終戦から100年英国・ドイツ・フランスから見る
第一次世界大戦
1918年11月11日に第一次世界大戦が終結してから、ちょうど100年。欧州を中心に世界を巻き込んだ未曽有の大戦では、4年間で軍人と一般市民をあわせて1500万人以上の死者が出たと言われる。また、その後の第二次世界大戦をはじめとした現代史にも大きな影響を与えた出来事でもあった。この100年という節目に、ニュースダイジェストでは私たちが暮らす欧州、特に英国・ドイツ・フランスの3カ国にまつわる第一次世界大戦の逸話を集めることにした。まずは、第一次世界大戦とはどんな戦争だったのか、その歴史をポイントごとにおさらいする。
(Text:英国ニュースダイジェスト・ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考文献:『詳説世界史B』(山川出版社)、『世界史B』(実教出版)
第一次世界大戦 年表
1908年 | オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合 |
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1912年 | 第一次バルカン戦争 |
1913年 | 第二次バルカン戦争 |
1914年 | 6月28日 サライェヴォ事件 7月28日 第一次世界大戦勃発 8月26日 タンネンベルクの戦い(ドイツvs ロシア) 9月5日 マルヌの戦い(フランスvsドイツ) |
1916年 | 2月~12月 ヴェルダンの戦い(フランスvsドイツ) 6月~11月 ソンムの戦い(英国・フランスvsドイツ) |
1917年 | 2月 ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言 3月・11月 ロシア革命 |
1918年 | 11月 ドイツ革命 11月11日 第一次世界大戦終結 |
1919年 | パリ講和会議 |
第一次世界大戦の背景
「ヨーロッパの火薬庫」だった
バルカン半島
20世紀初頭、欧州の帝国主義列強諸国の間では、バルカン諸国とオスマン帝国の動向に関心が集まっていた。特にオーストリアは国内のスラブ系民族による分離・自治運動が激化することを恐れ、セルビアなどのバルカン地域の台頭を抑えこもうとした。1908年、オーストリアはスラブ系民族の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合 。しかし、スラブ系民族主義者はこの併合に強く反対した。
一方、ロシアはオーストリアの進出に対抗して、セルビアなどの4カ国をバルカン同盟として結束させた。その後、対オスマン帝国の第一次バルカン戦争、同盟内で争った第二次バルカン戦争が勃発。各列強が特定のバルカン諸国と結びついていたため、列強諸国の関係はさらに緊張が高まり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。
オーストリア皇太子を殺害し、逮捕されるセルビア人男性
第一次世界大戦の勃発
大戦の引き金となった
サライェヴォ事件
1914年6月28日、ボスニアの州都・サライェヴォを訪問中だったオーストリア帝位継承者夫妻が、セルビア人に暗殺されるサライェヴォ事件が起こった。オーストリアはこれをスラブ系民族運動を抑えるチャンスと捉え、7月28日にドイツの支持を得てセルビアに宣戦を布告し、第一次世界大戦が勃発した。オーストリア側にドイツ、セルビア側にロシアが参戦したことから、英仏露の三国協商により、英国とフランスもドイツに宣戦した。
結果的に、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリアの4カ国からなる同盟国と、英国、フランス、ロシアなどの27カ国の連合国が参加する大戦争へと発展した。
第一次バルカン戦争で進軍するオスマン帝国の兵士たち
第一次世界大戦の戦禍
長期化した塹壕戦と
新兵器の投入
戦争はドイツのベルギー侵入から始まった。しかし、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍を阻止した。それ以後、西部戦線では両軍とも塹壕にたてこもる膠着状態となり、長期にわたる持久戦となる。一方、東部戦線ではタンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍を破ったものの、やはり膠着状態に。西部戦線ではさらに、ヴェルダンの戦いやソンムの戦いなどの激戦があったものの、勝敗は決まらなかった。
この大戦では、航空機、毒ガス、戦車などの新兵器が使われるようになった。その開発と大量生産能力は、各国の工業力によっていたため経済戦争ともいわれる。また、多くの人と物資を動員した総力戦であり、英国やフランスは自国の植民地から労働力や兵員、物資を補った。
フランスの西部戦線に配置された英軍の戦車
第一次世界大戦の終結
平和構築を目指し、
国際連盟が誕生
1917年、ドイツは連合国側の物資輸入を困難にするため、無制限潜水艦作戦と称し、潜水艦で船舶を攻撃。これにより、連合国側と結びついていた米国がドイツに宣戦した。その後、ドイツは不利な状況に追い込まれ、1918年の秋に同盟国側が相次いで降伏する事態に。同年11月11日、ドイツの臨時政府が休戦条約に調印し、戦争が終結した。
1919年、英国、フランス、米国、イタリア、日本が中心となってパリ講和会議が開かれた。その結果、ドイツの戦争責任や軍事制限を取り決めたヴェルサイユ条約などからつくられた国際秩序を、ヴェルサイユ体制と呼ぶ。また、同会議内で平和維持を目的に国際連盟が設立された。
パリ講和会議にて、米ウィルソン大統領ら三巨頭を含む国際連盟委員会
第一次世界大戦の影響
国民の不満が革命につながった
総力戦となったことで、交戦国では経済統制や食料配給制度が実行され、その結果として各国の社会と国民に大きな変動をもたらした。特にロシアとドイツでは食料暴動や反戦ストライキなどが多発し、国民の不満はやがて革命へとつながった。1918年3月と11月に起こったロシア革命 によりソヴィエトが、終戦直前に起こったドイツ革命により1919年にヴァイマル共和国が誕生した。
この大戦は、非ヨーロッパ諸地域の人々の自立への自覚と期待を高めることにつながった。とくに、アジアでは独立運動や民族運動などが盛んになった。
ロシア二月(別称、三月)革命(ロシア歴2月)で起こった女性参政権を求める運動
教科書には載っていない
第一次世界大戦の逸話
ここでは第一次世界大戦をさらに詳しく知るために、英国・ドイツ・フランスにまつわる10のトピックスを軍事・芸術・エピソードの3つのカテゴリーに分けて紹介する。
軍事
フランス仏北東部には人が住めない地域
「ゾーン・ルージュ」が存在する
第一次世界大戦中、300日にも及ぶ最長の紛争となったフランス軍とドイツ軍による「ヴェルダンの戦い」。その昔、農耕地として小さな村が点在していたフランス北東部ムーズ川周辺の地域で勃発したこの戦いがきっかけとなり、戦後100年が経過した現在も人々が住むことができない危険地域「ゾーン・ルージュ(レッド・ゾーン)」が生まれた。
このゾーン・ルージュには、1914年に第一次世界大戦が始まり、ヴェルダンの戦いが終わるまでの間、フランス軍とドイツ軍が大量に弾薬や銃などの兵器をこの地に投入したことで環境が破壊され、今も約170km²が立ち入り禁止区域として制限されている。
戦争で使用したであろう兵器の残骸が現在も残る
当時、フランス政府がこの地域の対処を検討したものの、弾薬や銃弾をすべて取り除くことは難しいと判断し、1919年に危険地域「ゾーン・ルージュ」を指定。半強制的に住人を退去させることが決定したのだった。
現在もこの地域には戦闘の爪痕が残り、不発弾などが埋まっている。ゾーン・ルージュの取材に赴くジャーナリストや、この地域近郊を訪れる観光客、制限区間外で暮らす近隣の人々は常に危険にさらされている状況だ。
参考資料:National Geographic「France’s Zone Rouge is a lingering reminder of World War I」
ドイツ人々の夢と希望をのせた「ツェッペリン飛行船」が軍事用に使われていた
戦争に利用されていたツェッペリン飛行船
元ドイツの陸軍将校であったフェルナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した硬式飛行船「ツェッペリン」。1900年に最初の飛行を成功させた後、第一次世界大戦が始まるまで1500回以上の飛行で約3万5000人を乗せた。しかし、戦時中には英国に対する爆撃用としてツェッペリンが利用されることになる。1914~1918年の間にドイツの陸軍と海軍に貢献した123機の飛行船のうち、101機がツェッペリン社製だったと言われる。戦後は再び旅客船として復帰するが、1930年代に相次いで事故が発生したため製造が中止された。ちなみに、ツェッペリン伯爵は第一次世界大戦の終戦を見届けることなく1917年に死去した。
参考資料:Die Welt「GESCHICHTE ERSTER WELTKRIEG Ein Zeppelin eröffnete den Luftkrieg gegen London」、BBC「world war one」、History「Zeppelin führt Luftschiff vor」
英国前線で任務に就くため大量の動物たちが動員された
船で前線に送られるロバ
第一次世界大戦では1600万頭以上の動物が動員され、さまざまな任務を担った。自動車やトラックが発明されたばかりだった大戦初期には、部隊の移動に使うための馬を前線に大量に投入。その数は800万頭とも言われ、地方の農村ばかりか同盟国や植民地からも供出が行われたそう。また、ロバやラクダも武器・食糧・医薬品の輸送に使われ、犬と鳩は伝令に、猫は塹壕のネズミ退治に、カナリアは生きた毒ガス探知機として、人間のためにそれぞれ命の危険を冒した。さらに動物たちはときとして兵士たちを慰めるマスコットとしても任務を果たしたという。
参考資料:IWM「15 ANIMALS THAT WENT TO WAR」
芸術
ドイツ詩人ヘルマン・ヘッセが新聞に戦争批判を寄稿していた
『車輪の下』や『少年の日の思い出』などで知られるドイツ南部ヴュルテンベルク王国(現バーデン=ヴュルテンベルク州)カルフ出身の作家、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)。20世紀を代表するドイツ文学の雄である彼の著者は60以上の言語に翻訳され、現在でも世代を越えて親しまれている。
激動の時代に生きたヘルマン・ヘッセは、1912年にスイスのベルンに移住した後、第一次世界大戦中にはドイツ人の戦争捕虜を救出する活動を行っていた。彼は自身をあくまでも詩人であるとし、政治的な職務に関する申し出があった際は常に拒絶していたと言われる。第一次世界大戦中には、2ダースにもなる量の戦争を批判する文章をドイツ語の新聞に発表し続けた。1917年、とある手紙に政治的な職務に対して積極的になれない理由を述べている記述が残っている。「私は政治的な事柄には全然向いていないのです。さもなければ、私はとうに革命家になっていたでしょう」。
激動の時代を生きたヘルマン・ヘッセは常に平和を祈った
第一次世界大戦後に出版された『デーミアン』、『東方への旅』により知名度は上がり、そして第二次世界大戦後の1946年、晩年に書き上げた作品『ガラス玉遊戯』でノーベル賞を受賞した。
また、ヘルマン・ヘッセは早い段階からナチズムを批判していたとされており、常に平和を訴え、人間性について問う詩人であったことが分かる。
参考資料:ヘルマン・ヘッセ財団 文学、生涯の道のり、政治についての記事より
フランス作曲家モーリス・ラヴェルは戦死した友人のために作曲した
戦死した友人に向けた曲を作ったモーリス・ラヴェル(写真奥)
バレエ音楽「ボレロ」などで知られる、フランスを代表する近代音楽の作曲家、モーリス・ラヴェル。第一次世界大戦中は自身も従軍し、多くの友人を亡くした。1914~1917年にかけて作られたピアノ曲「クープランの墓(Le Tombeau)」は、戦争で命を落とした友人に捧げられた6曲からなる。戦禍とは裏腹に、この曲の明るい響きはラヴェルの反戦の意思が込められているのかもしれない。また、戦後10年以上経ってから、第一次世界大戦で右腕を失ったウィーンのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインのために「左手のためのピアノ協奏曲(Concerto pour la main gauche)」も作曲している。
参考資料:音楽之友社「ラヴェル ピアノ曲集Ⅶ」「ラヴェル ピアノ協奏曲 ト長調/左手のためのピアノ協奏曲」内容紹介より
英国画家ノーマン・ウィルキンソンが戦艦の塗装「ダズル迷彩」を発案
通常、迷彩(カモフラージュ)柄は、自分の姿を周囲の環境に溶け込ませ、目立たなくさせるためのものだが、海軍兵でもあった海洋画家のノーマン・ウィルキンソン(1878~1971年)が考案した迷彩柄は、激しい幾何学模様で目立つデザインだった。ドイツの潜水艦U ボートに次々と沈められていく英艦船に心を痛めたウィルキンソンは、そもそも海上で戦艦を「目立たなくさせる」のは不可能だとし、代わりに戦艦の種類や速度、そして進行方向を見誤らせるような、敵を惑わす(ダズル)デザインを考案するに至った。効果のほどはともかく、兵士には好まれ戦意高揚に役立ったという。
参考資料:IWM「5 FACTS ABOUT CAMOUFLAGE IN THE FIRST WORLD WAR」
派手なカモフラージュの模様で敵を欺く戦艦(絵画はウィルキンソン作)
エピソード
英国&ドイツ英独兵士が祝った一度きりのクリスマス休戦
犠牲者1500万人とも推定される第一次世界大戦は、過酷な戦いは約4年という長期にわたった。1914年7月の開戦当初は誰もが「クリスマスまでには終わっているだろう」と想定したが、戦況は混迷し各地で泥沼の持久戦が続く。西部戦線でにらみ合う英独両軍の兵士たちは、当時の最新兵器である機関銃の弾幕から身を守るため、それぞれの塹壕で冬を迎えた。
敵・味方関係なくクリスマスを祝った英独の兵士たち
1914年12月24日、いつものように塹壕で夜を明かそうとしていた英兵たちは、ドイツ語で歌われる「きよしこの夜」を耳にする。その歌声は、遠く離れた暗闇の、ドイツ軍の塹壕から聞こえていた。英兵たちが続けて英語で同曲を歌うと、ドイツ軍から歓声が上がった。戦争に疲れきっていた両軍の兵士は、武器を置き、塹壕から顔を出す。そしてお互いの距離を縮め、ついには一時的な非公式の休戦が実現したのだ。兵士たちは無人地帯に戦友の遺体を共同で埋葬し、たばこの火を交わし、さらにパンや缶詰めなどの貴重な食料の交換まで始めた。英独の兵士によってサッカーの試合が行われたという話もある。この休戦は、西部戦線の各地に広がり、一部では数日間にわたって非公式に休戦したとされる。
参考資料:WM「THE REAL STORY OF THE CHRISTMAS TRUCE」、IWM「VOICES OF THE FIRST WORLD WAR: THE CHRISTMAS TRUCE」、BBC「What really happened in the Christmas truce of 1914?」
英国&ドイツ独ヴィルヘルム2世と英ジョージ5世はいとこ同士
左)独ヴィルヘルム2世 右)英ジョージ5世(写真左)
エリザベス女王の祖父ジョージ5世(1865~1936年)と、ドイツ最後の皇帝、ヴィルヘルム2世(1859~1941年)はいとこ同士。2人ともヴィクトリア女王の孫に当たる。ヴィクトリア女王の夫アルバートがドイツ人であることから、2人は英独の血を同じように受け継いでおり、容姿も似通っていた。そんな2人が王座に就いていたときに第一次世界大戦が勃発する。親戚ながら敵同士になってしまったジョージとヴィルヘルム。ジョージは自国民の反独感情を考慮し、祖父アルバートから継いだ家名ザクセン=コーブルク=ゴータを捨て、当時の王室の住まいにちなんだウィンザー家に改称した。一方、ヴィルヘルムはドイツ革命(p11参照)がもとでオランダに亡命し、ドイツ帝国は共和制に移行した。
参考資料:The Telegraph「How German is the Queen?」、Brookings「The Family Relationships that Couldn’t Stop World War I」
フランス戦う兵士にワインを振る舞ったフランス軍
第一次世界大戦中、フランス軍から配給されるワインが重要な役目を果たしていたという。戦争が長引くなか、1914年には1人当たり1日1/4ℓ、1916年には1/2ℓ、1918年には3/4~1ℓと、年々ワインの消費量が増加。当時のフランスでは、ワインは特に高級なものではなく、品質を楽しむという習慣もなかったが、ワインを嗜む文化は根付いていた。祖国を思い出したり、仲間の死を乗り越えたり、家族に会えない悲しみを忘れるためにワインを飲んでいたと考えられている。終戦後もワインを飲み続けた元兵士たちによって、フランスではさらにワインがポピュラーとなり、ビールやシードルが主流だった地域にもワインが広まっていった。
参考資料:France24「Grande Guerre : quand le pinard était une arme pour la France」、Le Point 「Le vin en 14-18, indispensable compagnon du Poilu」、Larvf「Le vin dans l'Histoire:le vin de la Grande guerre」
英国英国の人々の胸を彩る追悼の赤いポピー
英国では、毎年10月ごろから、紙でできた赤い花の飾りを服に付けた人々を見かけるようになる。一般に「ポピー」と呼ばれるこの花は、第一次世界大戦終了直後の欧州大陸で、荒廃した戦場を真っ赤に埋めるように咲いていたという。以降、この花は命を落とした兵士たちが払った犠牲を象徴するものとなった。人々は第一次世界大戦はもちろん、すべての戦いに倒れた兵士への追悼の意を込めポピーを胸に飾る。終戦から100年を記念する今年は、英国各地でポピーをモチーフにしたアート・イベントも開催されている。