみや悲しみを身に染みて感じていたので、壁の崩壊を自分のことのように喜びました。

それからしばらくの間、ドイチェ・ヴェレの記者として交代でベルリンへ取材に行きました。東ベルリンから本社に電話でニュースを報告しようにも、公衆電話もなくて。当時の東ベルリンでは、お偉いさんしか電話を持っていなかったんです。だから、私たちは東ベルリンから西ベルリンまで走って、本社に電話をかけました。

東京解説者として日本のテレビ番組に出演 アンドレアス・ガンドウさん(当時38歳)

1950年東ベルリン生まれ。1956年、政治的な理由で両親と7人の姉とともに西ベルリンに移った。元新聞記者で、日本特派員として約20年日本に住んだ経験も。

西ベルリンの大学で日本学と経済学を学び、卒業してから銀行の仕事をしました。その後、新聞記者として採用されてデュッセルドルフへ移住。1985年からは東京に赴任し、特派員として働いていました。当時はインターネットがない時代ですから、ドイツの出来事はあまりフォローしていなくて。でも、1989年6月に中国で天安門事件があって、東ドイツもそれに影響を受けて、状況がだんだんと変わってきていることを感じていました。

あの日、東京は11月10日。午前中だったのですが、ドイツ銀行の記者会見があって、その時に夜中だったベルリンの壁崩壊のニュースが入ってきたんですね。あまりに突然のことだったので、残念ながら当時どんなふうに感じたのかは覚えていません。その後、ドイツの状況を解説するため、日本のテレビ局の依頼でいくつかニュース番組に出演しました。しかし、ドイツの情報を全然持っていなかったため、西ベルリンに住む甥に電話をして、ベルリンの様子についていろいろと聞きました。東ドイツ製の自動車「トラバント」が西ベルリンを走るようになり、その排気ガスがものすごい臭いだったそうです。

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 00:50
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】消えた東ドイツの足跡をたどって - DDRと出会える5つの場所 4

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

消えた東ドイツの足跡をたどってDDRと出会える5つの場所

ベルリンの壁崩壊の翌年、1990年の東西ドイツ統一は、結果的には「西ドイツによる東ドイツの吸収合併」という形で行われた。それに伴い、社会主義を象徴するような建物は次々取り壊され、東ドイツ(ドイツ民主共和国 Deutsche Demokratische Republik、通称「DDR」)の面影も急速に失われていく。ここでは、もう消えてしまったDDR時代を知ることができるスポットをご紹介。ベルリンの街を歩きながら、東ドイツのもつ暗い歴史だけでなく、ごく当たり前に営まれていた市民生活の風景を覗いてみよう。

東ドイツ時代の生活文化に触れる DDR博物館

DDR博物館
DDR博物館

旧東ドイツの日常生活をテーマにした博物館。「歴史を触る」というコンセプトをもとに、一般的な東ドイツ市民の生活空間をまるまる再現したコーナーをはじめ、当時の学校の様子やバカンスの過ごし方、秘密警察の盗聴システムなどが、実物を使って展示されている。さらに旧東ドイツの国産車トラバントのドライブシュミレーションも体験でき、旧東ドイツ時代へのタイムトリップが味わえる。

DDR Museum
日曜~金曜 10:00~20:00 土曜 10:00~22:00
Karl-Liebknecht-Str.1, 10178 Berlin
www.ddr-museum.de

2007年オープンの「泊まれるDDR」 オステル

泊まれるDDR
泊まれるDDR
泊まれるDDR
泊まれるDDR

東ベルリンのフリードリヒスハインに位置する、本格的な東ドイツのデザインを再現したホステル。建物の外観もさることながら、1970年代の壁紙が貼られた室内には、レトロな家具、旧式のラジオ、カール・マルクスの肖像画などが並んでおり、レトロ好きにはたまらない。ホテルから徒歩2分のところには、東ドイツ時代の典型的な料理を味わうことができるレストラン「Volkskammer」も。

OSTEL - Das DDR Hostel
Wriezener Karree 5, 10243 Berlin
www.ostel.eu

監視社会としての東ドイツを知る シュタージ博物館

シュタージ博物館
シュタージ博物館

旧東ドイツの国家保安省として、諜報機関の役割を担っていた「シュタージ(Stasi)」。その本部であった建物が、現在は博物館として開放されている。当時の盗聴器や隠しカメラ、密告者の記録などが展示されており、シュタージがどのように東ドイツ市民を監視し、国内外で諜報活動を行っていたのかが分かる。また、当時の情報開示が行われているため、博物館に請求すれば自分の情報がシュタージに集められていたかどうかを知ることができる。

Stasimuseum
月曜~金曜 10:00~18:00 / 土曜・日曜・祝日 11:00~18:00
Ruschestraße 103, Haus 1, 10365 Berlin
www.stasimuseum.de

涙の別れを記憶する場所 涙の宮殿

涙の宮殿

フリードリヒ通り駅の北側にあるガラス張りの青い建物「Tränenpalast」は、東西ドイツ分断時は出国検問所の役割を果たした。西側から訪問してきた親せきや友人を駅に見送りに来た東ベルリン市民が、この建物で泣きながら彼らを見送ったことから、「涙の宮殿」という俗称で呼ばれている。現在は歴史記念館として、当時の検問施設などの再現や東西のニュース映像などが展示されている。

Tränenpalast
火曜~金曜 9:00~19:00 / 土曜・日曜 10:00~18:00
Reichstagufer 17, 10117 Berlin
www.hdg.de

生々しく残る壁と分断の歴史 ベルリンの壁記念センター

ベルリンの壁記念センター
ベルリンの壁記念センター
ベルリンの壁記念センター

ベルリンの壁の実物を眺めるなら、シュプレー川沿いのイースト・サイド・ギャラリーが定番だが、そこから北西6キロの所に約200メートルにわたって当時の壁や監視塔が残されている、ベルナウアー通りもおすすめ。壁の建設時、国境線に隣接するこの通りのアパートの窓から西側へ飛び降りて逃げた人も多くいた。この通りにある「ベルリンの壁記録センター」では、東西分断に苦しんだ人々の様子をとらえた写真や映像が展示されている。

Gedenkstätte Berliner Mauer
火曜~日曜 10:00~18:00
Bernauerstr.111, 13355 Berlin
www.berliner-mauer-gedenkstaette.de

レトロでキッチュな味わいDDR製品のデザイン

DDR製品の特徴といえば、シンプルなデザイン、チープでキッチュなつくり、そしてユーモアあふれるセンス。素材としては、プラスチックやブリキを使った製品が多い。社会主義体制のため、鋼鉄やコットン、ガラスなどが輸入できなかったことも、製品のデザインに大きく影響を与えている。現代の蚤の市などで当時の製品を見つけて喜ぶ私たちに、東ドイツ出身者はこう言うかもしれない。「一つひとつのデザインは確かにいい。でももし、生活の中にこれらの選択肢しか44なかったら?」

写真提供: DDR Museum

DDRのシンボル的存在 トラバント メーカー:VEB Sachsenring

VEB Sachsenring
VEB Sachsenring

「トラビ(Trabi)」の愛称で親しまれていた小型乗用車で、製造されていた1958年から1991年の間で、外見もエンジン性能もほとんど改良されることがなかった。ボディはプラスチック製、故障が多く、車を注文してから納品までに10年以上かかるなど、数々の逸話も。壁崩壊後、最新式のフォルクスワーゲンに混ざってトラビが走る姿に、東西ドイツ市民は互いに衝撃を受けたという。

飲めば当時を思い出す? クルプ・コーラ メーカー:Spreequell Mineralbrunnen GmbH

クルプ・コーラ

東ドイツでは米国のコカ・コーラが入手できなかったため、政府の要請により独自の開発が進められていた。1967年にはクルプ・コーラが開発され、ベルリンの国営飲料工場で生産。西側と味は異なっていたが、ウォッカやラムなどの蒸留酒が合わさった味わいは若者の間で人気だった。統一後は製造中止されていたが、1992年から再開した。

東ドイツの定番おやつ ハローレン・クーゲルン メーカー:Halloren Schokoladenfabrik AG

ハローレン・クーゲルン

ハレにあるドイツ最古のチョコレートメーカーで、もとは1804年にケーキ店として創業。1950年に工場が政府に収用され、1952年に「ハローレン(Halloren)」という名前の国営企業に。なかでも「ハローレン・クーゲルン(Halloren Kugeln)」は大人気のお菓子になった。再統一後に民営化され、現在も製造を続けている。

DDR デザインを代表するエッグスタンド Sonja Plastic製「Hühnchen」 メーカー:VEB Sonja Plastic

Hühnchen

1925年にエルツ山地のヴォルケンシュタインで設立された、プラスチックの加工会社WillibaldBöhm GmbH。1960~70年代には東ドイツの国営工場として稼働し、「ゾンヤ・プラスチック(Sonj a Plastic)」というブランド名で家庭用品やキッチン用品などを製造していた。なかでも有名なのが、ニワトリ型のエッグスタンド「Hühnchen」。その高い人気により、現在では復刻版も製造されているが、DDR時代オリジナルのものは淡い色合いが特徴だ。本来はゆで卵を乗せて食卓に出すためのものだが、小物入れなどとしてもおすすめ。

西の子どもも東のおもちゃで遊んでいた Sonni製のぬいぐるみ メーカー:VEB Sonni

Sonni製のぬいぐるみ

テューリンゲン州ゾンネベルクにあった国営企業「Sonni」は、東ドイツ最大の玩具工場として、ピーク時には1日に6000体以上のペースでおもちゃをつくっていた。そのため、ほとんどの東ドイツ出身者は、子どものころに一度はSonniの人形やぬいぐるみを抱いたことがあるとか。生産されるおもちゃのうち約70%は輸出用で、半分はソ連へ、もう半分は西側諸国に届けられていた。しかし西側諸国では、おもちゃに付けられるラベルが貼り替えられていたため、東ドイツ製のおもちゃだとは知られていなかった。

東ドイツ時代にもアーティスティックな製品 シュトレーラ製のヴィンテージ陶磁器 メーカー:Strehla

シュトレーラ製のヴィンテージ陶磁器

1950~70年代に西ドイツで生産されていた陶磁器は、コレクターからも絶大な人気を誇っている。実は東ドイツでも同様のヴィンテージ陶磁器が製造され、海外向けに輸出も行われていた。その代表的なメーカーが、1828年に設立された、ザクセン州の小さな町発祥のシュトレーラ(Strehla)。当時のDDR製品は保守的なデザインが多かった一方で、シュトレーラでは装飾性が高く、アーティスティックな商品も多く見られる。

DDRを紐解くキーワード

[オスタルギー] = オスト(東)+ ノスタルジー

「オスタルギー」とは、東ドイツ時代を懐かしむ情緒的・郷愁的な思いを表す造語。東西ドイツ統一後、社会主義体制下のシュタージ(秘密警察)の存在などが明るみに出たことで、国際社会では東ドイツが否定的に捉えられる傾向に。初めは統一を喜んだ東ドイツ市民だったが、自分たちの時代や社会が否定されたという失望感と、埋まらぬ東西格差から、「東ドイツ時代も、悪いことばかりではなかった」という思いが次第に強まっていく。このオスタルギーの感情は、ベルリンの壁崩壊から30年が経った今でも、政治や経済、社会状況など、さまざまな面で表れ出ている。

[人民公社] VEB(Volkseigener Betrieb)

第二次世界大戦後、民間企業はソビエト連邦(ソ連)の占領下で次々と収用された。東ドイツの独立後に、それらの企業は「国営」という形態で返還される。東ドイツ時代の製品はほぼすべて国営企業によって生産されていたため、製品には東ドイツの国営企業を表す「人民公社(Volkseigener Betrieb)」のマーク「VEB」が刻印されている。しかし東西ドイツ統一後、実際のレートとはかけ離れた東西マルクが1対1で等価交換されたことにより、旧東ドイツの製造業は軒並み競争力を失う。倒産が相次いで失業率も増加した。現在では、旧東ドイツの企業は数えるほどしか残っていない。

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 00:51
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】2つのドイツは本当に1つになったのか?今なお東西を分断する見えない壁 5

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

2つのドイツは本当に1つになったのか?今なお、東西を分断する見えない壁

1990年10月3日、ベルリンの壁が崩壊して約11カ月後、ドイツは再び1つとなった。当時多くの人々が再統一を喜んだが、ベルリンの壁が崩れてから30年が経った現在、見えない壁が東西の人々の間に立ちはだかっている。それは一体なぜなのだろうか。その理由を探るべく、ドイツ在住47年になるジャーナリスト・永井潤子さんにお話を聞いた。この記念特集の最後に、これまでの30年を振り返り、そしてこれからのドイツについて考えよう。

永井潤子さん ベルリン在住のフリージャーナリスト。1972~99年、西ドイツの公共国際放送ドイチェ・ヴェレの日本語放送記者を務め、東西分断時代から再統一、そして現代のドイツを見つめてきた。現在は執筆活動の傍ら、福島原発事故後に発足したブログ「みどりの1kWh」の書き手の1人として、主にドイツ政治について情報を発信する。
みどりの1kWh:https://midori1kwh.de

壁崩壊で希望に満ち溢れていたはずが……

ベルリンの壁が崩壊して間もない頃、特に東ドイツの若者たちはすごく希望に燃えていました。これからは素晴らしい生活が待ち受けているんだ、と心から喜んでいたのです。しかし、理想と現実には大きな開きがあることに人々は次第に気づいていきます。

旧東ドイツ出身の同僚の親戚に物理学者がいました。彼は社会主義統一党(SED)の党員ではなかったため、壁崩壊後、50代になってやっと教授に就任。当初は喜んでいましたが、後に彼はこう言ったのです。「壁が崩れるのが遅かった。もっと自分が若い時なら、状況は違っただろう」と。古いしきたりや予算不足により満足のいく仕事ができなかったことが原因でした。

再統一後、旧東ドイツの国有企業のほとんどがベルリンの「信託公社」によって整理され、失業者が続出。1991年の旧東独地域の失業率は10.2%だったのが、1996年には16.6%、2005年は20.6%にまで達しました(図①)。同僚のお姉さんのところでは家族全員が失業。長年慣れ親しんできた社会制度がすべてなくなって、西のやり方を受け入れなければなりませんでした。2018年には失業率は7.6%にまで下がり、西との差は縮まったとはいえ、平均収入や年金額は西に比べて低く、この30年間、旧東ドイツの人たちは不満を募らせてきたと思います(図②)。

図①:旧東西ドイツ別の失業率(年平均)

図②:旧東西ドイツ別の平均年収

東ドイツは女性が活躍できる環境だった?

失われた旧東ドイツの文化の1つに、女性の恵まれた労働環境があります。旧西独では専業主婦が多かったのに対し、旧東独では約9割の女性が職業に就いていました。西では、子どもが3歳になるまでは家で育てるという考えが根強かったため、保育所が少なかったんですね。一方東には、子どもが生まれてすぐに預けられる保育所がたくさんあり、子育てしやすい環境が整っていたため、再統一して東の女性は「西の男女平等政策は遅れている」と感じたことでしょう。

ところが、そんな旧東ドイツでも本当の意味での男女平等は実現していませんでした。政治のトップはほとんどが男性で、国家評議会議長だったホーネッカーの妻が教育大臣を務めたぐらい。それでも、東の女性たちは男女平等の社会に生きていると信じ、東ドイツの消滅を嘆き悲しんだ人も少なくなかったようです。

それに関連して、今年行われたドイツ女性参政権行使100周年の記念式典の場で、旧東ドイツ出身のメルケル首相の発言が印象的でした。「旧西ドイツでは結婚している女性が働きたいと思った場合、夫の許可が必要でした。(中略)今日の視点から見ると、信じがたいことです」。メルケル首相はその後に続く演説の中で、自分が18年間党首を務めたキリスト教民主同盟(CDU)では女性議員が少ないことを指摘。自分が党首だった間に、旧東ドイツでは当たり前と考えられていた男女平等を党内で実現できなかった不満が、この演説に込められていたのかもしれません。

AfDの躍進で明らかになった東西の壁

私が今最も心を痛めているのは、右翼ポピュリズム政党のドイツのための選択肢(AfD)の躍進です。AfD支持層は特に旧東ドイツ地域に集中し(図③)、男性の支持者が圧倒的に多いことが明らかになっています。9月のブランデンブルク州とザクセン州の州議会選挙では、30~59歳の年齢層の男性に支持され、その支持率は50%以上。また、労働者や地方の人々のAfD支持率も高く、労働条件や過疎化への不満が反映された結果とも捉えられます。

2019年欧州議会選挙結果2019年5月に行われた欧州議会選挙でAfDの得票率がトップになった地域は、
旧東ドイツ地域に集中している

10月のハレのシナゴーグ襲撃事件を受けて、ますます懸念されるのは、AfD支持者の中にネオナチ的な考え方を持つ人が多いこと。AfDの党員も、ナチスドイツが行ったユダヤ人迫害について責任を感じていない人が多いという印象です。1968年以降ナチスドイツの責任を問う意識が高まった旧西ドイツと、そういう時代を経験しなかった旧東ドイツでの意識の違いが表面化しているのではないかと思います。

また、2015年の難民危機が一部の旧東ドイツの人々の不満と複雑に絡み合っています。東では自分たちは「二流市民」だという考えが根強く、われわれは再統一後に何もしてもらえなかったのに、難民は助けてもらえる、という妬みもあるようです。でも、旧東独地域にはずいぶんと西ドイツのお金が投資され、街がきれいになり、経済状況が改善されてきたのも事実。一方で、ドイツを代表する大企業は1つも旧東独地域に本社を置いていません。国の重要機関も、ライプツィヒの連邦行政裁判所とエアフルトの連邦労働裁判所があるのみ。 過疎化を防ぎ、旧東ドイツの人々のことを考えるのなら、もっとそういったものを西から東へ移すべきでしょう。

それから、閣僚の中にもっと旧東ドイツ出身の人を取り入れるべきだとも思います。この点で注目すべきは、東の女性たちの活躍ぶりです。例えば政界では、緑の党の国会議員団代表や左翼党の共同代表として旧東独出身の女性が活躍。東ドイツ時代、職業・家事・育児をこなした女性たちの中には優秀な人が多く、各界でその力を発揮していると感じます。さらに、「Ostfrauen(東の女性たち)」が今後のドイツを変える、という自負も彼女たちにはあるようです。

9月の東部2州の州議会選挙について、南ドイツ新聞で興味深い社説が掲載されました。「東部では、特に人々の不満に応える政治家が必要とされる。(中略)これまで以上に有権者に説明し、新しいことにも勇敢に挑戦する態度が必要で、それが実行される時、東部ドイツに新しいものが生まれる」。同社説では、両州首相が選挙中に積極的に集会に参加し、人々の不満を聞き、それを解決する具体的な政策について説明したことが、高く評価されていました。

今後もAfDは勢力を伸ばしていくことが予想されており、ドイツが本当の意味で1つになるまでの道のりは、想像以上に長いでしょう。ですから、これからますます東西の人々がお互いの相違を認識した上で、理解し合うことが必要なのではないでしょうか。そして、人々が東西の見えない壁を崩していく具体的な努力をするよう願わざるを得ません。

最終更新 Dienstag, 10 März 2020 10:59
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語 1

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年を迎えた。この節目にドイツニュースダイジェストでは、2号にわたってベルリンの壁をテーマにした特集をお届けすることにした。かつて2つに分断されていたドイツの歴史を深く掘り下げるとともに、ベルリンの壁にまつわるエピソードを取り上げ、そしてこれまでの30年を振り返る……そう遠くないドイツの過去から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。前編では、そもそもなぜベルリンの壁が建設されたのかをひも解き、分断時代を知る人々に聞いた東西の暮らしぶりを紹介。まずは、1945年まで時計の針を巻き戻してみよう。(Text:編集部)

ベルリンの壁

ベルリンの壁の基本情報

ベルリンの壁建設:1961年8月13日(日)
崩壊:1989年11月9日(木)
全長:156.4キロメートル
高さ:3.6メートル
横幅:1.2メートル
逃亡に成功した人の数:5075人以上
国境警備隊による発砲:1709件
その内のけが人の数:119人
現在分かっている死者数:138人

出典:Bundeszentrale für politische Bildung 「Die Berliner Mauer」

ベルリンの壁

こうしてドイツは分断された ベルリンの壁 建設史

1961年から1989年の28年間にわたって、ベルリンを東西に分断していた「ベルリンの壁」。この壁の崩壊は、東西冷戦の終結、そして平和と自由の象徴として、世界史上でも最も重要な出来事の1つだ。しかし、そもそもなぜドイツを2つに分断する壁が築かれてしまったのだろうか。人と人、国と国の間に境界を敷くとは、どういうことなのか。「壁の建設」は人間の負の面を表す出来事でもあり、同じ過ちを繰り返さないためには、まずはその歴史を振り返る必要がある。これからの未来を語るために、過去を学ぶことから始めてみよう。

参考文献:Bundeszentrale für politische Bildung「Die Berliner Mauer」 Bundesstiftung zur Aufarbeitung「Die Mauer. Eine Grenze durch Deutschland」 www.berliner-mauer-gedenkstaette.de

終戦からベルリンの壁建設まで

第二次世界大戦後の4分割統治

1945年5月8日、第二次世界大戦の欧州戦線は、ドイツの無条件降伏により終結。同年7月に行われたポツダム会談では、ドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼として、戦勝国である米国、英国、フランス、ソビエト連邦(ソ連)の4カ国によってドイツを4分割して統治することが決められ、首都ベルリンについても4カ国がそれぞれ分割・管理するこになった(下図参照)。もともとはドイツの再統一を目指しての決定であったが、数カ月も経たないうちに社会主義体制を敷くソ連と、資本主義体制の米英仏の関係が悪化。第二次世界大戦後の世界平和への夢は早々に崩れ、東西冷戦の幕が開いた。

ドイツ4分割統治第二次世界大戦後の連合国によるドイツ4分割統治

資本主義 vs 社会主義の対立が激化

1947年6月には米国が、戦後の欧州経済の復興と再建を目的とした復興計画であるマーシャルプランを発表し、西ドイツで新しい通貨ドイツマルクを導入。これに対し、ソ連は新通貨として東ドイツマルクを発行し、西側に対抗する。同年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断する、「ベルリン封鎖」を敢行した。交通や給水、電気が遮断され、西ベルリン市民の生活に深刻な影響を与えたが、米国が大空輸作戦で物資を大量に送って援護。ソ連は目的を果たせず、10カ月後にベルリン封鎖を中止した。

物資を運ぶ米軍輸送機に手を振る子どもたちベルリン封鎖時、物資を運ぶ米軍輸送機に手を振る子どもたち

東西間で広がる経済格差

1949年5月、米国、英国、フランスの占領地区は統一され、西ドイツは正式な独立国家となった。西ドイツは奇跡的な経済復興を遂げ、生活水準が順調に向上する一方、東ドイツではドイツ社会主義統一党(SED)が社会主義体制を構築。農業の集団化が行われ、民間事業者や職人、パン屋などの多くの個人商店は財産を没収され、生活協同組合への加入を強制された。農業生産は劇的に落ち込み、経済も低迷していく。

1952年に東ドイツと西ドイツ間の国境が閉鎖されたが、ベルリンでは東西間の移動はまだ自由で、地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(Sバーン)なども通常運行されていた。そのため東西境界を越えて通勤することも可能で、当時はドイツマルクの価値が東ドイツの約4倍だったため、西側で働いて東側に暮らす人も少なくなかった。

東側からの大量人口流出

しかし、東ドイツの生活状況はさらに悪化していき、個人の自由も厳しく制限され始める。そのため、1950年代に入ると、西ドイツへの逃亡が急増。1952年から東西ドイツの国境は有刺鉄線で遮断され、厳しい検問が行われていたため、人々は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃げるようになった。1949年から1961年までの13年間では、273万9000人が東から西へ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントに当たる。

50年代に東ドイツを去った人の多くは、青年、熟練労働者、専門家、知識人などの国を支える人口層であるほか、集団化を強要された農民たちも含まれていた。そのため人口とともに労働力が失われ、経済状況はさらに落ち込んでいった。

東ドイツからの逃亡者数(ベルリンの壁建設以前)
  人数 25歳以下の割合
1949年 12万9245 -
1950年 19万7788 -
1951年 16万5648 -
1952年 18万2393 -
1953年 33万1390 48.7%
1954年 18万4198 49.1%
1955年 25万2870 49.1%
1956年 27万9189 49.0%
1957年 26万1622 52.2%
1958年 20万4092 48.2%
1959年 14万3917 48.3%
1960年 19万9188 48.8%
1961年 20万7026 49.2%
出典:Bundeszentrale für politische Bildung「 Die Berliner Mauer」

ベルリンの壁建設以降の東西ドイツ

武装した警官

突如現れたベルリンの壁

1961年8月12日から13日の真夜中過ぎにかけて、ついに壁の建設が始まる。ベルリン市民が眠りについている間に、東ドイツは西ベルリンを封鎖する作業を開始。それまで使われていたおよそ80の交通路や鉄道を封鎖し、道路、空き地、公園などにも有刺鉄線を張り巡らせた。13日の午前1時45分ごろには西ベルリンの全域が封鎖され、武装した東独部隊が国境に並んだ。翌朝、目を覚ましたベルリン市民たちは、突然姿を現したベルリンの壁に衝撃を受ける。西ベルリンに通勤していた人は職を失い、国境を越えて家族や友人、恋人にも会うことが叶わなくなったのだ。

ベルリンの壁建設壁建設の作業員たちもまた、武装した警官に見張られていた

資本主義国はすぐに対応せず

壁の建設は、西側諸国にとっては全くの不意打ちだった。しかし、米英仏はすぐには対抗措置を取らなかったため、壁の中に取り残された西ベルリン市民たちは見捨てられたと感じていた。当時の西ベルリン市長のヴィリー・ブラントはワシントンに書簡を送り、「何もせずにただ受け身になっているだけでは、西側諸国に対する信頼を危機に陥れることにもなりかねない」と訴えた。当時の米大統領、ジョン・F・ケネディはこれに応え、西ベルリンの米軍守備隊を強化。また、英仏の各軍も派遣部隊を増強し、戦車を動員した。1963年6月、ケネディはベルリンを訪れ、「私はベルリンの一市民である(Ich bin ein Berliner)」というセリフで有名な演説を行い、西ベルリン市民からの信頼回復を試みた。

監視体制の強化

ベルリンの壁が建設された8月13日からの数日間は、まだ逃亡のチャンスが残っていた。東ベルリン市民たちは、窓からロープを伝って西ベルリンへと降り立ったり、運河を泳いで西側へ渡ったりした。さらには、壁建設に徴用された人々や、国境警備隊からも多数の脱走者が出た。しかし、1961年に国境警備隊は壁に沿った建物の住民の立ち退きに着手。何千もの東ベルリン市民が何の予告もなしに引っ越しを余儀なくされた。1964年からは、国境警備隊が壁近くの建物の解体をはじめ、住居だけでなく、教会すらも爆破されることに。西ベルリンおよび東西ドイツ間の国境には、広いところでは5キロメートルに及ぶ立ち入り禁止区域が設けられ、特別に訓練された犬が放された箇所は200以上、監視塔も250棟近く設置された。

1969年に建てられた東ベルリンの監視塔1969年に建てられた東ベルリンの監視塔

命がけの逃亡

1961年9月14日には、国境警備隊へ「西ドイツへ逃亡して拘束を逃れようとする者は、1回の威嚇射撃の後、銃撃して良い」という指示が出される。東ドイツから逃れようとする人には命の危険がつきまとい、両ドイツ間の国境で命を落とした東ドイツ市民は、合計1000人に上った。それでも逃亡を企てる人々の脱出ルートはさまざまで、例えば重量のある車両で直接国境の遮断棒を突破しようとしたり、長い年月をかけてトンネルを掘ったり、気球や飛行機などの空路、ゴムボートやサーフボードでバルト海を渡る人も。なかには、逃亡者としてあえて国境警備隊に捕まって数年間を刑務所で過ごし、西ドイツに政治犯として引き渡されるのを待つ人もいた。東ドイツにとって、西側が政治犯を高額で買い取ってくれる「人身取引」は外貨収入を得るための方法でもあったのだ。

日常化する壁の風景

1970年代に入ると、世界の人々、そして多くの西ドイツの人々も、ドイツが分断されている状況に慣れ始めた。1972年9月に締結された東西ドイツ基本条約では、両ドイツが「内政、外交において、両国それぞれの独立性を尊重する」ことを規定し、1973年には、西ドイツ・東ドイツそれぞれが独立して国際連合に加盟。この頃には、西側から東側へは、手続きを済ませれば比較的簡単に訪問できるようになっていた。1973年に西から東ベルリンと東ドイツに入国した旅行者数は350万人を超え、壁の存在は観光客の関心を集めた。

東ベルリンでは、立ち入り禁止区域などにより国境封鎖施設が市民の目にあまり触れないようになっていたが、西ベルリンでは、壁は常に生活の中に入り込んでいた。壁はスプレーの落書きで埋め尽くされ、また、壁の近くは静かな休日を過ごすのに最適だった。壁の影響下で育った西ベルリンの子どもたちは、「警察と泥棒」の代わりに「国境警備隊と脱出者」で鬼ごっこをして遊んだそう。しかし、壁の建設を経験した世代にとって、「壁」への適応は簡単なものではなかった。「分断」や「壁に囲まれている」という閉塞感に苦しむ人も数多くいたのだった。

壁の前でボール遊びをする西ベルリンの子ども壁の前でボール遊びをする西ベルリンの子ども

ベルリンの壁 4度の変貌
1 1961年8月13日
(壁が建設された日)
コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らせた、フェンスのような形態
2 1961年8月15日
(壁建設から2日後)
コンクリートやレンガのブロックを積み上げた上に有刺鉄線を張りめぐらせたより頑丈なつくり
3 1965年ごろ 鋼を骨組みに使用したコンクリート製の壁
4 1975年~1985年ごろ 高さ3.6メートル、横幅1.2メートルの鉄筋コンクリート造り
最終更新 Freitag, 13 August 2021 14:30
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語 2

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年を迎えた。この節目にドイツニュースダイジェストでは、2号にわたってベルリンの壁をテーマにした特集をお届けすることにした。かつて2つに分断されていたドイツの歴史を深く掘り下げるとともに、ベルリンの壁にまつわるエピソードを取り上げ、そしてこれまでの30年を振り返る……そう遠くないドイツの過去から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。前編では、そもそもなぜベルリンの壁が建設されたのかをひも解き、分断時代を知る人々に聞いた東西の暮らしぶりを紹介。まずは、1945年まで時計の針を巻き戻してみよう。(Text:編集部)

東西分断時代を知る人に聞いた 壁の中の暮らし・壁の外の暮らし

歴史の教科書ではなかなか知ることができない、2つのドイツの市民の暮らしぶり。28年もの間、壁で囲まれていた西ベルリンの生活はどのようなものだったのか、そして、社会主義というシステムのなかで東ベルリンや東ドイツの人々の自由はいかに制限されていたのか。東西分断時代を知る4人の方に、それぞれの経験や感じていたことを聞いた。

お話を聞いた人

  • 永井潤子さん 1934年東京都生まれ。日本短波放送(当時)に勤め、1972年にケルンに移住、ドイチェヴェレの日本語放送記者として働く。2000年よりベルリン在住フリージャーナリスト。
  • 吉岡俊司さん 1949年生まれ、和歌山県で育つ。ハンブルク、デュッセルドルフを経て、1973年に西ベルリンに移住した。2018年まで日本食レストランのオーナー。
  • アンドレアス・ガンドウさん 1950年東ベルリン生まれ。1956年、政治的な理由で両親と7人の姉とともに西ベルリンに移った。元新聞記者で、日本特派員として約20年日本に住んだ経験も。
  • ウーヴェ・ベネケさん 1970年東ベルリン生まれ。大学進学前の兵役中に壁が崩壊した。1999 年、東ベルリン出身の4人の仲間とゲーム会社を立ち上げ、現在も同社の共同経営者。

WEST 壁の中の暮らし

西ドイツの一州として、東ドイツの中にぽつねんと存在した西ベルリン。分断時代には「赤い海に浮かぶ自由の島」とも言われたが、実際には壁に囲まれた生活に窮屈さを感じる人も多かったようだ。

50~60年代 怖い思いをした西ドイツへの電車移動

西ベルリンから西ドイツへ行く時は、必ず東ドイツを通らなければならず、子どもの頃、ハンブルクやハノーファーへは電車を利用しました。今でも忘れられないのが、東ドイツの入国審査官と国境警備隊。彼らは国境地帯で電車に乗り込み、コンパートメントのドアを開けて入ってきます。審査が終わるとポンポンポンとスタンプを押してドアを閉め、次のコンパートメントに移っていきました。そのドアの開け閉めをする音は、ある意味トラウマでもあります。(ガンドウさん)

60年代 夏休み以外は西ベルリンから出られず

1960年に合唱団に所属し、61年の始めから夏にかけて月に1度、東ベルリンの教会に歌いに行っていました。その頃はまだ西と東の行き来は自由でしたが、その後すぐに壁ができてしまったため、夏休み以外は西ベルリンを出る機会がなくなってしまいました。(ガンドウさん)

60年代 年に2回だけ親戚を訪ねて東へ

クリスマスとイースターの時期だけ、東ベルリンの親戚を訪ねることが許されていました。フリードリヒ通り駅から入国することになっていたのですが、まずはビザのチェック、税関、そして西ドイツマルクから東ドイツマルクへの換金、という3段階があって。特にクリスマスは長蛇の列で、暗く雪が積もっているなか、何時間も待たされました。私にとっては、あまりいい思い出ではありません。(ガンドウさん)

西ベルリンの人々クリスマスに東ドイツの親戚を訪ねるため、入国審査に並ぶ西ベルリンの人々
(1965年12月26日撮影)

60年代 東の親戚に送ったはずの小包の中身が……

東の親戚のために母が準備した小包を郵便局へ持って行くのが、子どものころの私の役目でした。ただ、親戚の元に届く前にシュタージ(東ドイツの秘密警察)に中身を調べられてしまうため、現金や物が盗られてしまうことがよくありました。(ガンドウさん)

70年代 壁がある地域は異様な雰囲気

ベルリンに暮らし始めて、何度も壁を観に行きましたが、やはり異様な光景でした。場所にもよるのですが、壁の前にはごく最近銃殺された人のお墓があることも。国境だったブランデンブルク門に近いベルリンフィルハーモニーの辺りは何もなく、第二次世界大戦で破壊された建物が放置されていました。当時から観光スポットだったベルナウアー通りは、建物の壁がそのままベルリンの壁になっていた部分があったり、設置されていた物見台からは東ベルリンの街並みがよく見えました。(吉岡さん)

東ベルリンを一望できる物見台東ベルリンを一望できる物見台は街のいたるところにあった

70年代 ハンブルクまではアウトバーンではなく国道

西ベルリンから西ドイツへ行く方法の1つが、東ドイツを通過する自動車移動でした。特にハンブルクへのルートはある時期までアウトバーン(高速道路)がなく、最高速度60キロ程度の国道のみ。途中停車禁止のため、3時間ほど走り続けなければなりませんでした。農家のトラクターの後ろにつくとスピードが落ちるので、余計に時間がかかり気が気ではなかったです。(吉岡さん)

70~80年代 西ベルリンではクナイペが大繁盛

1979年にそれまで勤めていた会社を退職し、日本食を提供する居酒屋(クナイペ)をオープン。当時は夜中2時まで営業していたのですが、とても繁盛していました。というのも、西ベルリンは壁があるので、行く場所が限られていたんです。さらに、食料品店は基本的に平日は18時まで、土曜は13時までしか開いていなかったので、買い物をしそびれると食べるものがないんですね。だから、西ベルリンにはクナイペがものすごくたくさんありました。(吉岡さん)

OST 壁の外の暮らし

社会主義国の暮らしを想像できるだろうか。今でこそ笑えるような出来事がある一方で、信じられないほど厳しい面もあった東ドイツ。つい30年前まで存在した国の素顔をのぞいてみよう。

70~80年代 バナナ欲しさに長蛇の列

東ベルリンでは夏になると、キューバ産の緑色のバナナが店に並び、その時期は「Bananenzeit(バナナ期間)」と呼ばれていました。もちろん、店の前には購入するための長蛇の列が。スイカも時々売られていて、誰かがそれを目撃すると瞬く間に噂が広がり、やはり列ができました。買占めしないように、1人3つまでなどの制限もあったと思います。(ベネケさん)

70~80年代 牛乳のメーカーは1つだけ!

東ドイツでは「牛乳=牛乳」でした。牛乳のメーカーは1つしかなかったので、牛乳と言われたら、そのメーカーの商品のことを意味したのです。それから、西側諸国をまねた商品も多く売られていました。例えば、チョコレートバーなどのお菓子。ただし、味は西のものに劣っていましたし、パッケージがどれも色あせたような典型的な東ドイツ製の見た目をしていました。ちなみに、清涼飲料水のClub Colaや洗剤のSpeeは今も販売されている数少ない東ドイツのメーカーの製品です。(ベネケさん)

70~80年代 西側諸国の商品が手に入るインターショップ

何を買うわけでもなく、西側の商品が売られている免税店「インターショップ」によく行っていました。食料品から魅力的な製品までいろいろと売られていましたが、西ドイツマルクでしか購入できず、ほとんどが高額。西ドイツマルクを集めて、友人と少しずつお金を出し合い、一緒に買い物をしたこともありました。外交官は西ベルリンに行くことができたので、その子どもはこっそり西側のティーン向け雑誌「BRAVO」を手に入れられることも。付録のポスターなどを安く売ってもらったこともありましたよ。(ベネケさん)

インターショップ東ドイツの各都市にあったインターショップは1989年時点で470店舗あったという

70~80年代 子どもはとにかくピオニールに参加

東ドイツのほとんどの子どもたち(全体の約9割)が「ピオニール(先駆者)」に参加していました。ピオニールとは、社会主義教育をするための青少年のグループのことで、1~3年生までは青いスカーフのJungpionier、4~7年生までは赤いスカーフのThälmann-Pionierに所属します。レクリエーションやレジャー活動を行ったり、壁新聞を制作することもありました。(ベネケさん)

ピオニール「Seid bereit!(備えよ!)」の号令に「Immer bereit!(常に備えあり!)」と
答えるのがピオニールのお決まりの掛け声

70~80年代 初めて習う外国語はロシア語

東ドイツの子どもたちは、1〜10年生まであるPOS(Polytechnische Oberschule)と呼ばれる学校で学びました。5年生になると全員ロシア語を習い、7年生で英語かフランス語を選択可能。EOS(Erweiterte Oberschule)に進んだ子どもたちは、大学進学を目指すことができました。(ベネケさん)

80年代 休暇は東のリゾート地・リューゲン島へ

アビトゥーアのクラスにいた時、友人たちと自転車で3日間かけてバルト海のリューゲン島(メクレンブルク=フォアポンメルン州)に行きました。ほかにも、同じ社会主義国であるポーランドやハンガリーは定番の旅行先で、私も両親と一緒に旅行したことがあります。ただ、西側諸国へは旅行できないため、ドイツ国内にとどまっている人も多かったという印象です。(ベネケさん)

80年代 東ベルリン市民は西ドイツ放送を見ていた

公の場では、テレビやラジオはもちろん東ドイツの放送しか受信することができませんでした。でも、東ベルリンの人はたいてい西ベルリンからの電波を拾って、ARDやZDFなどの西ドイツの放送を見ていました。逆に東ドイツには「Der schwarze Kanal」という、西ドイツの放送を風刺したプロパガンダ番組があったのですが、今見ると滑稽な感じです。(ベネケさん)

80年代 目と鼻の先にある別世界

壁沿いに住んでいる友人のパーティーに行った時のこと。10階くらいだったと思いますが、西ベルリンが丸見えで、壁の反対側にジャンプしていけそうなくらい近い距離でした。壁という人工的な障害物があるにもかかわらず、壁の向こう側の別世界がよく見えることに、不思議な気持ちがしたのを覚えています。(ベネケさん)

70~80年代 オペラが破格の値段

当時、東ドイツには素晴らしい歌い手や指揮者がたくさんいたので、よく東ベルリンにオペラを観に行っていました。しかも、オペラのチケットは15マルク(約7.5ユーロ)、プログラムが50ペニヒ(約25セント)、ゼクトが1マルク(約50セント)と破格の値段。それでも、強制両替した東ドイツマルクが余るので、西では手に入らないロシア音楽のレコードをお土産に買って帰ったこともありました。(吉岡さん)

50~80年代 進学は労働者と農民の子が優先

東ドイツは労働者と農民の国。弁護士や医者などのエリートの子は大学に行けず、そのことは人々が西へ逃亡する理由の1つでした。私がケルンで働いていた時、ハレ(ザクセン=アンハルト州)出身の同僚がいたのですが、彼女は西側の親戚を頼って、マインツ(ラインラント=プファルツ州)の大学に進学したそうです。(永井さん)

70~80年代 赤いシビックに見物客

東ドイツ出身の同僚の里帰りに、私の運転で一緒に行ったことがありました。車種は赤いシビックだったのですが、彼女の実家の目の前に駐車したら、西の車が珍しいのでしょう、近所の人たちが皆見に来ていました。(永井さん)

70~80年代 家庭菜園で物々交換

東ドイツのお店に行っても置いてあるのはじゃがいもと玉ねぎとにんじん、それからキューバ産のレモンくらいで、新鮮な果物や野菜はほとんど売っていませんでした。でも、庭のある家の人たちはサクランボやイチゴを育てたりして、物々交換をしていたんですね。庭があるか否かで、生活水準に大きな差があったのです。私もそれに触発されて、同僚とケルンで庭を借りたことがありました。(永井さん)

70~80年代 西への出張に家族は連れていけない

東ドイツ出身の同僚のいとこの夫が物理学者でした。党員ではなかったため、大学教授にはなれませんでしたが、優秀だったため西側の国際会議に出席していました。ただし、西に逃亡しないようにと、妻子を連れてくることは許されなかったそうです。(永井さん)

70~80年代 東に西の新聞の持ち込みは厳禁

シュヴェリーン(メクレンブルク=フォアポンメルン州)出身の友人を車に乗せて、彼女の両親を訪ねに行った時、うっかりケルンの新聞を車の中に置きっぱなしにしてしまったことがありました。すると、それを見つけた友人は震えんばかりに怒りました。東ドイツで西ドイツの新聞や雑誌を持っているのが見つかると、シュタージに連行されることもあるため、友人はいつも恐怖心に捉われていたのだ思います。(永井さん)

最終更新 Freitag, 13 August 2021 14:30
 

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