特集


海外進出成功の鍵は、異文化コミュニケーションにあり!
ドイツ人が考える
理想の上司、快適な職場環境

快適な職場環境グローバル化が進み、日本企業のドイツ進出も増える中、現地ドイツ人スタッフをドイツ市場攻略のための戦力として採用している企業は多い。しかし、日本から一歩外に出てみると、日本の企業文化、社会常識が通用せず、現地のスタッフの言動や行動には驚かされるばかり……、そうお嘆きのビジネスーパーソンの皆様、その戸惑いはきっと日本人上司と仕事をする現地スタッフにとっても同じこと。今回は、アンケート調査を通してドイツ人の仕事観と、日本人上司に対する満足度を探ってみよう。日独のギャップを受け入れ、お互いに歩み寄って信頼関係を築くことが、ドイツ進出成功の鍵となるはず!(編集部:高橋 萌)

数字から見る!働くドイツ人の素顔

  • 1人当たりの年間労働時間
    1393時間

    (日本は1745時間)
    資料: OECD Database
  • 長期休暇を取る割合
    29.0%
    (日本11%)
    資料: Das Online-Reiseportal Expedia
  • ワークライフバランスに
    対する満足度
    69.6%
  • 平均労働コスト
    31.50
    ユーロ/時
  • 所得満足度
    56.4%
  • 同僚との関係に対する満足度
    81.4%
  • 出勤に要する時間に
    対する満足度
    78.0%
  • 出張時に贅沢しない
    36.0%
    (日本は53.0%)
  • 単身世帯の平均年収
    3万1981ユーロ
  • 上司との関係の満足度
    71.0%
  • 平均休暇取得率
    93.0%
    (28日/30日)
  • ドイツの休暇取得率は欧州では
    最低レベル
    1位はフランスの100%(30日)

日本人上司と働くドイツ人部下に聞きました!

調査対象 日本人上司の下で働くドイツ人16人にご協力いただきました。
調査期間 2015年5月15日~26日
日本人上司の下で
働いた期間
3年未満(5人)、~5年(4人)、~10年(4人)、~20年(3人)

Q1 職場での使用言語は?
(複数回答可)

職場での使用言語は?

POINT
社内で複数言語を使用している
職場が多く、英語よりもドイツ語の
使用頻度が高かった。
日本人上司に対しては
日本語で話すという、
日本語上級者も半数以上

Q2 日本人上司と
良い関係を築いていますか?

日本人上司と良い関係を築いていますか?

POINT
「日本人上司はいつも前向きな
言葉を掛けてくれる」という声も多く、
関係構築を難しいと考えている人は
いなかった


Q3 日本人上司を
信頼していますか?

日本人上司を信頼していますか?

POINT
現地スタッフからの信頼も厚く、
日本人上司との関係はおおむね良好!

Q4 あなたにとっての理想の上司の条件は?
(3つまで複数回答可)

あなたにとっての理想の上司の条件は?

POINT
ドイツ人にとっての理想の上司は、専門分野で秀でた能力と明確な目標を持ち、決定力とリーダーシップを兼ね備えた人!

Q5 あなたにとって理想とかけ離れた上司とは?
(3つまで複数回答可)

あなたにとって理想とかけ離れた上司とは?

POINT
ドイツ人にとって悪夢のような上司は、その日の気分で態度が変わり、威圧的で、部下へのリスペクトや配慮の欠けた叱り方をする人!

Q6 あなたが就職先を選ぶ際に
重視することは?

あなたが就職先を選ぶ際に重視することは?

POINT
ドイツ人が重要視(とても重要+重要)する要素は、仕事内容、仕事上の権限、そして同僚との関係

Q7 日本とドイツ、
上司のあり方に違いはある?

  • 日本人上司はとても礼儀正しいが、ドイツ人上司と比べ てよそよそしい印象を受けることも
  • 日本人上司は、仕事の質より量を重視することが多い
  • ドイツ人上司の方が直接的な物言いをするが、そのため上司と部下の間でもより砕けた関係を築くことが多い
  • ドイツ人上司は機嫌の悪さを表に出すことがあるが、日本人上司はあまり負の感情を表に出さない
  • 休暇に対する考え方。欧州では有給をすべて消化することが当然のことだと考えられているが、日本人は、親戚に不幸があったときや体調が悪いときにのみ有給を使う
  • 皆勤賞が褒められる文化はドイツにはない。風邪を引いたら休むべきで、無理して出席することは評価に値しない
  • 信頼と協力体制を築くことができれば国籍は関係ない

Q8 日本人上司、
ここがイイネ!

  • フェアで有能!
  • 良い教育を受けているため、知識もアイデアも豊富
  • ドイツ滞在歴の長い日本人上司は、あらゆる問題に対する対処法を知っていた。日本での経験がドイツで活きることもあり、とても興味深い
  • 堅実でまじめ、有言実行
  • 建設的な批評、「誰にでもミスはある」とフォローしてくれる
  • ドイツという国と国民をよく理解しているし、理解しようとしている
  • 忍耐強さ

Q9 日本人上司、
ここがイマイチ

  • 日本人は働き過ぎていて、そのため集中力に欠けていることがあるように思う
  • 上司の決定は受け入れるべきもの、という風潮があるためか、日本人上司とディスカッションするのは難しい
  • 言葉の問題。コミュニケーションの中で誤解が生じることがある
  • ルール、原則に対して柔軟性に欠ける
  • 組織の上下関係に厳し過ぎる
  • 欧州文化を理解していないこと
  • 決断が遅い。または、非合理的な決定をしていると思うことがある

Q10 日本人上司に
リクエストは?

  • 外国人スタッフが新しく入社したら、日本流に慣れるための時間を作ってほしい。日本社会では何を大切にしていて、何がタブーか。もちろん、本などで事前に学べることもあるが、実際に経験するのとでは全然違う
  • 明確な目標と、そのためのプランをはっきりと伝えてほしい
  • プロジェクト成功のため、現地のメンタリティーや文化を受け入れる必要があると思う
  • Ja. URLAUB, URLAUB, URLAUB! (はい。休暇、休暇、休暇!)

まとめ 「ドイツ人部下とのギャップ解消法」

1. 指示を出すときは明確な言葉で!

日本人同士なら伝わるそのニュアンス、ドイツ人部下にも意図した通りに伝わっているだろうか?アンケートの結果、ドイツ人部下は、より明確な指示や目標を求めていることが分 かる。「後はよろしく」など曖昧な言葉ではなく、何をどうするべきかという具体的な行動に落とし込んだ指示を徹底することが大切。

2. 上下関係を重視するより、合理性で理論武装!

ドイツ人が日本企業の中で感じる違和感が、社内階級制とも いうべき強固な上下関係の存在。一方、ドイツでは権限や責任範囲の違いはあっても、部下が意見を差し控えることはなく、立場的にはよりフラットな関係。日本的な上意下達が通じず、自己主張ばかりが目に付くことも。業務の目的や決定に至った経緯、理由などを説明して納得させることができれば、部下のモチベーションももっと上がるはず!

3. 働くことと休むこと、どちらも義務と心得る

ここは、「大真面目に休む国ドイツ」※。この国の労働者は、 休暇のために働いていると言っても過言ではなく、気持ち良く休暇に送り出すことも上司の仕事のうちなのかもしれない。また、「日本人は勤務時間を気にしていないように感じる」、との声も。成果を上げるために無休で働く日本人の仕事に対する情熱を、定められた労働時間内のパフォーマンスに価値を置くドイツ人は不思議そうに見ている。※『大真面目に休む国ドイツ (平凡社新書) 』、福田直子(著)

4. お互いの国の社会・文化を知る努力を続ける

歴史も言葉も、常識さえも違う環境で育ってきた部下と円滑 に仕事をしたい、と日本人上司が考えるのと同じように、ド イツ人部下も上司と良い関係を築きたいと思っている。ドイツでも尊敬される日本人上司は、ドイツの文化や慣例について知る努力を続け、その上で日本での経験や知識を発揮している人なのだ。

最終更新 Montag, 08 Juni 2015 11:39
 

ドイツで実力を認められ、監督にまで「出世」した男
ハンドボール選手
植松伸之介さん インタビュー

仕事を「試合」に、成功を「勝利」に例えるなら、スポーツ選手もまた仕事のプロフェッショナルである。ドイツでの挑戦、目標達成のために、どのようなことを工夫してきたのか。ドイツのハンドボール界で15年の経験を持つ植松伸之介さんにお話を伺った。

植松伸之介

植松伸之介
(うえまつ・しんのすけ)

1975年8月20日生まれ。神奈川県出身のハンドボール選手・監督。ポジションは左サイド。身長181cm。横浜商工高校、順天堂大学を卒業。98年神奈川国体、99年大阪国体に神奈川県代表メンバーとして出場。2000年に渡独し、ブンデスリーガ2部コンコルディア・デーリッチのセカンドチームに入団。後にファーストチームに昇格してプロ契約を結び、04/05シーズンにはチームの1部昇格に貢献。06/07シーズンに2部のEHVアウエに移籍。13年夏にはデーリッチに戻り、14/15シーズンは監督としてオファーを受けてツヴィッカウのZHCグルーベンランペへ移籍。

世界最高峰のリーグに数えられるドイツのハンドボール・ブンデスリーガ。プロリーグのない日本で、保育士として働きながらハンドボールを続けてきた植松さんが、本場の雰囲気を感じながらハンドボールと向き合ってみたいと、単身ドイツに渡ってきたのは2000年のこと。ブンデスリーガ2部のコンコルディア・デーリッチのセカンドチームに入団した当初は無給、無名のハンドボール選手だった日本人がチャンスを掴み、ブンデスリーガ1部で活躍する選手に上り詰めるまでには、何度も言葉と文化の壁を乗り越えてきた。

日本でやってきたことがドイツで武器に

ゼロから始まったドイツ語には苦戦したが、練習以外にも外食や夜遊びに繰り出すチームメイトについて行った。日本人が珍しい地域、行く先々での自分に対する視線に当初は違和感もあったが、チームメイトや町の人との距離も自分から縮める姿勢で、地域に受け入れられていった。ドイツでの成功の理由を「欧州人と比べると小柄な日本人の体格、日本で培ったプレースタイル、日本人選手として自分が持っていたものが、ドイツでは持ち味となり武器になった」と話す。「日本でなかなか活躍できない選手でも、海外で自分の力を発揮できる可能性は高い」と、日本にいる若手ハンドボール選手を勇気付けることも忘れない。

地域を理解し、受け入れる姿勢が大切

ドイツで15年間、何人もの外国人選手の挑戦を見てきて、「仕事にだけ徹していれば、ドイツで成果を出せると言うわけでもない」とも、感じている。スポーツが文化として生活に根ざし、ハンドボールも人気スポーツの1つであるドイツでは、サポーターとの関係も無視できない。そして、ときに温かく、ときに厳しく選手に接するサポーターとの関係を理解し、楽しむことで、声援がより大きな力に変わる。真にチームの構成員として戦力を発揮するには、地域の文化をそのまま受け入れる覚悟と、ある種の「こだわりのなさ」が重要な役割を果たすと実感している。

続く挑戦

今季、40代を目前にした植松さんに舞い込んだのは、「監督」としてのオファー。日本人がドイツで監督を務めるのは、もちろん初めてのこと。5部から4部に昇格したばかりのチームでは、「想像以上に、前提条件の共有ができていなかった。何でも言葉にしないと伝わらない」と、気を配った。降格圏に順位を落としたところで解任されたが、引き続き選手としてチームに残ってほしいという異例の再オファー。植松さんへの信頼は揺るがず、その後は選手としてチームを支え、4部残留に貢献! 来期も引き続き選手として活躍が期待されている。

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 15:50
 

ドイツのポイントカード ドイツのポイントカード事情
15周年を迎えた
PAYBACKを徹底解剖

日本と比較すると、遅れを取っているように感じていたドイツのポイントカード文化。お財布の中がすっきりして、これもまた良し……なんて思っていたが、年々カードの枚数は増える一方だ。Big Data時代の到来とともに存在感を増し、今ドイツで一番人気のポイントカードに成長したのがPAYBACK。

今特集では、今年15周年を迎えたPAYBACKの人気の秘密と、一見デメリットがなさそうなポイントカードの仕組みに注目する。タダより高いものはない?! ポイントカード・ビジネスの仕組みを知った上でより良く使いこなそう。 (編集部:高橋 萌)

財布の中のポイントカードをお見せします!

編集部 K
PAYBACK歴:約12年
現在のポイント数:約1万ポイント

「財布に入っている唯一のポイントカード。PAYBACKカードは利用歴12年で、貯まったポイントの総計は3万ポイントくらい。VISAカード付きも作りました!」

編集部 T
PAYBACK歴:約2年
現在のポイント数:約5000ポイント

「1枚のカードにポイントが集中するのがPAYBACKの魅力。何枚ものカードを使いこなせない、がさつな自分には向いていると思う」

編集部 Y
PAYBACK歴:約3カ月
現在のポイント数:148ポイント

「日本の習慣が抜けないのか、ポイントカードがあると聞くとついもらってしまう。ドイツのポイントカードの良いところは有効期限がないこと。また、こちらから言わないとくれない場合もある」

4人で会社をスタートした PAYBACKとは?

PAYBACKは、アメリカン・エクスプレス・グループ傘下にあるロイヤルティー・パートナー社が2000年に開始したサービス。生みの親はアレクサンダー・リットヴェーガーで、「ロード・オブ・ザ・ディスカウント・ポイント(Herr der Rabattpunkte)」の異名を持つ。彼が欧州最大の経営戦略コンサルティング会社ローランド・ベルガーに勤めていた頃に、航空大手ルフトハンザ社のマイレージプログラム「Miles & More」の立ち上げに携わったことからヒントを得て、PAYBACKのアイデアが形になった。このビジネス・プランに魅了されたルフトハンザ社やローランド・ベルガー社などからの勧めと、家電量販店や百貨店を所有するメトロ社からの出資を得て、1998年、ロイヤルティー・パートナー社は設立されたのだ。

設立当初の従業員は、社長であるリットヴェーガーを含め、たったの4人。それが15年で600人となり、ドイツのほか、ポーランド(2009)、インド(2011)、メキシコ(2012)、イタリア(2014)にも進出して、現在はドイツ国内に2600万人、全世界で7500万人のカード利用者を抱えるまでに成長した。

経済リサーチ会社CRF研究所が認定する優良企業アワードを受賞
経済リサーチ会社CRF研究所が認定する優良企業アワードを受賞

現在約620社
魅力的なパートナー企業を次々に獲得!

1998年に会社を設立したリットヴェーガーの最初のミッションは、魅力的な企業と手を組むこと。PAYBACKカードがあらゆる消費者層に普及し、毎日の買い物で使われるようにならなければ、サービスは成り立たない。一番最初にパートナー企業に名を連ねたのが、スーパーマーケットreal,-、ドラッグストアdm、デパートGaleria Kaufhof、眼鏡販売大手Apollo-Optikの4社。ドイツ全土に支店を持つこれら小売大手の信頼感を追い風に、2000年、PAYBACKはサービスを本格的にスタートさせた。その後、キッチン用品の老舗WMF、オンラインショップebayやitunes、スーパーマーケットREWEなど、ドイツに暮らす人なら誰もが知る大企業がこぞってPAYBACKに加盟し、現在のパートナー企業数は620社以上にまで膨れ上がっている。その結果、1日のPAYBACK利用数は300万回、つまり1秒に36回のペースでカードがレジに通されていると同社は発表している(2014年統計)。

パートナー企業

PAYBACKポイントとは?
ポイントカード・ビジネスの仕組み

„Haben Sie eine PAYBACK-Karte?“(PAYBACKカードをお持ちですか?)という言葉を、もう耳にたこができるほど聞いたとうんざり顔の人もいれば、ポイント集めに熱中する人もいる。そもそもは、お得意さんを大事にするという発想から、紙のカードにスタンプが貯まったらプレゼントを提供するというアナログ式と根底にある思想は同じ。しかし、より広範囲に分散する不特定多数の顧客にアピールできるという点では企業側にメリットがある。リットヴェーガーがルフトハンザでノウハウを得たように、航空業界のマイレージプログラムから端を発した「ロイヤルティー・マーケティング」と呼ばれるこの手法は、ドイツのPAYBACK、日本のTカードなど、今や世界中で成功を収めている。

顧客の利用状況に応じてポイントを発行し、それを蓄積。顧客は好きなタイミングで商品券や希望の商品とポイントを交換できるシステム。この、買い物をすればするほどポイントが貯まるというシステムは、消費者からすると、お店に行っただけでおまけをもらった気分になり、大きなメリットを感じる。筆者の消費行動にも現れているが、例えばドラッグストアROSSMANNよりはdm、スーパーマーケットならKaisersよりREWEと、同じ買い物をするならPAYBACKに加盟している店につい足が向かってしまう。

嬉しい特典と引き換えに
消費者が提供している情報とは?

情報PAYBACKにパートナー企業として加盟するメリットは、顧客の囲い込みや満足度の向上のみにとどまらない。大規模なPAYBACKシステムが収集する情報にこそ、本当の価値があるのだ。具体的に、PAYBACKを利用する際に、どのような情報が店舗からPAYBACKに送られるかを見てみよう。

カード所有者が何をどれだけ購入したのか、その内訳についてはカードを利用した店舗のみ知ることができる。そして、合計金額の内訳について、加盟店舗はPAYBACKと情報交換をしないことになっており、もちろん、PAYBACKは蓄積した情報を第三者に売り渡さないとも、規約に明記してある。どこで・いつ・いくら分の買い物をしたかという範囲を超え、プライバシーの侵害にならないよう、ドイツの消費者センターは常に目を光らせている。PAYBACKの規約の中には、消費者団体の訴えにより追記されたものもある。

こうしてPAYBACKは、顧客情報と購買情報とを結び付け、消費者の行動を分析し、企業の販売促進や広告戦略、商品開発に協力している。つまり、我々消費者は、PAYBACKポイントと引き換えに個人情報を売り渡していることになる。その情報を、それくらいなら問題ないと納得できるかどうかが、PAYBACKサービスを利用する際の判断基準となる。

申し込みから利用方法
ポイントを貯めるコツまで

1

PAYBACKのメリットとデメリットを踏まえ、申し込む決意をしたら、下記の方法でカードを注文する。

● パートナーに加盟している企業の店舗、またはオンラインショップから申し込む
● PAYBACKのカード注文サイト www.payback.de/pb/id/21334/ から申し込む

カードは下記の3種類から選べる

PAYBACK KartePAYBACK Karte

パートナー企業での購入金額に応じてポイントが貯まる。
1ユーロ=1ポイント、2ユーロ=1ポイントなど、パートナー企業がそれぞれポイントの加算条件を決めている
※キーホルダー型のPAYBACK Mini-Karteも同条件


PAYBACK Visa KartePAYBACK Visa Karte
  • パートナー企業での購入金額に応じてポイントが貯まる
  • カードでの支払いの際、4ユーロにつき1ポイントが貯まる
  • お気に入りのパートナー企業を1つ選べ、ポイントが2倍に
  • 初年度の年会費無料(翌年から年25ユーロ)など

PAYBACK American Express® KartePAYBACK American Express® Karte
  • パートナー企業での購入金額に応じてポイントが貯まる
  • カードでの支払いの際、2ユーロにつき1ポイントが貯まる
  • 年会費無料
  • ショッピング保険のカバーあり、など

2

パートナー加盟店で買い物をし、レジでカードを提示。ポイントが貯まる。

※Visa、American Expressカードの場合は加盟店以外の買い物も有効
3

貯まったポイントを使う。使い方はいろいろ。

● PAYBACK公式ウェブサイト www.payback.de の「Punkte Einlösen」をクリック。オンラインカタログから商品を選び、希望の商品を注文する

PAYBACK公式ウェブサイト

● 200ポイント以上貯まったら、100ポイント=1ユーロの割引券に換金
※対応店舗: real,-、GALERIA Kaufhof、dm、REWE、Alnatura

店舗で割引券に換金

● ルフトハンザ航空のMiles & Moreで、1ポイント=1マイルに変換

ボランティア団体などへ寄付をする
www.payback.de/pb/bpc/start/id/109112/

クーポンを利用してポイントを倍に!

購入金額に対するポイントが数倍になったり、対象商品を購入することでポイントが贈呈されるクーポンを利用すると、ポイントが効率良く貯まる。自宅に送られてくるダイレクト・メールに同封された券、またはオンライン上でeCouponを有効にして利用しよう。

ドイツで一番人気のPAYBACKカード

調査会社エムニドの発表によると、ドイツ在住者の財布に入っているカードの種類で多いのは、1位が銀行のECカード、2位がクレジットカード、続く3位がPAYBACKカードだった。ポイントカードの満足度ランキングでも、総合1位となっている。それほど生活の中に浸透し、信頼を得ているサービスと言える。

PAYBACKの魅力は何だろう。加盟店舗数の多さ、ポイントと交換できる魅力的な商品、クーポンを使ってゲーム感覚でどんどんポイントを増やしていく快感……。実体を持たないポイントが価値を持ち、実像の見えにくかった消費者の姿が情報の蓄積を通して浮かび上がってくる。膨大なデータを収集し続けるPAYBACKは、我々の生活をより豊かなものにしてくれるのか、はたまた我々は情報に踊らされてしまうのか。Big Data時代の個人情報に価値を見出し、ビジネスの資源とするPAYBACKをはじめとするポイントカード・ビジネスの行く末はいかに。便利なだけで終わらない、この種のビジネスとの付き合い方は、消費者の課題でもある。

ドイツの財布の中のカード


ドイツのポイントカード・顧客満足度ランキング

家計の出費が27%アップ!
1位 Payback Karte 75.1
2位 Adler Kundenkarte 74.9
3位 Esprit Friends Card 74.6
4位 DeutschlandCard 73.4
5位 Tchibo Privatcard 72.7
6位 Ikea Family Card 71.4
7位 Karstadt Kundenkarte 71.0
8位 Miles & More Karte 70.1
9位 Shell ClubSmart Karte 68.8
その他 73.2
最終更新 Freitag, 15 Mai 2015 09:46
 

第2次世界大戦終結70周年特集 - フォルカー・クレップさんインタビュー「1945年5月8日に生まれて 私とドイツ、そして欧州」

フォルカー・クレップ Volker Klepp 「私の周りに1945年5月8日生まれの人がいるわよ!」。5月8日、すなわちドイツの終戦記念日から70周年という節目が近づく中、インタビュー相手を探していた筆者の耳に、生粋のベルリンっ子である知人から予期せぬ言葉が飛び込んできた。知人がその場ですぐに取り次いでくれたのは、長年ドイツの政治の現場に携わったフォルカー・クレップさん。まさに戦後ドイツと共に人生を歩んできたクレップさんの目に、過去と現在のドイツ、そして理想と現実の狭間に揺れる欧州は、どのように映っているのだろう。シャルロッテンブルク区郊外の自宅での2回にわたるインタビューから、抜粋してお届けする。(取材・文:中村真人)

フォルカー・クレップ Volker Klepp

1945年5月8日、現ニーダーザクセン州のツェレ近郊で生まれる。シュトゥットガルト、テュー ビンゲン、インスブルックの各大学で経済学を学び、博士号を取得。西ドイツの連邦経済省、FDP(自由民主党)の統一会派での職歴を経て、84〜90年までヘッセン州ハッタースハイム市の副市長。92〜2005年まで連邦移民・難民庁の部局長を務めた。ベルリン在住。

母によると、私が生まれたのは5月8日の朝7時半だったそうです。母は逃亡の最中にあり、現在のニーダーザクセン州ツェレ近郊の村、ガーセンの母子寮で私を産んだのです。その村の農家が私たちを受け入れてくれ、2年半をそこで過ごしました。母は畑で働きながら、食べ物を分けてもらいました。父はオーストリアで米国の捕虜となり、家族と再会を果たすのは1947年になってからのことです。

1945年5月8日、陸・海・空軍の代表が降伏文書に調印
1945年5月8日、陸・海・空軍の代表が降伏文書に調印

ベルリン郊外のカールスホルストに置かれた赤軍司令部で、ドイツとソビエト連邦の代表が降伏文書に調印したのは、その日の深夜のこと。悪夢のような第2次世界大戦が、少なくとも欧州においては終わった瞬間だった。そもそも、クレップさんの両親はそれまでどこに住み、どこで出会ったのだろうか。それを問うと、欧州の歴史を体現するような複雑な答えが返ってきた。

私の両親は2人とも「外国に住むドイツ人」(民族ドイツ人とも言う)として生まれました。母は現在のエストニアの首都タリン(ドイツ名レヴァル)出身で、ハンザ同盟時代の13世紀から同地に 住むバルト・ドイツ人の末裔です。エストニアが1918年に独立した後も、ドイツ人は上層階級に属し、母はアビトゥア(高等教育の卒業試験)までドイツ語で教育を受けました。第2次世界大戦後、バルト・ドイツ人はポーランド人を追い出して占領 したいわゆるヴァルテガウ(ヴァルテラント国家大管区)に入植するか、ドイツ帝国に移り住むかの選択肢を与えられたのですが、母はダンツィヒ(現 グダニスク)の近くのドイツ国防軍で民間職員として働いていたので、そこにとどまりました。

父は現在のセルビアの都市ノヴィ・サドの出身です。18世紀、マリア・テレジアの時代に父の先祖はハプスブルク帝国からトルコ人を追い出す形で入植しました。オーストリア、ハンガリー、ユー ゴスラビアの間にある民族的に非常に複雑な地域で、アビトゥアはハンガリー語で受けました。18歳になるとプリシュティナ(現コソボの首都)でユーゴスラビア軍に徴兵されましたが、ドイツ系ということで差別を受けていたようです。そんな折、ユーゴにあったドイツ人の文化同盟を通して、ナチス・ドイツの武装親衛隊(Waffen-SS)に入らないかという誘いを受けたのです。自分の不遇を鑑みて、ならば領土を拡張したドイツのためになりたいと考えたのでしょう。訓練を受けた後に戦線に送られました。1944年8月、母の住んでいたダンツィヒの近くで出会った両親は、すぐに結婚しました。

しかし、一緒に暮らすことなく、父はすぐに戦争に戻りました。第9SS装甲師団の一員として欧州中を駆け回り、大戦末期の激戦バルジの戦いも経験します。一方、ダンツィヒから西に逃れて来た母は、逃亡の最中に私を産むこととなったのです。

フォルカー・クレップ氏(当時5歳)と両親
フォルカー・クレップ氏(当時5歳)と両親

戦後、父が拘留から戻って来て、一家はシュトゥットガルト近郊のフェルバッハに移り住んだ。思春期を迎えたクレップさんは、両親とよく政治について議論したという。彼の後の職業にもなる政治への関心は、10代前半で育まれた。

「戦時中、どこで何をしていたのか?」と私は両親に普通に尋ねることができました。これは当時、ほかの家庭においては当たり前のことではなかった。両親は外国生まれのドイツ人だったので、帝国領内のドイツ人とは違い、外からの視点を持っていたのです。反ユダヤ主義思想とも無縁でしたし、父が武装親衛隊に入ったのも、ナチスのイデオロギーに惹かれてではなく、単純にドイツが再び大きくなることが魅力的だったのでしょう。

1950年代後半、ナチス時代の犯罪と正面から向かい合う風潮は、西ドイツ社会にまだ生まれていなかった。ヒトラーに熱狂し、多かれ少なかれ国家犯罪の輪に組み込まれていった人々の多くは、心にわだかまりを抱えながらも、職場に復帰し、日々を生きていたのである。そして、16歳のとき、クレップさんにとってある決定的な出来事が起きた。

ある歴史の授業中、私が先生に向かって「ドイツは戦争に負けて良かった」と言ったら、彼は猛烈に怒りました。その少し後、学校に作家のマルガレーテ・ブーバー=ノイマンがやって来て、自身の体験記の朗読をしました。ヒトラーとスターリン両方の下で収容所の抑留経験を持つ女性です。朗読の後で先生が、「ドイツが戦争に負けて良かっただなんて言う生徒が本当にいるんですよ」と言ったら、ブーバー=ノイマンは「彼の言う通りです」と答えたのです。私は内心とても誇らしい気持ちになりました。

そのずっと後の1985年、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー大統領が戦後40周年の記念演説で、「5月8日は(ナチズムの暴力支配からの)解放の日だった」と述べ、大きな反響を呼びましたが、私にとっては新しい考えではなかった。16歳のときに、同じような考えをすでに持っていたからです。

リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー大統領
(1920〜2015年)
リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー大統領 (1920〜2015年)

今日ドイツ社会に根付いている視点から見れば、すぐには実感しにくいことだが、当時クレップさんのように考える大人は、ドイツ社会の中で少数派だった。戦争で重傷を負い、故郷を失ったという彼の歴史の教師をはじめ、多くの大人にとって、5月8日は「崩壊、そして挫折の日」だったのである。大学で国民経済学を学んだクレップさんは、博士号を取得した後、ボンの連邦経済省に入省する。その後、1984年まで自由民主党(FDP)の統一会派のスタッフとして働いた。16歳の出来事の後、クレップさんはドイツ社会の変化、そして和解の歩みをどのように眺めてきたのだろうか。

私がボンに来た71年は、ヴィリー・ブラント首相の時代。若い世代の人々が上の世代に対して「あの時代に何をしていたのか?」と問い掛け、社会に変化の機運が生まれた頃でした。そして、アウシュヴィッツ関連の裁判が始まり、過去の犯罪に対して学術的な資料と考察をもって、徹底的に向かい合うようになったのです。

一方で、大きな痛みも伴いました。その1つは、自ら引き起こした戦争の代償として東のかつての領土を断念したことでしょう。それは、私自身も関わる外国ドイツ人の土地、つまり故郷がなくなることであり、困難で怒りに満ちた論争が長い間続きました。その論争にポジティブな終止符を打ったのが、先ほどのワイツゼッカー大統領の演説だっ たのです。

和解の歩みは、政治家のみによって行なわれたのではありません。1963年に独仏間で結ばれた エリゼ条約をきっかけに、ドイツとフランスの青少年センターを通じて、若者間の交流が始まりました。そして、都市間のパートナーシップ。一部のエリートだけでなく、数万人単位で市民の交流が行われたのです。ポーランドについても同様のことが言えるでしょう。

1984年、クレップさんはハッタースハイム市の副市長に就任。姉妹都市だったフランスのサルセ ル市との交流をじかに経験した。

パリ近郊のサルセルには、フランスで最大のユダヤ人コミュニティーがあり、行政にもユダヤ人が多くいました。私はこの交流を通じて、初めてユダヤ人の友人を持ったのです。彼らとホロコーストについて話し合ったわけではありません。ドイツの犯罪は明確で、それは議論するテーマではないですから。でも、自分にとって、死者の霊ではなく、生身のユダヤ人と初めて話ができたのは良かったです。

ホロコーストに関して印象深いのは、1994年にエルサレムのヤド・ヴァシェム(ホロコーストの犠牲者を追悼する国立記念館)を訪れたときのこと。ある記念碑では、いくつもの大きな石にナチスによって壊滅されたユダヤ人コミュニティーを 持つ地名が刻まれていました。ある石には母のルーツであるエストニアの地名が、別の石には父の故郷ユーゴスラビアの地名が、そして、当時私たちが住んでいたフランクフルトの名が刻まれた石も見付けました。遠い彼方の出来事としてではなく、より直接的な衝撃に襲われ、私の心は折れました。重い気持ちを引きずったまま外に出ると、そこには街の雑踏がありました。バスが走り、人々は忙しそうに行き交い、若いイスラエル人の女性兵士の姿も……。ごく普通の都市の風景でしたが、私はそこに生命力を感じたのです。そして思いました。「ヒトラーは勝たなかったのだ」と。

Tal der Gemeinden
ヤド・ヴァシェム、破壊されたコミュニティーの地名が刻まれた「Tal der Gemeinden」
(2010年11月28日、ヴルフ大統領(当時)訪問時)

やはりもう一度聞いてみずにはいられなかったのは、クレップさんの父親のことだった。ナチスのイデオロギーに共感したわけではないにせよ、結果的に重大な犯罪を犯した武装親衛隊の一員となってしまったことを、どう思っていたのだろう。

戦時中、父はあくまで戦闘要員で、一般市民やユダヤ人の殺りくにかかわってはいませんでした。実際、強制収容所のことは知っていても、絶滅収容所の存在までは知らなかったと。ただ、大戦末期、収容所から来た将校が泥酔した状態なると、それについて話し始めるということはあったそうです。とてつもなくひどいことが起きている。もちろんそれは超機密事項でした。

戦後、父は仕事で良いキャリアを築くことはありませんでした。もともと大学で獣医学を勉強していましたが、戦争勃発で断念。その後は会社務めでした。しかし彼は、それを誰かのせいだと言って嘆くことはなかった。そもそもこの戦争を引き起こしたのはドイツなのだと、常に心に刻んでいました。これは大事なことです。私が記憶している父の最期の言葉は、人生全体を回顧しての「一体どれだけのものを破壊してしまったのだろう」でした。そこには「後悔」という以上の感情が含まれていると思います。

戦後ドイツの年表
1939年9月1日 ドイツ軍がポーランドへ侵攻。第2次世界大戦、開戦
1945年5月8日 ドイツが降伏文書に調印。第2次世界大戦、終戦へ
1945年8月15日 日本も終戦を迎える
1951年4月18日 後の欧州連合の原型となる欧州石炭鉄鋼共同体が設立
1963年1月22日 独仏の間でエリゼ条約が締結される
1970年12月7日 ブラント首相、ワルシャワ・ゲットーの記念碑の前でひざまずく
1985年5月8日 ワイツゼッカー大統領、戦後40周年の記念演説
1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊、東西冷戦終結へ
1990年10月3日 東西ドイツ再統一

誕生日が常に歴史の節目の日だったクレップさん。間もなく70歳を迎える彼は、今の欧州をどのように見ているのだろう。

戦後のドイツは、覇権を広げるのではなく、戦争を繰り返さないために他国と協調し、利害を調整しながら、それが結果的に国益に繋がるという考え方で歩んできました。それは欧州連合(EU)の基本思想でもあります。前進の欧州石炭鉄鋼共同体(EGKS)と欧州経済共同体(EWG)を経てEUに至るまでの過程を、私はずっと見てきました。文明の成果であるEUは、どんなに評価してもし過ぎることはありません。ですから、昨年の ロシアのクリミア併合、そしてウクライナで現在起きていることに対して、私はとても批判的ですし、悲しいですね。自分たちが長い時間をかけて克服してきたと思っていたものが、突如蒸し返されたわけですから。もちろん、今のギリシャをめぐる状況にも、非常に心を痛めています。

2回目のインタビューでは、奥様のブリギッテさんも同席してくれた。実は彼女もエストニアのタルトゥ出身のバルト・ドイツ人。バルト三国の1つであるエストニアも、大国の狭間で苦渋をなめ続けた国である。

1991年にエストニアが独立した後、かつてそこに住んでいた多くのドイツ人が彼らの故郷を訪れました。といっても、自分たちが昔所有していた農場や家の返却を求めたのではなく、そこに住むエストニア人を助けようとしたのです。FDPのオットー・グラーフ・ラムスドルフ元経済相の弟、ハンス・グラーフは隣国ラトビアの初代ドイツ大使でしたが、やはりバルト・ドイツ人である彼は、公私にわたってラトビアを支援しました。私たちもエストニア人家族との間に交流が生まれ、彼らを訪ねたことがあります。そういった友好関係の例がたくさんあったのですよ!

「年を重ねるにつれて、平和への責務の感情が強くなってきた。仕事や教会の活動を通して、文化と人々の間に橋を架けたい」と話すクレップさん。今年の誕生日の予定を聞いてみると、「ごく普通に家で過ごしますよ。70歳の記念に、あなたが書いてくださるインタビュー記事をベッドの上に貼ろうかな」と笑顔で言った。

地図から見るドイツの歴史

ナチス・ドイツ(1933~1945)
ナチス・ドイツ(1933~1945)
Source: Bennet Schulte/Wikipedia
連合軍軍政期(1945~1949)
連合軍軍政期(1945~1949)
Source: Andreas Kunz, B. Johnen and
Joachim Robert Moeschl: University of Mainz

ドイツ連邦共和国 / ドイツ民主共和国
(1949~1990)
ドイツ連邦共和国 / ドイツ民主共和国 (1949~1990)
Mainz
ドイツ連邦共和国と欧州(1990~2015現在)
Source: Wikimedia Commons
最終更新 Freitag, 01 Mai 2015 10:57
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

板東俘虜収容所の奇跡 - 知っておきたい日独の歴史のお話 - 武士の情けと博愛の精神 日本にドイツ文化の種をまいた

お遍路と阿波踊り、鳴門海峡の渦潮で知られる徳島県鳴門市。その郊外に、美しい白亜の洋館がある。「ドイツ館」と呼ばれるこの館には、第1次世界大戦で俘虜(捕虜)となって日本に移送されたドイツ兵士たちと、この地が「板東」と呼ばれていた頃の町民との交流の歴史が刻まれている。本国から遠く離れた日本に連れて来られたドイツ兵捕虜は約4600人。そのうち約1000人が板東俘虜収容所に収容された。鉄条網の中で囚われの身として暮らすことになり、しかしそこで「歓喜の歌(ベートーヴェンの交響曲第九番)」を歌うにいたった彼らの数奇な運命と、そこから日本に根付いたドイツ文化に注目する。
(取材協力:ドイツ日本研究所 DIJ, Werner Schaarmann / 文:高橋 萌)

日独戦争から生まれた
ドイツ人捕虜

日本とドイツが戦争をしていたという史実は、日独関係史の中でもとかく見逃されがちだ。両国は、明治時代には法整備や医療・技術面において協力体制にあり、第2次世界大戦では同盟国であった印象が強いからかもしれない。

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、日英同盟を結んでいた日本は、それを理由に中国・青島を拠点に極東に進出していたドイツに宣戦布告した。日独戦争は、地の利から圧倒的な兵力を持って臨んだ日本軍にドイツ軍が降伏するかたちで、3カ月もしないうちに終結。その結果、日本は4600人以上のドイツ兵捕虜を受け入れることになった。

当時の日本には、捕虜となって辱めを受けるくらいなら「自決」するのが望ましいと考える風潮が根強くあったため、これほど大勢の捕虜を受け入れることになるとは想定していなかった。そこでまずは、日本各地の公民館や寺などを仮の収容所としたが、捕虜としての正当な扱いを求めるドイツ兵からの不満は増すばかり。そういった時勢の中、1917年春、桜が舞う頃に新設されたのが「板東俘虜収容所」だった。

武士の情けを根幹として

板東俘虜収容所の所長には、当時44歳の松江豊寿が任命された。陸軍のエリート街道を進んできた彼だが、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人でもあった。「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は、幼い松江の心に深く刻み込まれていた。

「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」

ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じた。捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解する松江の収容所運営はこうして始まったのだった。

それまでの収容所で経験した劣悪な環境から、警戒心を持って板東俘虜収容所にやって来たドイツ兵たちに、松江はまずこう語り掛けた。「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」

ドイツ兵との交流から生まれたもの

日本政府は、これを機にドイツの科学技術を国内に導入しようと、あらゆる分野についてドイツ兵から指導を受けるよう各収容所に指示していた。経済・政治学から、ウイスキー、ビール醸造、ソーセージやパンの製法、楽器演奏の指導まで、ドイツ兵捕虜の中には各分野の専門家がいた。兵士とは言っても、もともとは多くが一般市民であったことが、こうしたエピソードからもよく分かる。

板東俘虜収容所内にも、パン工場が建てられ、共同農場ではトマトや赤ビート、キャベツなど、それまで栽培されていなかった野菜の栽培指導が行われた。「独式牧場」と名付けられた牧場では、ドイツ兵捕虜の指導により、牛乳の生産量がそれまでの5倍増しになるという成果が上がった。しかも、指導に赴くドイツ兵捕虜には見張りが付いていなかった。捕虜の待遇としては異例のことだが、ここ板東では一定の秩序の下、捕虜に生産労働や文化活動が許可されていた。日本語教室や芸術活動、各種スポーツを楽しむ捕虜の活動は町の人々の興味・関心を引き、見学者の訪問も絶えなかったそうだ。収容所が日独交流会館のような様相を呈していくにつれ、町の人々はドイツ兵捕虜を「ドイツさん」と、親しみを込めて呼ぶようになった。

ドイツ兵捕虜たちもまた、松江所長への信頼と板東の人々に対する親愛の情を深め、1918年6月1日には、収容所で結成されたヘルマン・ハイゼン楽団によって、ベートーヴェンの交響曲第九番が合唱付きで全曲演奏された。女性がいないため、ソプラノパートを男性用に編曲し、収容所にない楽器はオルガンでカバーするなど、苦労と工夫の末の演奏だった。今では年末の恒例となっている「第九」の演奏だが、日本で最初に全曲演奏されたのは、ここ板東俘虜収容所の小さな一室での不完全な、しかし心からの「歓喜の歌」だったのだ。

  • 板東俘虜収容所
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  • 板東俘虜収容所

終戦、そして解放へ

板東俘虜収容所が開設されてから1年も経つと、当初は異質に響いた起床と消灯を知らせるラッパの音が町の生活に溶け込み、人口約500人の町にやって来た1000人のドイツ兵たちの存在は、ごく自然のもののようになっていた。

しかし、1918年にスペイン風邪で死者を出し、追い打ちをかけるようにドイツの戦況悪化のニュースが届くと、収容所内を暗い悲しみが包んだ。1人の捕虜により、板東俘虜収容所で初めての暴行事件が起きたのは、そんな時期であった。敗戦したら祖国はどうなるのか、不安に押しつぶされ、町の人が親しんだドイツ兵捕虜たちの陽気で勤勉な姿はすっかり鳴りを潜めた。

収容所内では、『ディ・バラッケ(Die Baracke)』という新聞が捕虜によって発行されていた。ドイツの戦況、収容所内での活動報告はもちろん、日本の風土や文化についての記事も人気だった。ほぼ毎週発行され、収容所の活気を反映していたこの新聞も、敗戦の報を受けた後、発行されなくなっていた。

ある日、松江所長は『ディ・バラッケ』の編集担当者を呼び、廃刊したのかと聞いた。「こんな時期ですので……」とがっくり肩を落とす彼らに、「このようなときだからこそ」と、新聞を発行し、現実を受け止め、前を向けるよう、捕虜に呼び掛けるよう説得した。1919年6月に発行された同新聞に掲載された記事「戦友諸君に訴える」は、捕虜たちを大いに励まし、勇気付けた。そして6月28日、ついにヴェルサイユ条約が調印され、ドイツの敗戦が決まったが、捕虜たちはその知らせを受け止める心の準備ができていた。

松江所長は言った。「諸君。私はまず、今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(捕虜)ではなくなった。……さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わず惨めなものである。私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。……どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭に置いて、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。……本日ただ今より、諸君の外出は全く自由である。すなわち諸君は自由人となったのである!」

通訳が最後まで訳すと、拍手と歓声が沸き起こった。別れの日を意識し出してから、町の人と捕虜との繋がりはさらに深まり、お互いに別れを惜しんだという。何百年も残るようにと、ドイツ人捕虜が1つひとつ石を積み上げた。後に「ドイツ橋」と呼ばれるめがね橋が完成したのは7月27日だった。

12月になると、いよいよ祖国への帰還の準備が進んだ。町の人に捕虜からのプレゼントがあり、そのお返しに町の人も旬の食材でごちそうを用意し、それぞれの家で送別会も行われた。

12月23日、徳島市に家族のいる9名が、先に解放された。松江所長が、家族と一緒にクリスマスを祝えるようにと、上層部と喧嘩腰で掛け合ったのだ。翌24日夜、残る捕虜たちは収容所で最後のクリスマスを祝った。

12月25日正午、広場に整列して最後の点呼を受け、13時に解放。収容所を行進しながら出ていくドイツ兵捕虜を、町の人たちは総出で見送った。目に涙を浮かべる者もあった。

100年続く日独交流

この収容所での生活は、その後もずっと、ドイツ人の心に残っていた。ドイツでは、フランクフルトで「バンドウを偲ぶ会」が開かれ、1972年に鳴門市ドイツ館がオープンすると知った元ドイツ兵捕虜たちからは、当時の写真や手紙が多数寄せられた。  

「私は第2次世界大戦にも召集を受け、運悪くソビエト連邦(ソ連)の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲル(収容所)で冷酷と非情を嫌というほど思い知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。……私は確信を持って言えます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか」ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)  

「懐かしきバンドウの皆様。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5カ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色あせることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡が取れる33人は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、はるかなる御地へ熱い思いを馳せているのです。……目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などがまぶたに浮かんできます」エドアルド・ライポルト(コーブルク市在住)  

元ドイツ兵捕虜が「バンドウ」に寄せた手紙から、彼らの鉄条網の中での青春の日々が、決して不幸なものではなかったことを確信できる。100年足らずたった今も、ビールやソーセージ、バウムクーヘンをはじめ、当時日本にもたらされたドイツの文化や技術が、しっかりと日本に根付いている。

要図板東俘虜収容所(縮図:1/625)
要図板東俘虜収容所(縮図:1/625)大正8年4月1日ヤコビ製図

ドイツ兵捕虜をめぐる年表

1897年(明治30年) 中国(清)でドイツ人宣教師2人が殺害されたことを受け、ドイツ軍が青島を無血占領
1898年(明治31年) 独清条約を締結し、ドイツが青島周辺その他を99年間租借する
1904年(明治37年) 2月10日
日露戦争勃発
1905年(明治38年) 9月5日
日露講和条約を締結し、日露戦争が日本の勝利で終結
1911年(明治44年) 辛亥革命が起こり、中華民国が成立
1914年(大正3年)
7月28日
第1次世界大戦が勃発
8月23日
日独国交を断絶し、日本がドイツに宣戦布告。日独戦争が勃発
11月7日
ドイツ軍が降伏し、日本軍に青島を明け渡す
11月11日
ドイツ軍捕虜が日本に移送され始め、12月末までに4462人が日本各地の収容所に収監される
1917年(大正6年) 4月9日
丸亀・松江・徳島などの収容所を統合し、新たに坂東俘虜収容所を開設
6月1日
坂東俘虜収容所で、日本で初めてベートーヴェンの「交響曲第九番」が演奏される
1919年(大正8年) 6月28日
ヴェルサイユ講和条約調印。ドイツの敗戦が決まる
7月27日
大麻比古神社境内にドイツ兵捕虜による「ドイツ橋」が完成
12月25日~1月28日
ドイツ人捕虜のドイツ本国への送還が行われる
1920年(大正9年) ヴェルサイユ講和条約発効
1921年(大正10年) ドイツ人捕虜への対応について、ドイツから感謝状と赤十字勲章が名古屋市長宛てに贈られる
1972年(昭和47年) 鳴門市に鳴門市ドイツ館創設(www.doitsukan.com
1993年(平成5年) 新ドイツ館として、同館が再オープン
2004年(平成16年) 「ドイツ橋」が徳島県の県史跡に指定される
最終更新 Donnerstag, 23 April 2015 14:48
 

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