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【保存版】ドイツのスープ事典

【保存版】スープ事典 - ドイツを味わい尽くそう!

冬本番を迎え、ほかほかのスープで身体を温めたい!という人も多いはず。ドイツのスープは野菜やお肉、パスタなどが入り、具だくさんでバラエティー豊か。季節ごとにも楽しめるスープの魅力をたっぷりと紹介する。 (Text:編集部)

ドイツでスープを楽しむための
4つのトリビア

スープトリビア 1 毎週土曜日はスープを食べる日

夕飯は「Kaltes Essen(ハムやパンなどで軽く済ませる冷たい食事)」が好まれるドイツだが、スープは別。ドイツスープ研究所の統計によると、ドイツの80%の消費者が土曜の夕食時にスープを食す傾向にあるという。なお、平日は29%にとどまっている。ちなみにドイツの「スープの日」は11月19日。参考:n-tv「Samstag ist Suppentag」

スープトリビア 2 スープ人気の秘密は「時短料理」だから?

ドイツでスープが愛されるのは、健康に良いだけではなく、調理に時間がかからないことも大きな理由の一つ。かつては、何時間もかけてFond(煮汁)を取るところからスープが作られていたが、忙しい現代人はインスタントや缶詰に頼る傾向にあるそう。またスープ製品は国産が好まれ、輸入品は全体の5%。参考:Deutsches Suppeninstitut

スープトリビア 3 Eintopf(煮込料理)はスープじゃない?

ポットにさまざまな具材を入れて煮込むアイントプフは、日本の「鍋」や「シチュー」と同じようなメニュー。アイントプフとスープとの違いは、メインディッシュとなりえるか、サイドメニューや前菜となるか。また、お肉と多様な野菜をじっくり時間をかけて煮込むことも、アイントプフの特徴。参考:EAT SMARTER「Suppe, Brühe, Eintopf: So löffeln Sie richtig!」

スープトリビア 4 ドイツでプチトレンド「Suppenfasten」

ほとんど固形物を含まないスープのみを食べるスープ断食(Suppenfasten)が、ドイツではプチトレンド。この健康法には守るべき規則がいくつかあり、例えばインスタントスープはNG、1日30〜40分のウォーキングを推奨など。レシピや成功のポイントはウェブや本にさまざまな情報が掲載されている。参考:ELLE.de online「In zehn Tagen bis zu zehn Kilo abnehmen? Das verspricht Suppenfasten」

統計で見るドイツのスープのあれこれ

ドイツで人気のスープ

Quelle: Deutsches Suppeninstitut / Suppen-Zeit & Suppen-Hits

粉末タイプ

  • 1位:チキンスープ
  • 2位:春の素材を使ったスープとアスパラガスクリームスープ
  • 3位:トマトスープ

すっきりとした味わいでアレンジも自在なチキンスープが人気No.1。アスパラガススープは粉末タイプだからこそ、いつでも楽しめるのが人気の理由か。

缶詰タイプ

  • 1位:グラーシュ
  • 2位:ビーフンスープ
  • 3位:えんどう豆のスープ

ハンガリー生まれのグラーシュはドイツでも人気が高い。一から作るのは手間がかかるが、缶詰タイプなら肉や野菜の素材感も楽しめ、調理も簡単。

  • 1人当たりの消費量は年間約100皿分
    Quelle: Deutsches Suppeninstitut
  • 毎年12月〜翌3月までに年間生産量の40%のスープが消費される
    Quelle: Deutsches Suppeninstitut
  • ドイツ人が好きな食べ物でスープは5位
    Quelle: Die Welt / So essen die Deutschen(2017年)

定番から変わりものまで勢ぞろい スープ図鑑

スーパーの棚やレストランでよく見かけるものから、ちょっと珍しい種類まで、ドイツでよく食べられているスープをピックアップ。濃いめの味付けはご愛敬!
参考:DW「Leckere Suppen aus Deutschland」、Deutsches Suppeninstitut

定番スープ

季節を問わずドイツ人から愛されている定番のラインナップ。自分好みの具材を入れるなど、アレンジは自由自在。

じゃがいもスープ
Kartoffelsuppe

じゃがいもスープ

さまざまな種類が揃うドイツのジャガイモを使えば、味わいや食感がバラエティー豊かに。ピューレ状のさらりとした味わいにしたい場合は、煮崩れしやすいたタイプの「Mehlig kocheende」を。ゴロゴロとした食感を味わいたい場合は、煮崩れしにくい「Vorwiegend festkochende」タイプがおすすめ。

トマトスープ
Tomatensuppe

トマトスープ

世界初のトマトスープレシピは、1957年に米国人のEliza Leslieが考案した。一般的なのはトマトをピューレ状にし、生クリームやチキンストックを加える、なめらかな口当たりのもの。サワークリームやクルトンを加えても◎。スペイン生まれの冷たいトマトスープ、ガスパチョはドイツでも夏に親しまれている。

豆スープ
Bohnensuppe

豆スープ

豆を使用したスープの起源は、1430年頃、マルティヌス5世に支えていた宮廷料理人のヨハネス・ボッケンハイムが残したレシピによるもの。レンズ豆や白豆、エンドウ豆など、さまざまなバリエーションがある。エンドウ豆がベースのスープにジャガイモ、玉ねぎ、ソーセージやベーコンなどを加える「Erbsensuppe」は、ドイツ北部で親しまれている(写真下)。


チキンスープ
Hühnersuppe

チキンスープ

欧米では風邪をひいた際に家庭で振舞われることが多く、日本のおかゆ的存在。チキンやお好みの野菜を加えたシンプルなものから、麺や餃子を加えたボリューム満点なものまで、アレンジも自由自在。ドイツでは、デュラム小麦を粗く精製したセモリナから作られるパスタを具として入れるのが一般的。

グラーシュ
Gulaschsuppe

グラーシュ

ハンガリー生まれのグラーシュは、牛肉と野菜を牛肉のブイヨンと赤ワインでじっくり煮込んで作るアイントプフで、ドイツのレストランやクリスマスマーケットでも定番メニュー。故郷ハンガリーではパスタやクネーデルと一緒にいただくのだそう。ドイツ国内では地域による違いはほとんどなく、全国的に人気。

季節限定スープ

旬の時期がやってくると、決まってドイツ人が食べたくなる季節限定のスープ。毎年の楽しみになったら、あなたも相当なスープ通かも?

白アスパラガスのスープ(春)
Spargelsuppe

白アスパラガスのスープ

ドイツの美味、 ヴァイス・シュパーゲル(白アスパラガス)は、4月から6月にかけての短い期間だけ出回る。茹でたヴァイス・シュパーゲルにオランデソースをかけていただけるのもおいしいが、ぜいたくにスープで楽しめるのは、ドイツならではだ。生クリームを加えて作れば、より濃厚な味わいに仕上がる。

かぼちゃのスープ(秋)
Kürbissuppe

白アスパラガスのスープ

アメリカでは11月の感謝祭で振舞われるかぼちゃのスープは、ドイツでも秋に味わうことができる定番。ひょうたん型ののかぼちゃ「スクワッシュ」を使ったスープも。ドイツで出回っている品種でスープに向いているのは、深い味わいと良い香りがポイントの「ホッカイドウ」がおすすめ。 ほくほく甘みのあるテイストに。

ご当地スープ

この材料で一体どんな味になるんだろう? と思わず眉をひそめるようなスープも……。旅行先で見つけたら、ぜひお試しあれ。

ビールスープ(バイエルン)
Biersuppe

ビールスープ

「バイエルンでは食事中にビールを飲み、スープとしてビールを食す」と言われるほど、ビールが欠かせないバイエルン。ビールスープの作り方は、バターでとろとろと煮込んだ玉ねぎに小さくカットしたトーストを投入、さらにブイヨンとビールを入れ、最後に刻んだネギを添えてできあがり。家にあるビールでぜひ試してみて。

洋ナシのスープ(ラインラント)
Birnensuppe

洋ナシのスープ

スープに果物……ちょっと想像しにくいけれど、洋ナシは意外にも塩味とマッチするため重宝する。そして、ラインラントは言わずと知れたワインの産地。モスト(白ワイン原料となる果汁)と生クリームを使ってできる卵色のスープは、黄金色の洋ナシにぴったりだ。シナモンや砂糖を入れて、甘く仕上げることも。

フレーデルスープ(南ドイツ)
Flädle-Suppe

フレーデルスープ

たくさん入った細長い具の正体は、なんとパンケーキ。オーストリアからやってきたフレーデルスープは、バイエルンを中心に南ドイツで食されている。レシピが簡単なのも人気の理由。スープの出汁に細切りにしたパンケーキを入れ、残りものがあればそれも投入。塩胡椒、スパイスで味付けしたらできあがり。

グリースクネーデルスープ(バイエルン)
Grießknödelsuppe

グリースクネーデルスープ

バイエルンでもう一つ忘れてはならない定番が、このグリースクネーデルスープ(またはGrießnockerlsuppeとも)。ナツメグがアクセントのグリースクネーデル(セモリナ団子)をスープに浮かべていただく。バイエルンの人にとっておばあちゃんの味でもあり、病気になったときに飲むスープとしても親しまれている。

魚介スープ(ハンブルク)
Fischsuppe

魚介スープ

ドイツで一番大きな港のあるハンブルクは、ドイツのスープの街とも言われる。試すなら、ぜひ魚介のスープを。基本的にどんな魚介もスープとの相性はいいが、特にハンブルク風のカニのスープ(写真)は昔から人気。その一方で、腎臓のスープ、かめもどきスープ、牡蛎のスープは、現代ではほとんど食べられないそう。

最終更新 Dienstag, 11 Januar 2022 16:07
 

2019年に記念年を迎えるドイツの偉人

2019年に
記念年を迎える偉人
ドイツの著名アーティストたちの軌跡

新年を迎えるにあたり改めて過去を振り返ると、そこにはさまざまな発見や学びがあるもの。今年は世界中でファンが多いドイツ出身の芸術家5人に焦点を当て、その軌跡をたどる。
(Text:ドイツニュースダイジェスト編集部)

2019年はバウハウス誕生100周年 20世紀芸術と造形教育に
大きな影響を与えた総合的教育機関

バウハウス

1919年、ドイツのテューリンゲン州ヴァイマルにて設立された総合的教育機関。建築家のヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなど、ドイツを代表する建築家たちが学長を務めた。ナチスによる弾圧で1933年に閉校を余儀なくされたが、閉校までの14年の間に20世紀芸術と造形教育に大きな影響を与え続けた。100周年を迎えた今年は、4月6日に本拠地だったヴァイマルにバウハウス美術館が新たにオープンするのをはじめ、ドイツ各地で展覧会やイベントが企画されている。

没後50年

世界三大モダニズム建築家の一人
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
Ludwig Mies van der Rohe 1886〜1969年

ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトとともに20世紀のモダニズム建築を代表する建築家。「Less is more.(少ないことは、より豊かなこと)」という建築スタイルを確立した。1886年3月にアーヘンに生まれたミース・ファン・デル・ローエは、地元の職業訓練学校で製図を学んだ後、建築事務所に入り本格的に建築を学ぶ。1929年に開催されたバルセロナ万国博覧会ではドイツ館の「バルセロナ・パビリオン」を設計し、著名な建築家の仲間入りを果たす。1930年からは「バウハウス」の3代目校長に就任。ドイツの「ベルリン美術館 新ナショナルギャラリー」も彼の作品。

没後50年

バウハウスを創立した建築家
ヴァルター・グロピウス
Walter Gropius 1883〜1969年

ヴァルター・グロピウス

奇しくもミース・ファン・デル・ローエと同年に亡くなったヴァルター・グロピウスも、モダニズム建築を代表する建築家の一人。造形美術学校「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。1883年5月ベルリンに生まれたグロピウスは、ベルリンやミュンヘンの工科大学で建築を学ぶ。1911年の作品、「ファグスの靴型工場」は、後のバウハウス校舎の構想にもつながるような鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築であった。代表作には、「 ヴァイマル・バウハウス校長室のインテリア」(1923年)などがある。

生誕200年

女性音楽家の礎を築く
クララ・シューマン
Clara Schumann 1819〜1896年

クララ・シューマン

ドイツを代表する女性ピアニスト、作曲家。また、作曲家のロベルト・シューマンの妻でもあった。1819年9月、当時のザクセン王国ライプツィヒに生まれたクララは、9歳のときにライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で、モーツァルト・ピアノ協奏曲のソリストを務め、プロデビューを果たす。以後、19世紀において最も名高いピアニストに。夫のロベルト・シューマンとの苦難多き人生を歩むことになりながらも、若い頃に共作をするなど、夫婦としてともに試練を乗り越えた。また、ロベルト・シューマンはクララを主題にした楽曲も残している。

没後50年

激動の時代を生き抜いた画家
オットー・ディクス
Otto Dix 1891〜1969年

オットー・ディクス

ドイツで第一次世界大戦後に始まった芸術運動、「即物主義」を代表する画家の一人。ゲーラで生まれたディクスは小学生の頃から画家としての片鱗を示していた。第一次世界大戦では従軍し、惨状を目の当たりにした彼は戦争という悲しい現状をスケッチに落とし込み、多くの作品を残す。終戦後はドレスデンとデュッセルドルフでアートを学ぶ。1920年にはベルリンの国際ダダ見本市に参加し、高い評価を受ける。鋭い観察眼で矛盾に満ちたドイツの実状を作品に昇華し続けた。代表作には、銅版画連作「戦争」や、油彩「大都会」などがある。

没後10年

世界的に活躍したコンテンポラリーダンサー
ピナ・バウシュ
Pina Bausch 1940〜2009年

ピナ・バウシュヴッパータール舞踊団による「春の祭典」

ドイツのコンテンポラリーダンスを世界に広めたダンサー、振付師。ドイツ西部・ヴッパータール・タンツ・テアターの芸術監督を務めた。1940年7月ゾーリンゲンに生まれ、14歳からエッセンのフォルクヴァンク芸術大学でドイツ表現主義舞踊の権威であるクルト・ヨースに師事。米国で活動したのち、1962年にドイツに帰国。世界中で公演を行うかたわら、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『 そして船は行く』(1983年) に出演。2002年にはペドロ・アルモドバル監督作品『 トーク・トゥ・ハー』の冒頭で代表作「カフェ・ミュラー」を自身が踊っている。

ベルリンの壁崩壊から30周年 今を生きるアーティストとともに進化する街

ベルリンの壁崩壊から30周年

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩れてからちょうど30年の節目を迎える。28年以上も東西を分断していた壁は、民主化を求めた旧東ドイツの市民たちの手によって崩壊に至った。現在は自由に東と西の行き来ができるベルリンだが、30年近く経っても東西の街並みやカルチャーには違いが見られ、さまざまな価値観がぶつかり合い、今なお発展途上の街であることがうかがえる。そんな刺激的なベルリンには世界中からアーティストやクリエイターが集まり、常に新しい発想に溢れている。壁亡き後のベルリンから、次はどんな「偉人」が輩出されるだろうか?

最終更新 Freitag, 05 April 2019 11:18
 

英国・ドイツ・フランスの 「笑い」を大解剖!

新春特集 - 2019年を楽しむために

英国・ドイツ・フランスの「笑い」を大解剖!

あらゆる場を盛り上げ、会話の潤滑油となるユーモア。しかし、世界各国における文化の違いがあるように、笑いの感覚も国ごとに微妙に異なるのではないだろうか。そこで今回は英国・ドイツ・フランスの「笑い」の特徴を、現地編集部が調査した。3国共通で浮かび上がってきた「政治」というキーワードを検証するのに加え、国別の笑いを楽しむコツなどをご紹介。「初笑い」というにはちょっと真面目な欧州の笑いを大解剖する。
(英・独編集部、沖島景)

欧州の笑いの始まり
中世では笑ってはいけなかった?

21世紀の現在、「笑い」と聞くと肯定的な要素が思い浮かぶが、時代や国によって「笑い」に対する評価が変わってくる。近年、中世の笑いが大きく話題になったのは全世界でベストセラーを記録したウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』だろう。この作品は、北イタリアのカトリック修道院で起こる謎の連続殺人事件を解明する物語で、その事件の鍵は「笑い」だ。舞台は14世紀初頭、欧州で笑いが抑制されていた時代。古代ギリシアの哲学者アリストテレスが喜劇について論じた著作を手に入れた修道士ウィリアムは、老修道士ホルヘと「笑い」について論戦を展開する。ホルヘは笑いによって神、教会の権威が失墜することを疑惧し、「笑いは私たちの肉体の弱点であり、退廃であり、失われた味だ」、「笑いは愚かさの徴(しるし)」と言い放つ……。実際、12世紀にアリストテレスの著作が再発見されてからは、笑いについての解釈が議論されるようになった。。『薔薇の名前』はこの時代を舞台にした物語である。

フランスの中世史家、ジャック・ルゴフによれば、笑いは3つの時期に分けられるという。第1期は4~10世紀ごろで、笑いは悪魔の表現であると考えられ、笑いは抑制されていた。第2期には宗教的良心を判断する神学、決議論が成立し、笑いの適法性と笑い方が問いただされる。そして第3期は「解放された笑い」の到来だ。

現在の笑いとは違う概念であった第1期。4世紀以前にも笑いの倫理について述べられている書物はあったが、ふざけた卑猥な話は禁じるが笑い自体は許されていた。4世紀になると修道院で笑いについて問題視され始め、5世紀の神学者、説教者であるヨアンネス・クリュソストモスは笑うことを禁じた。それはエペソ人への手紙で「卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくないことである。それよりは、むしろ感謝をささげなさい」と述べられているからだ。そして「イエスは決して笑わなかった」ということからも、笑いは次第に糾弾されるようになった。例えば中世ドイツ人聖職者のヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098- 1179)は、笑いを悪魔の象徴とし、災いを招くと指摘していた。人間に意味のない音を出させることは人間を動物レベルに落とすとし、また笑いは体液の変化を起こし、バランスが崩れることで病気が生じるとも主張していた。

「人間は笑う力を授けられた唯一の動物だ」と言われているが、歴史を紐解くと時代によって、その授かった力を抑えつけなくてはならない厄介な存在だったことが分かる。

参考文献:『薔薇の名前』(東京創元社)、『図解 笑いの中世史』(原書房)、『キリスト教と笑い』(岩波新書)

英国・ドイツ・フランスの「笑い」の特徴

英国・ドイツ・フランスの人々は、いったいどんな笑いを好むのか。似ているようで微妙に異なる3国の笑いのツボや、その国らしいお笑いを楽しむ方法をご紹介しよう。

UK英国

ブラックな笑いで権威を批判し自らの立場を主張する

英国の笑いと聞いてまず思いつくのは、王室や政治家などの権力を持つ人間や、自国の社会制度を批判した、風刺(Satire)や皮肉(Irony)、そして嫌味(Sarcasm)を含むブラックな笑いではないだろうか。英劇作家のウィリアム・シェイクスピアは『リア王』の中で、王に辛辣な言葉を浴びせる道化を登場させたが、ほかの登場人物が王に対して面と向かって言うことのできない真実を、道化は易々と「笑いを提供する者」という立場を利用して伝えている。ここではユーモアは、都合の悪い事実を暴き出す道具として使われているのだ。

時代が移り、シェイクスピアの子孫である現代英国のコメディアンたちも、ジョークやコメディーを通し、世の中のさまざまな矛盾に物申している。移民の両親を持つコメディアンは英国人が持つ外国人に対する偏見をネタにし、フェミニストや性的少数者も自分の置かれた立場を笑いで表現。質の良いブラック・コメディーは政治や社会問題などつまらないと思っている人々の目を開く役割を果たす。今、最も時代が必要としているもの、それはブラックなお笑いなのかもしれない。

ドイツドイツ

真面目なドイツ人の笑いの歴史は国民性と政治にあり

「真面目なドイツ人」という認識は、万国共通と言えるだろう。ドイツを代表する詩人・ゲーテはかつて、「ドイツ人の演劇は真面目な国民性にふさわしく、たちまち道徳的な傾向に転じた」と述べており、ドイツにおいて質実な国民性が喜劇的な内容に対して不利に作用していることについて言及している。また、劇作家のブレヒトも「われわれドイツ人は真面目さをおおいに鼻にかけている」と、すべてを真剣に捉える自国民に対して疑問を呈している。しかしながら、多才なコメディアン、ロリオー(Loriot)のようにそんなドイツの国民性を皮肉って笑いに昇華させるアーティストが受け入れられていることも事実だ。

また、ドイツにおける笑いには歴史的な背景も色濃く現れている。そのなかで最も象徴的なのが、独裁政治を行ったナチス・ドイツの例。ナチスは自身に向けられるジョークに対して我慢ができなかったとされ、政府を風刺して笑った者は、処罰の対象となったというエピソードだ。裏を返せば、笑いは権力者に立ち向かうための武器になることをドイツ人が知っていたということだろう。

フランスフランス

ブラック・ユーモアも受け入れるフランス革命から続く精神

フランスで日本の漫才や落語のような「お笑い」に相当するものといえば、ワンマン・ショーだろう。ワンマン・ショーは政治家や有名人を揶揄したり、モノマネをしたりすることが多い。ときには人種差別などの社会的な問題を笑いに変えて訴える手法も見られるが、その多くはコメディアン自身がアフリカ系フランス人などの場合で、自ら体験したことを笑いで伝えている。フランスでは他国とはまた違う表現の自由があり、あらゆる権威を笑い飛ばし、批判していくことが許されている社会である。それは絶対王政を倒したフランス革命から続く共和国の建国精神。他国から見ると眉をひそめるユーモアもあるだろう。しかし、特定の人を中傷することや差別的発言、戦争の犯罪を称賛しない限り、公の場でも風刺画という手段を使っても比較的許される風潮があるのがフランスの特徴だ。

フランスの世論調査会社BVA が調査した日常の笑いについての統計によると、フランス人が笑いの中でどのジャンルを好むかという質問では、80%が言葉遊びが好きなことが判明。56%がジョークや面白い話を好むが、モノマネは25%しか支持を得なかった。

三国三様!英・独・仏の人々はいったいどんなところでコメディーを楽しんでいる?

UK英国

ビールを片手にパブでスタンダップ・コメディーを

1人の話し手が観客の前に立ち、マイク片手にとっておきのジョークを次々と浴びせていくスタンダップ・コメディーは、英国のお笑いの王道スタイル。ステージを併設したパブや、コメディー・クラブと呼ばれる劇場などで、話し手は何年もの歳月をかけて練り上げたネタを繰り返し演じることも多いが、日によってアドリブや観客との掛け合いが展開されることも。特に手ごろでおすすめなのは、コメディーを楽しめるパブ。入場料はだいたい5ポンド(約720円)からと敷居も低く、ビールを飲みながら気軽にステージを楽しめる。ベテランの芸を観ることはもちろん、新人コメディアンの発掘の場としても存在する。一方、コメディー・クラブにも大抵バーが付属しており、結局のところ、英国のお笑いは常にアルコールとともにあるといっても過言ではない。

英国で人気のコメディー 登場人物にはこと欠かない

1980~1990年代に民放局ITVで放送され、英国ばかりか海外でも人気を博した風刺人形劇「スピッティング・イメージ」。王室メンバーや国内外の政治家などのグロテスクなまでにデフォルメされた人形が登場し、時事にまつわる風刺劇が繰り広げられる。現在この番組が復活するという噂がある。

スピッティング・イメージ人形劇「スピッティング・イメージ」のサッチャー元首相(写真右)

ドイツドイツ

映画を見れば、ドイツ人の笑いのツボが分かるかも?

ドイツの笑いは政治や国民性などをネタにしたものが多く、日本人にはドイツ人の笑いのツボが分からないこともある。しかし、悲喜劇と呼ばれるジャンルの映画では、比較的分かりやすいドイツの笑いが楽しめる。例えば、「グッバイ・レーニン!」はベルリンの壁によって生き別れた家族を描く悲しい物語だが、思わず笑ってしまうシーンも多々登場する。近年日本でも公開された「ありがとう、トニ・エルドマン」や「はじめてのおもてなし」などもまた、含み笑いを誘いつつ、観る人に考えさせちゃっかり泣かせるところが、いかにもドイツらしい。また「帰ってきたヒトラー」は、現代にタイムスリップしたヒトラーがモノマネ芸人としてデビューを果たすという内容。自国の歴史やメッセージを込めて笑いに変える手法は、現代のドイツならでは。

ドイツで人気のコメディアン 秀逸な自虐的笑い

ドイツ人なら誰もが知っているコメディアン、ロリオーに代表されるような自国民の性質を皮肉った笑い、その系譜を受け継いでいるのがドイツを拠点に活動する26歳のスイス人、ヘーゼル・ブラッガー(Hazel Brugger)。淡々とした話し口調で、時折ブラックなユーモアを投げかけ観衆の心をわしづかみにする。

ロリオー自身が監督を務めた映画『Pappa ante Portas』に主演するロリオー

フランスフランス

フランスで笑いを楽しむなら劇場へ

ジャン=ピエール・ジュネの映画『アメリ』に出演したジャメル・ドゥブーズは人気コメディアンで、フランス国内で毎年ワンマン・ショーを行っている。また若いコメディアンが世に出ていくことを支援し、パリの10区(42 Boulevard de Bonne Nouvelle)に劇場を構えてショーやオーディションを開催。新人コメディアンのショーを満喫できる。古典喜劇を堪能するならルイ14世が発足させた「王立劇団コメディー・フランセーズ」へ。別名「モリエールの家」という名の通り、上演作品のレパートリーにもモリエールの作品がある。ただこの劇団はモリエール劇団と悲劇を得意とする劇団とを統合させた背景を持ち、演目によっては悲劇であることもあるのでご注意。また19世紀に広まった人形劇「ギニョール」(Guignol)でも笑いを楽しめる。

フランスで人気のコメディアン 辛辣なユーモアが人気

20世紀の喜劇俳優としては映画画『大追跡』(1965年)などで活躍したルイ・ド・フュネス、またバイク事故により死亡したコリューシュが不朽の人気。コリューシュは差別や偏見といった題材を扱い辛辣なユーモアで知られていた。現在人気が高い女性のコメディアンは、フローレンス・フォレスティ。

フローレンス・フォレスティワンマン・ショーで人気を博すフローレンス・フォレスティ

笑いが社会に与えた影響からおすすめのコメディーまで
6つの「笑い」のエピソード

英国エディンバラ・フリンジはコメディアンたちの出発点!

毎年8月にスコットランドで開催されるエディンバラ・フェスティバル・フリンジは、演劇やコメディーを中心としたフェスで、申請すれば誰でも参加が可能。そのため、このフェスに出演することで注目を集め、一旗揚げようとする野心旺盛なコメディアンたちが殺到する。その昔、若きローワン・アトキンソン(Mr. ビーン)やスティーブン・フライなども出演した。出演のための審査がないことから、通常のイベントでは考えられない前衛的なネタを披露するコメディアンもいるのだとか。

英国笑えない? 英国流のきついジョーク

第二次世界大戦時、広島と長崎で相次いで被爆し、後に93歳で亡くなった日本人男性を「世界一運が悪い男」と紹介したのが、2012年に放映されたBBC のお笑いクイズ番組「QI」の司会者スティーブン・フライ。ゲスト回答者たちが「93歳まで長生きしたなら、不幸ではないかも」「原爆が落ちた翌日に列車が走るとは、英国では考えられない」などと発言。そのためこの映像を不快に感じた在英邦人らが日本大使館へ連絡をし、BBC と番組制作会社は、連名で謝罪声明を発表するに至った。

ドイツ際どい政治ネタで風刺するローゼンモンタークのカーニバル

普段はどんなにビールをあおっても礼儀正しく真面目なドイツ人が、年に一度ハメを外して楽しむ日が、2月のローゼンモンターク(バラの月曜日)に開催されるカーニバル。 特にドイツ西部のマインツ、ケルン、デュッセルドルフのカーニバルは大規模で、多くの山車が街中を練り歩く。その中でも目を引くのが政治風刺をテーマにした山車。国内政治批判に関わるものから、国外に向けたメッセージなど多岐にわたる。笑いにあふれるカーニバルでもシニカルな要素を盛り込むのがドイツ風。

ドイツドイツ人になるための本、笑われている本人たちも爆笑?

在独英国人、アダム・フレッチャー氏の英独バイリンガル本『ドイツ人になる方法(How to be German)』(C.H.Beck刊行)では、海外から見たクスッと笑えるドイツ人の姿がシニカルに描かれる。例えば「ドイツにおける3つのP(計画・準備・プロセスの頭文字)を身につけるため、数年先まで休暇の予約を取ろう。そのプロセスを簡素化するなら毎年マヨルカ島(ドイツ人定番の休暇先)への旅行がおすすめ」と皮肉りながらも、的を得た内容を展開。ドイツ人にもウケが良くシリーズ化されている。

フランス日仏の「笑い」の感覚の違いが明らかに

ブラック・ジョークを好むフランス人だが、日本人には到底理解できない事柄もある。例えば風刺人形劇でニュースを伝える「レ・ギニョール・ド・ランフォ」が2011年の東日本大震災の後に放送したニュースでは、震災で被害を受けた仙台の町並みと第二次世界大戦後の広島の写真と比べて「日本は60年間も復興に向けた努力をしていない」とコメント。さらに福島第一原発の周辺の現場で復旧作業に当たる作業員をスーパーマリオに見立てるなどし、在フランス日本大使館が抗議をする事態に発展した。

フランス「笑い」が襲撃事件に発展 シャルリー・エブド

過激な風刺画のイラストを多用する「シャルリー・エブド」紙がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことが悲劇を引き起こした。2015年1月7日、武装したテロリストが同社に侵入し乱射、12人を射殺。フランスでは各新聞で政治や社会的問題を風刺画で表現する風習があるが、同紙の絵が「笑い」の限度を超えているかどうかも含めて意見が飛び交った。同社は以前から複数のイスラム系団体から訴えを起こされていたが、政教分離の国、フランスの裁判所は無罪を言い渡していた。

最終更新 Freitag, 04 Januar 2019 14:46
 

ドイツの医療現場に笑いを届けるコメディアン、エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン

新春特集 - 2019年を楽しむために

ユーモアと健康の関係を探り続け
ドイツの医療現場に笑いを届ける
医療コメディアン Dr. med.
Eckart von Hirschhausen
エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン

「笑うことは最高の薬」と話すのは、ドイツ各地の病院にたくさんの赤鼻ピエロを派遣してきた「ユーモア・ヒルフト・ハイレン(HUMOR HILFT HEILEN)」創設者のエッカート・フォン・ヒルシュハウゼンさん。笑いが健康に良いことが科学的にも立証されつつある今日、どのようにして医療の現場にユーモアを持ち込めるかを長年試行錯誤してきた。2018年に創立から10周年を迎えた団体の取り組みに加え、ドイツの笑いについて詳しくお話を聞いた。

Dr. med. 
Eckart von Hirschhausen 
エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン

エッカート・フォン・ヒルシュハウゼン 1967年フランクフルト生まれ、西ベルリン育ち。1995年まで小児神経科の医師を務めた後、医療コメディアンとしてテレビなどにも出演してきた。2008年にユーモア・医療財団「HUMOR HILFT HEILEN」を設立した。ドイツ語の著書多数。ロリオーの大ファン。

笑いで奇跡を起こした赤鼻ピエロ

即興音楽や寸劇で小児病棟の子どもたちを笑わせる赤い鼻のピエロ。彼らはユーモア・ヒルフト・ハイレン(以下HHH)でトレーニングを受けた「ホスピタル・クラウン」(Klinikclown)だ。HHH創設者のヒルシュハウゼンさんは、病気の子どもたちにとって笑うことがいかに重要であるかを身をもって体験したと話す。

「もう何年も前のことです。とある体育館で医師としてマジック・ショーをしたとき、心身症専門の小児科医がショーの間に起きたことを話してくれました。当時彼が担当していた場面かん黙症*で人前で話せない男の子が、なんと周りの子どもたちと一緒に笑ったり、驚いたりしていたと言うのです。そのときから、私はユーモアや音楽、芸術は治療の役目を果たすのではないかと考えるようになり、それがHHH誕生のきっかけになりました」。

*家庭では話せるが、学校や職場など特定の場所で全く話せなくなる精神的な症状

ドイツ医療業界で広がるユーモアの輪

その後、ヒルシュハウゼンさんは財団を立ち上げ、何年もかけてドイツ各地に自身のプロジェクトを広めていった。現在では、HHHのホスピタル・クラウンは小児科を訪れるだけではなく、高齢者施設などでの緩和ケアも行っている。

「ホスピタル・クラウンの派遣は、私たちの活動の一部に過ぎません。優秀なユーモア・トレーナーとユーモア・セラピストと協力し、より専門性のあるホスピタル・クラウンの養成に努めています。また、看護師や看護学校での教育のために特別なモジュールを開発し、すでに全国で1万人以上の看護師が実践しました。現在は、より多くの人がこのモジュールを実践できるよう、アプリの開発も進めています」。

また一方で、HHHは健康とユーモアの関係性を研究する機関でもある。これまで、笑いが病気の治療に有効であることを科学的にも立証してきた。

「ポジティブな感情が心身にもたらす効果については、すでにいくつかの研究がされています。例えば、小児科の手術室にホスピタル・クラウンが患者に同行するという検証では、信頼性を強めるホルモン『オキシトシン』の分泌が増えることが確認されました」。

ユーモアのないドイツ人……はウソ

笑いを専門的に研究するヒルシュハウゼンさんだが、世間で語られる「ドイツ人はユーモアがない」ことについて尋ねてみると、それはただの固定観念でしかない、と答えた。

「ドイツ人にユーモアがないと言われる所以の一つに、『仕事が第一』という炭鉱夫の精神が考えられます。鉱山には全くと言っていいほど、楽しみというものがなかったのです。しかしながら、今日はもちろんそんなことはありません。むしろ、笑いは健康的なことで科学であるということの方が、現代のドイツ人の間では知られていると思います。

2017年に、健康科学と心理学の研究におけるアプローチ方法に大きな変化が起こりました。それまでは、何が人間を病気にするのかということだけが研究されていたのが、何が人間を健康にするのか、何が人間を精神的ストレスから守るのかということも注目されるようになったのです。ユーモアの強みは、まさに人間をストレスから守ることです。ドイツ人の国民病でもある、うつ病や肥満なども気分の変化と大きく関係していることが分かっており、心理療法の分野でも研究が進んでいます」。

今後はより多くの医療関係者にユーモアが持つ力について知ってほしい、と話すヒルシュハウゼンさん。最後はこんなジョークで締めくくった。「病院に持ち込むべきたった一つの『病原体』は、ずばり感染力の高い『笑い』です! 」。

最終更新 Montag, 07 Januar 2019 14:45
 

ドクターマーチンの歴史 - 第二次世界大戦後のドイツで誕生

第二次世界大戦後のドイツで誕生
ユース・カルチャー発展の立役者

ドクターマーチンの
歴史

おしゃれな英国ファッション・アイテムとして有名な靴ブランド「ドクターマーチン」。その生みの親は、実はドイツ人だった。ドイツから英国に渡り、今や世界的に知名度の高いブランドへと成長したが、その栄光を手にするまでには長い道のりがあった。第二次世界大戦後の少ない物資のなか、考案者たちの情熱によって誕生。やがて英国経済を土台から支える労働者と、 人生を謳歌する若者たちを鼓舞し続ける存在になった、ドクターマーチンの光と影に迫る。(文: ニュースダイジェスト編集部)

ドクターマーチンを履いた若者 1979年、ロンドンのショップ「ボーイ」の前に立つパンクたち

誕生のきっかけは足首の負傷だった

英国ブランドとして世間に知られているドクターマーチンだが、実は1945年にドイツで生まれ、立ち位置も現在のようなファッション・アイテムとは異なるものだった。考案者は独軍医のクラウス・マルテンス。スキー中に足首を負傷したマルテンスは、それまで履いていたミリタリー・ブーツが痛めた足には硬すぎたため、歩行の際の衝撃を和らげ、足が疲れないソール(靴底)を作ることにした。材料は、戦後の混乱に乗じて手に入れた廃材や皮革などを利用したという。こうして第二次世界大戦直後のミュンヘンで生まれた「エア・クッション・ソール」は、ドクターマーチン誕生の大きな一歩となった。ブランドの始まりは、意外にもマルテンスに起きた個人的な出来事だったわけだが、これが後に英国へ進出するキーポイントとなる。

マルテンスは若いときに靴の修理工として働いた経験があったものの、製作にはより精密な技術や専門的な知識が必要となったため、大学時代の旧友で、機械工学の知識を持つヘルベルト・フンクを訪ね、2人で協力して商品化を目指した。そして2年後の1947年、エア・クッション・ソールを搭載した靴の販売を開始。それまでミリタリー・ブーツしか履くものがなかった労働者階級の男性や主婦たちに大ヒットし、2人の靴は瞬く間に知名度を上げ、業績はうなぎ上りだった。

転機が訪れたのは1959年。2人はもっと大きな市場での流通を目指し、海外へ視野を向ける。早速、英国の靴業界専門誌に広告を出した。これに目をつけたのが、英中部ウォラストンで家族経営の製靴業を営んでいたグリッグス家のビル・グリッグス。同家は1901年の創業以来、丈夫なワーク・ブーツを作る老舗として知られており、ビル・グリッグスはこの革新的なソールに興味をそそられた。2人の新たなスタートには最高のパートナーだったと言えるだろう。

クラウス・マルテンス、ヘルベルト・フンク、ビル・グリッグス 左)スキーを楽しむクラウス・マルテンス(写真右)とヘルベルト・フンク(同左) 
右)ドクターマーチンを英国にもたらしたビル・グリッグス

エア・クッション・ソールのプロトタイプエア・クッション・ソールのプロトタイプ

1930年代のコブスレーン工場1930年代に撮影されたグリッグス家のコブスレーン工場

アイコンとなった「1460」

グリッグスは、マルテンスとフンクが開発したエア・クッション・ソールの製造特許を獲得し、製作に取り掛かる。エア・クッション・ソールの考案者、マルテンスを英語読みにした「ドクターマーチン」は、8つのレース・ホールを持ち、濃い赤色のオックスブラッドのブーツとして、1960年4月1日から正式に生産をスタート。日付にちなみ、このモデルは「1460」と名付けられた。商品化にあたり、ソールに改良を加えたほか、丸みを帯びたフォルム、靴の周りを一周する黄色のステッチ、履き口に取り付けられた黒と黄色がポイントのヒール・ループ、ツートンの溝付きソール・エッジなどのアレンジを加え、特徴となるソールを「エアウェアAirwair」と呼び、キャッチ・フレーズ「ウィズ・バウンシング・ソールズWith Bouncing Soles (弾む履き心地のソール)」とともに、世に送り出した。

発売後の数年間は、「頑丈で、そこまで高額ではない靴」として、ドイツと同じく労働者階級の男性を中心に飛ぶように売れ、特に警察官、工場従事者、郵便局員たちの間にいち早く浸透していった。また、発売額が2ポンド(現在の約40ポンド)と手ごろだったのも売り上げを後押した要因だった。ちなみに、当初はロンドン東部の魚市場で働く人へ向けて、靴をオイル仕上げにして販売する予定だったが、加工なしでも耐久性に差がなく、またマットでラフな感じが逆にアピール・ポイントになったため、結局その過程は省略されたという。

やがて「ドクDocs」「DMs」などの愛称で幅広く親しまれていったこの靴が、ただのワーキング・ブーツの枠から飛び出すのにそう時間はかからなかった。労働者階級の便利な靴が、次第に英国のカルチャー・シーンに必要不可欠なアイテムになっていくのである。

ドクターマーチン1460モデル左)1460モデル。現在は柔らかいレザーを使っている 
右)1960年代に使われたドクターマーチンの広告

英国の文化、社会に与えた影響

第二次世界大戦後、英経済が軌道に乗るに従い、若者たちは給料をファッション・アイテムにつぎ込むようになり、1950年代後半から主にロンドンに住む中流階級の間で誕生した(諸説あり)「モッズ」が世間をにぎわせはじめる。モッズは細身の3つボタン・スーツにミリタリー・パーカを身にまとい、音楽をこよなく愛し、スクーターで街を移動する若者のこと。労働者階級のモッズたちは、懐に余裕があるときにスーツを購入していたようで、普段はワーキング・ブーツやミリタリー・ブーツを履き、ボタンダウン・シャツにストレートのリーバイスなど、実用的なアイテムを身に付けていることが多かったという。このスタイルは、1960年代後半から「スキンヘッド(スキンズ)」と名を変えて独自のスタイルを築いていくことになる。思想により、スキンズ内で名称は細分化するのだが、いずれにせよ、生まれたてのスキンズは、自身の階級の誇りを表すアイテムとして、ドクターマーチンを選んだ。

このように、アイデンティティーを主張する手助けとなったドクターマーチンだが、その名を世に知らしめ、また英国を代表するブランドに躍進させた最も重要な立役者は「ミュージシャン」であった。

このように、アイデンティティーを主張する手助けとなったドクターマーチンだが、その名を世に知らしめ、また英国を代表するブランドに躍進させた最も重要な立役者は「ミュージシャン」であった。

967年、英ロック・バンド、ザ・フーのピート・タウンゼントは、英北部のとあるショップで、ライブのためにドクターマーチンのブーツを購入。派手なステージ、パフォーマンスで知られるタウンゼントは、そのステージでも、ドクターマーチンを履いて自由に跳ね回った。もちろんブーツはカメラマンが捉えた印象的なシーンにことごとく写り込み、ファンの目に飛び込むのに時間はかからなかった。また、タウンゼントはブーツについて「柔らかさと、足へのなじみの良さを兼ね備えたこのタフなブーツが、自分のパフォーマンスをより高みへ導いた」と、絶賛したという。タウンゼントはドクターマーチンを早期に履いた有名アーティストの1人であるが、その後もパンク・バンド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、スカ・バンドのマッドネス、ロック・バンド、ザ・スミスのボーカル、モリッシーなど、数え切れないほどのミュージシャンたちが愛用。また、ファンたちもこぞってファッションを真似することで、愛用者を着実に増やしていった。こうしてドクターマーチンは、偶然に助けられながらも、英国のユース・カルチャーを支える必須アイテムとして君臨したのである。

ピート・タウンゼントライブでドクターマーチンを履いたピート・タウンゼント

ロンドンのキングス・ロード1983年、ロンドンのキングス・ロードに集まるパンクたち

ノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たちノーザン・ソウルでダイナミックに踊る若者たち

マッドネスコベント・ガーデンのショップを訪れたマッドネス

政治家も愛用した

血気盛んな若者たちに履かれていたドクターマーチン。だが、公の改まった場所にも登場したこともあった。労働党員として47年間下院議員を務めたトニー・ベン(1925-2014)は、父から受け継いだ上院議員の地位を捨て、戦後の英国の労働運動を積極的に後押しした政治家。ベンはよくドクターマーチンの靴を履いて議会に登院していたため、一般の見解としては労働者階級との団結を表現していた、と言われている。しかし、かつて「ガーディアン」紙のインタビューで、そのとき履いていた黒のドクターマーチンについて聞かれ、「1970年代ごろ、息子からこの靴のことを教えてもらい、試しに履いてみたらとても履きやすかった。以来ずっと履いています」と答えた。

トニー・ベン 英政治家のトニー・ベン

業績不振からの飛躍

さまざまな階級の人たちに受け入れられ、売り上げを伸ばしていったドクターマーチンのエアウェア社だが、2000年代に入る直前、その勢いに陰りが見えはじめる。原因は、国内ではなく「米国市場での売り上げ減少による財政難」。状況は非常に悪く、建て直すどころか倒産の危機まで迫ったため、2003年、国内の工場を1つだけ残し、生産拠点を中国とタイへ移転するという苦渋の決断を下す。結果として、1000人以上が職を失うことになった。追い込まれた同社が考えた策は、ジミー・チュウやヴィヴィアン・ウェストウッドなど名のあるファッション・ブランドとコラボレーションし、ファッション好きの若者を惹きつけること。こうして当座を凌ぎ、事業再生へのめどをつけた同社は、4年後の2007年、英中部ウォラストンにあるコブスレーン工場で、昔ながらの製法で作った「ビンテージ」コレクションの製作を開始。ブランド・イメージの名誉挽回である。使用するレザーは「キュイロンQuilon」と呼ばれる厚みのある非常に硬いもので、履きはじめはとにかく痛い。かつてのファンは、この分厚いレザーこそドクターマーチンだと復活を喜んだそう。その後も国内外で次々とショップをオープンさせ、名実ともに完全復活を遂げた。

現在は東アジアを含む海外市場での売り上げが好調で、他社とのコラボレーションも引き続き積極的に行っている。2018年には英美術館テート・ギャラリーとタッグを組み、英画家の作品をプリントするなどの斬新な挑戦も試みている。

発売当初に比べると、ブランドの持つとがった雰囲気は薄くなりつつあるが、英コメディアン兼作家のアレクセイ・セイルの歌「ドクターマーチン・ブーツ」の、「階級もイデオロギーも関係ない、(中略)履けば誰もが自由になれるんだ」という歌詞の通り、これからも多くの人を魅了し続けていくことに変わりはないだろう。

60年代のロゴと、ニューオーダーのジャケットがプリントされたドクターマーチン英国のロック・バンド、ニュー・オーダーとコラボし、アルバム「テクニック」のジャケットをプリント

知られざるエピソード

2007年広告事件

2007年、契約していた広告代理店「サーチ・アンド・サーチ(S&S)」がとんでもない広告を作ってしまった。ニルバーナのカート・コバーン、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、セックス・ピストルズのシド・ビシャス、ラモーンズのジョーイ・ラモーンら今は亡きミュージシャンたちが、ドクターマーチンの靴を履いて雲の上に佇むというビジュアルで、まるで4人を神様のように見立てたものだったという。S&Sが勝手に作業を進めたのに加え、遺族の許可も取っていなかったため、広告を見た遺族たちが声明を出す事態になった。ドクターマーチンを販売するエアウェア社は、この一連の騒動について遺族に謝罪し、S&Sとの契約を打ち切ることにした。

好調なアジア市場とファンの本音

2013年、投資ファンドのペルミラと組み、さらなる市場拡大を目指したドクターマーチン。そのかいあって、日本を含む東アジア市場での売り上げが好調のようだ。また、重くてゴツい従来のブーツを3分の1に軽量化し、よりスマートな見た目へチェンジした「DM's Lite」という新ラインは、ティーンエイジャーを中心にヒット。このように近年はファッション性重視の傾向が感じられるが、昔からのファンはどう受け止めているのだろうか? 「ガーディアン」紙に寄せられた意見では、新しい開発を好意的に受け止める人がいる一方、「時代が変わって、昔のパンクやスキンズみたいに、社会に対して反逆する子どもたちはもういなくなったのだろうか」「品質が下がってから履かなくなってしまった」「私は現在60歳で、少し高かったけど、丈夫な英国産のドクターマーチンを買ったわ。私より長生きするんじゃないかしら」など、ノスタルジーに浸る人々も少なからずいるようだ。

ドクターマーチン

最終更新 Montag, 24 Dezember 2018 10:39
 

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