今年はベルリンの壁崩壊からちょうど20年。世界の人々の心を揺さぶり、冷戦の終結をもたらした1989年の出来事を振り返るべく、ベルリンではさまざまなイベントが開催中だ。その最大の山場は11月9日の「自由の祭典」。約30年間に及んだ分断時代はベルリンに何をもたらしたのか。実際の壁はもうほとんど残っていないが、幸いそれを知るための機会は豊富に用意されている。過去と未来が出会うエキサイティングな町。今年の秋はベルリンに行こう!
(文・写真:中村真人)
壁の歴史
第2次世界大戦が終結し、米ソ冷戦時代に突入。敗戦国ドイツは米英仏ソの4カ国に分割統治され、首都ベルリンもその潜在能力ゆえ、同様に分割されていた。西ベルリンは東ドイツの中にぽっかりと浮かぶ陸の孤島だったが、東西の経済格差が明らかになるにつれ、自由を求めて西ベルリンを経由して西側に亡命する東ドイツ市民(多くは若者)の数が激増。1961年8月13日未明、国家存続の危機を感じ、秘密裏のうちに壁建設の計画を進めていた東ドイツ政府は、ついにそれを実行したのである。
壁建設以降
壁で東西ベルリンが隔てられた後も、人々の西側への逃亡が止むことはなかった。
最初の逃亡人民兵コンラート・シューマン
1961年8月15日、東ドイツの人民兵コンラート・シューマンがベルナウアー通りBernauer Str.の有刺鉄線を越えて西側に逃げた。その瞬間をとらえた写真はあまりに有名だ。写真家ペーター・ライビングは、「ここで何かが起こる」と予感し、数日前から現場に張っていたという。そのベルナウアー通りとルッピナー通りRuppiner Str.との交差点近くの空き地には、実物のシューマンをかたどった記念碑「壁を越える人」がこの秋まで展示されている。
ギュンター・リトフィンの記念碑
インヴァリーデン通りInvalidenstr. の橋のたもとに、1961年8月24日、川を越えて西側に逃げようとした際に射殺された、当時24歳のギュンター・リトフィンの案内板と記念碑が立っている。近くにはギュンター・リトフィン記念館 Gedenkstätte Günter Litfinもある。彼が壁の最初の犠牲者だが、正確な犠牲者の数はいまだにわかっていない。
写真)ギュンター・リトフィン 61年8月24日、国境の川沿いで射殺された24歳のリトフィンは、壁の最初の犠牲者。
逃亡トンネルの現場
1964年10月、東から西ベルリンに亡命した学生によって掘られた140メートルの地下トンネルをくぐり、57人の東ベルリン市民が脱出に成功。この、通称「トンネル57」の終着点となったベルナウアー通りとシュトレーリッツァー通り Strelitzer Str.の角にプレートが立っている。同じ通りには「トンネル29」のプレートもある。
激動の1989年
この年の5月、ハンガリー・オーストリア国境の鉄条網が撤去され始めたのを機に、東ドイツの人々が兄弟国ハンガリーに「休暇」として出かけ、そこから西へ亡命する大移動の波が起こった。秋になると、プラハやワルシャワの西ドイツ大使館に多くの人々が逃げ込み、またライプチヒやベルリンでは民主化を求める大規模なデモが続いた。このような状況下、ついに最高指導者のホーネッカーが退陣。
外国人記者会見場(現連邦法務省)
11月9日、旅行自由化に関する歴史的な記者会見がモーレン通りMohrenstr. の38番地で行われた。会見に臨んだ東ドイツ社会主義統一党のギュンター・シャボウスキーは、「その政令はいつから有効か」という外国人記者の質問に対して、うっかり「今すぐ」と答えた。この会見が行われた部屋は現存しないが、「旅行自由化の公布」という名のインスタレーションが法務省の建物内にあり、道路側からのぞけるようになっている。
www.bmj.bund.de/reise/index.htm
ボルンホルマー検問所
テレビで記者会見を見ていた人々は半信半疑のまま検問所付近に集まりだし、状況を知らされていない警備兵との間に食い違いが生まれた。やがて「門を開けろ!」の大合唱が起こり、9日23時半頃、ボルンホルマー検問所を皮切りに、ベルリンのほかの検問所もついに開放されたのである。
写真)ボルンホルマー検問所跡
89年11月9日、現場の判断でこの検問所が開放された。歴史が書き換えられた瞬間。
壁のことを知り、あの時代を追体験するにはどこに行けば良いのか?ここでは広く知られているものから、今年オープンした最新スポットまでをご紹介しよう。記念年ならではのイベントも、忘れられない体験になるはずだ。
イーストサイド・ギャラリー
East Side Gallery, Mühlenstr. 1
オーバーバウム橋から東駅まで続く全長1300 メートルの壁に、21カ国118人のアーティストが絵を描いた世界最長のオープンギャラリー。今年すべての絵が描き直され、美しくよみがえった。11月10日にはオープニング式典が行われる。
www.eastsidegallery.com
DDR博物館
DDR Museum, Karl-Liebknecht- Str. 1
東ドイツの日常生活をリアルに垣間見られるミュージアム。オリジナルのトラバントによるシミュレーション体験ができるほか、当時の調度品で再現したリビングルームなどを実際に触れ ながら体感することもできる。
www.ddr-museum.de
シュレジア灌木の監視塔
Schlesier Wachturm, an der Puschkinallee
壁と並んで、冷戦下のベルリンを象徴していた国境の監視塔も、そのごく一部が残されている。中でもここは1992年に文化財に指定されており、現在は内部見学が可能。
シュタージ博物館
Stasimuseum, Ruschestr. 103, Haus 1
かつての国家保安省(通称シュタージ)の本部が博物館として公開されている。秘密情報機関として特に反体制の人々を監視・抑圧していた現実には身震いするだろう。盗撮に使われていた超小型カメラなどのほか、シュタージのトップにいたエーリヒ・ミールケの執務室が当時のまま残されている。
www.stasimuseum.de
地下鉄U55 ブランデンブルク門駅
Bahnhof Brandenburger Tor
今年8月にオープンしたばかりのブランデンブルク門駅は、分断の象徴ともいえる場所。構内に壁の展示があり、「マウアー・ガイド」もここで借りられる。地下へ降りるエレベーターの壁には、政治家の壁にまつわる発言がちりばめられていて、この場所が持つ意味の重さを実感できるはずだ。
チェックポイント・チャーリーの壁博物館
Das Museum Haus am Checkpoint Charlie,
Friedrichstr. 43-45
かつて外国人専用の検問所だったチェックポイント・チャーリーに面した壁博物館は、1963年設立と古い歴史を持つ。数々の写真や資料のほか、西側への脱出に使われた車や気球、ボートなどの展示物が充実している。検問所 の敷地には壁に関する野外展示もあり、ここを観るだけでも十分多くのことを学べる。
www.mauer-museum.com
壁公園
Mauerpark, Am Falkplatz 1
かつての壁の緩衝地帯に作られた広々とした公園で、毎週日曜日に開かれる蚤の市は有名。天気の良い日には、ベルリン内外からの人で賑わう。
北駅の公園
Park am Nordbahnhof
今年5月にオープンした新しい公園。戦前は鉄道のターミナル、戦後は壁の緩衝地帯だった細長いスペースに作られている。当時の壁が残り、注意して歩くと昔の線路が埋め込まれていることもわかる。奥に進むと遊び場が見えてくる。ベルリンらしい不思議な雰囲気の公園だ。
マリーエンフェルデの臨時収容施設跡
Erinnerungsstätte Notaufnahmelager Marienfelde, Marienfelder Allee 66/80
東から西に亡命した人々が最初に向かったのがこの施設で、現在は博物館として公開されている。彼らはどのような気持ちで、またどのような手続きを経て、新天地でスタートを切ったのだろうか。収容者が一時的に生活していた 部屋も見学できる。2010年1月31日ま で、「分断時代のSバーン」というテーマ で特別展も開催中。
www.notaufnahmelager-berlin.de
ベルナウアー通りの壁記録センター
Dokumentationszentrum Berliner Mauer, Bernauer Str. 111
アパートの中は東側、前の通りは西側というこのベルナウアー通りで当時、何が起きたのか。コンパクトな展示スペースながら、その内容は充実している。建物の向かいには当時の壁が再現され、屋上からその様子を見渡すことができる。壁が実際どういう構造になっていたのか、よくわかるだろう。
www.berliner-mauerdokumentationszentrum.de
プレンツラウアー・ベルクのゲッセマネ教会
Gethsemanekirche, Stargarder Str. 77
ミッテのシオン教会Zionskircheと並び、東ベルリンの民主化運動の先導的役割を果たしたのがこの教会だった。非暴力を求める集会や礼拝が何度も行われ、多くの市民が参加した。この秋には壁関連イベントも開催される。
www.gethsemanekirche.de
新しいインフォ・パビリオン
Informationspavillon Berliner Mauer,
Bernauer Str. 119
ベルナウアー通りの壁があった敷地は長らく空き地になっていたが、記憶を留める場所として、壁建設50周年の2011年までに生まれ変わる予定。その第1弾として、赤色の新しいインフォメーション・パビリオンが11月9日にオープンする。
フリードリヒ通り駅
涙の宮殿の異名を持つ出国所。
悲しい別れの場となったことから人々にこう呼ばれた。
白い十字架
ライヒスタークの裏手の川沿いに、壁による犠牲者を追悼する十字架が立っている。
ヴァルデマー通り
映画『ベルリン・天使の詩』で、天使が人間に生まれ変わるシーンが撮影された場所。
演劇スペクタクル
Die Riesen kommen
南仏の有名な大道芸劇団「ロワイヤル・ド・ リュクス」が、巨大な人形を従えてベルリンに登場!いくつもの通りや広場を舞台に、89年秋の出来事が1つのメルヘンとして描かれる。
www.riesen-in-berlin.de
入場無料。10月1日~ 4日
アレクサンダー広場の平和革命展
Friedliche Revolution 1989/90
壁を崩壊にまで導いた東ドイツ市民主導の非暴力革命を、700点もの写真と映像・音声で振り返る大規模な野外展示。
24時間入場無料。11月14日まで
11月9日 壁崩壊記念
自由の祭典 Fest der Freiheit
(ブランデンブルク門前)
バレンボイム指揮、シュターツカペレ・ベルリンの野外コンサートで幕を開けた後、さまざまな人が描いた巨大ドミノ倒しによって壁崩壊をシンボリックに表現。ヨーロッパの現首脳のほか、ゲンシャー元西独外務大臣、アナン元国連事務総長、ゴルバチョフ元ソ連大統領らも参加予定。アメリカからはクリントン元大統領の参加が有望だ。
www.mauerfall09.de/dominoaktion
トラビ・サファリ
東ドイツの国産車「トラバント」を運転できるツアー。色とりどりのトラビの中から好きな車を選び、簡単な手ほどきを受けてからいざ出発。旧東ベルリンをメインにしたコースと東西の両方を巡る、それぞれ約1時間のコースから選べる。
www.trabi-safari.de
マウアー・ガイド
壁の跡に沿って自分で歩く時に便利。チェックポイント・チャーリーなどのスタンドで貸し出されるオーディオガイドはGPSを搭載し、現在地を探知しながら壁に関するさまざまな情報を教えてくれる。
www.mauerguide.com
ベルリンの地下世界
東西分断時代の核シェルター、Sバーンの「幽霊駅」、幻の都市計画など、知られざるベルリンの地下世界を豊富なコースから選んで回ることができるガイドツアー。
http://berliner-unterwelten.de
その他、壁イヤーならではの興味深いツアーがたくさん開催されている。詳細はwww.mauerfall09.de参照
ジョン・F・ケネディ米大統領
63年6月26日、シェーネベルク市庁舎前にて
"All free men, wherever they may live, are citizens of Berlin, and, therefore, as a free man, I take pride in the words, Ich bin ein Berliner‘! "
「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリン市民なのです。それゆえ、私は自由な人間として誇りを持ってこう言いましょう。(ドイツ語で)『私もベルリン市民です!』」
ロナルド・レーガン米大統領
87年6月12日、ブランデンブルク門の前で
"Mr. Gorbachev, open this gate! Mr. Gorbachev, tear down this wall! “
「ゴルバチョフさん、この門を開けてください!ゴルバチョフさん、この壁を壊してください!」
ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー西独外相
89年9月30日、プラハの西独大使館のバルコニーにて。亡命を希望して逃げ込んだ東ドイツ市民を前に
"Wir sind zu Ihnen gekommen, um Ihnen mitzuteilen, dass heute Ihre Ausreise…"
「私たちは皆さんに以下のことを伝えるためにやって来ました。今日皆さんの出国が……」(「西ドイツへの出国が可能になりました」という台詞が後に続くが、人々の大歓声にかき消されてしまう)
ミハイル・ゴルバチョフソ連書記長
89年10月6日、東ベルリンにて。ジャーナリストを前に旧態依然の東ドイツ政府を暗に批判した
"Gefahren lauern auf diejenigen, die nicht auf das Leben reagieren.“
「危険は、人生に対して反応しない人たちに待ち構えているのです」
ヴィリー・ブラント元西独首相
89年11月10日、シェーネベルク市庁舎前にて
"Meine Überzeugung war es immer, daß die betonierte Teilung und daß die Teilung durch Stacheldraht und Todesstreifen gegen den Strom der Geschichte standen. Und ich habe es noch in diesem Sommer erneut zu Papier gebracht: Berlin wird leben, und die Mauer wird fallen."
「コンクリートによる分断、鉄条網と死の立ち入り禁止地帯による分断は、歴史の流れに反するものであると、私は常に確信していました。この夏、私は改めて書き記しました。すなわち、『ベルリンは生き、壁は崩れるだろう』と」