戦いの年が明けた。2012年、ロンドンで行われる夏季五輪に向けて、スポーツ界全体が盛り上がりを見せる中、ドイツでは陸上競技に熱い視線が向けられている。ロンドン五輪を占うと目された2011年大邱(韓国)での世界陸上で、金3つ、銀3つ、銅1つとメダルを量産。ドイツ陸上競技連盟(DLV)スポーツディレクター、トーマス・クアシルゲンは「ロンドンでは素晴らしい結果を残せるだろう」と胸を張った。
2000年のシドニー五輪以来、12年も遠ざかっていたメダル獲得を目指すドイツ陸上界の、メダル候補の筆頭に挙げられるのが、先の大会で銀メダルを得たハンマー投の世界記録保持者、ベティー・ハイドラー選手。28歳と、今まさにアスリートとして旬を迎えている彼女に、ハンマー投という競技の魅力、そして五輪への想いについて語っていただいた。(編集部:高橋 萌)
BETTY HEIDLER
1983年10月14日、ベルリン生まれ。14歳のときに、友人の誘いで陸上競技の世界に入り、15歳でハンマー投を専門とすることを決める。2001、02年にユースのドイツ王者に、02~05までは、無敗のドイツ・ジュニア王者に君臨するなど、めきめきと頭角を現し、07年には世界陸上の大阪大会で優勝、10年には欧州選手権で優勝。11年5月21日に79.42メートルを投げて世界記録を更新し、世界トップの女子ハンマー投選手として、世界各国から注目されている。連邦警察官としての任務を担う一方で、ハーゲン通信大学にて法学の学士課程に在学中。現在、トレーニングと生活の拠点はフランクフルトに置いている。 www.bettyheidler.de
ハンマー投は、
心技体のすべてを必要とする種目
1983年、東ドイツ(DDR)統治下のベルリンで産声を上げたベティー・ハイドラー。東ベルリンの記憶は幼すぎたためほとんどないが、学校の体育の授業が、陸上から体操、球技まで多岐に渡り、しかも専門性が高かったことは印象に残っているという。様々なスポーツの専門教育を受けてきた中で、ハンマー投という種目に行き着いたきっかけは何だったのだろうか?
14歳で陸上競技のクラブに入りました。きっかけは仲の良い友達に誘われたことです。中でも投擲(とうてき)のグループが一番楽しそうだったので、そこに所属し、投擲種目全般に親しむようになりました。ハンマー投との出会いは15歳のとき。ベルリンでの競技会の後に、ハンマー投のコーチが「一度、私のところにトレーニングに来ないかい?」と誘ってくれたのです。その誘いを受けて、私はハンマー投の世界に入っていきました。
15歳にしてハンマー投の才能を見出されたベティー。ハンマー投の、どんなところに魅力を感じているのだろうか?
この種目の、心技体のすべてを必要とする複合性と、技術面での難易度の高さに魅力を感じています。自分を高めるためには、相当ハードに肉体を酷使する必要があり、技術面では正確性とリズミカルでダイナミックな動きを生み出す勘が求められるのです。そのため、トレーニングは多岐に渡ります。
そんなハードなトレーニングを楽しみながら、ハンマー投を始めて3年後には、ユースやジュニアの大会で好成績を連発。その後もとんとん拍子に国内トップに上り詰め、28歳の今、世界記録保持者として女子ハンマー投のトップに君臨する。トップレベルの結果を出し続けることの難しさは、想像を絶するものがあるだろう。そのモチベーションの源は?
自分のこれまでの実績や成功が、モチベーションの源です。また、トレーニングによって自分の可能性が広がっているという実感を持つことができれば、自分はまだまだやれる、もっと上を目指せると、自ずと闘志が湧いてきます。私にとっては、トレーニングも競技会も、アスリートとしての生活がもたらしてくれるすべてのことが楽しく、苦には感じないのです。
喜びと苦しみ、その経験と共に
ハンマーを投げる
ハンマー投の競技人口は、ドイツ国内でおよそ100人を数えるのみと言われる。高度な技術と成熟した肉体が必要な競技ゆえ、トレーニングの厳しさも折り紙付き。彼女はそれこそが魅力だと言うが、それでもハンマー投の競技者として苦悩もあるのでは?
もっとも難しいことは、トレーニングで培ったことのすべてを競技会で余すことなく発揮し、最高の記録を引き出すことです。日々のトレーニングは本当に楽しいものです。投げることに繋がる一連の動作のすべてが、私に喜びを与えるのですから。でも、結果が出なければだめです。技術なしには、この競技は成り立ちませんが、それだけでもありません。そこにダイナミックな肉体の力と、喜びや苦しみなど経験したすべての要素を加えてようやく、人より遠くまでハンマーを投げることができると思っています。
技術力のほかに大切にしていることは?
肉体的に、さらに作り込むこと。健康を維持すること。そして、自分の目標を見失わないこと! また、私を支えてくれる人たちの声によく耳を傾けること。彼らはいつも、私に大切なことを気付かせてくれ、重要なヒントを与えてくれるのです。
アスリートとしての顔のほかに、警察官としての身分を持つベティー。仕事と競技との両立は難しい?
連邦警察官の職に就きながらも、私はアスリートとして活動することを認められ、任務の一部を免除されているので、全く問題なくトレーニングに励むことができます。年に一度、自分が選んだ部署にて、1つの研修プログラムを修了しなければなりませんが、トレーニングの予定が空いている秋に行うなど、スケジュールを自分で管理できることも利点です。
アスリートとしての活動だけでは、経済的に不安が尽きないと言う彼女にとって、競技に集中させてくれる職業は、まさに天職。一方で、仕事からも、トレーニングからも離れたときは、どんな顔を見せるのか?
オフのときは、たくさん寝て、たくさんの本を読んでいますね。ショッピングに行くのも好きだし、友人や家族と時間を過ごすことも私の楽しみです。
昨年夏にヴェルト紙に掲載されたインタビューは、ドイツのカリスマモデル、ハイディ・クルムが司会を務めるテレビ番組“ Germany's Next Topmodel ”について聞かれるユニークなものだった。それによると、彼女はトレンドにも敏感な28歳。競技に臨むときは、ばっちりアイメイクを決め、カメラ映りだって気にする。ハンマー投の競技者として、普通の女の子よりも逞しい体つきをしている自覚はあるが、モデル体型には憧れない。その理由は、競技を通して精神的な満足感を得て、人生に必要なあらゆることを学んでいるから。
そんな彼女は、ハンマー投の選手としては小柄な175cmの身長に、バランスの取れた体型を誇るが、オフシーズンには筋肉が落ちて8キロも体重が減るという。今はまさに、冬のトレーニング期間の真っ只中。
私にとって、オフシーズンとなる冬の期間が一番ハードです。長い冬の期間、限られた環境の中でトレーニングに没頭しなければならず、ストレスが溜まります。でも、来るべき夏に、表彰台の一番高い場所に立つため、そして自分の目標を達成するため、自分を鼓舞激励し、トレーニングに打ち込んでいます。
一番に立つ、
それは本当に素晴らしい感覚
我慢の冬を越え、表彰台のてっぺんに立つ。経験した者にしか分からない感動があるだろう。
「79.42メートル」。これが、昨年5月に私が叩き出した世界新記録です。この記録を樹立できたことを私は誇りに思うし、それによって、その試技で全力を出し切ったことを証明できました。表彰台に立つことは、自分がこれまでにやってきたすべてのことが正しかったことを示し、これまでのトレーニング、苦しみ、ひた向きさが、意味のあることだったと教えてくれるのです!
ベティーが記録を塗り替える前の世界記録はアニタ・ウォダルチク(ポーランド)の78.30メートル。これに1メートル以上も差を付け、夢の80メートルを目前にした大記録。日本記録が室伏由佳の67.77メートルであることからも、彼女のパフォーマンスがどれほどのレベルかが分かる。アスリート人生において、特に思い出に残っている瞬間は?
思い出に残るシーンは多々あります。その中でも最高の瞬間は、2007年の世界陸上での優勝です! そしてもちろん、世界新記録を生み出した瞬間。また、4位ではありましたが、2004年のアテネ五輪も深く印象に残っています。
2007年の世界陸上は日本・大阪での開催。彼女の目に、日本はどのように移ったのか?
日本は、ただただ素晴らしかった!そこでは、すべてが完璧。大会の進行も、人々の友好的な対応も。日本での競技会は文句なしに素晴らしい雰囲気でした。
世界陸上のほか、数々の世界大会で表彰台の常連である彼女も、オリンピックでは、まだメダルなし。今回のロンドン五輪に懸ける想いは?そして、そこで勝つために必要なこととは?
まず、77メートル以上の投擲は必須だと思います。昨年の世界記録の更新により、女子ハンマー投選手として、初の80メートル台という快挙も近付いていますが、私の今の一番の目標は、ロンドン五輪でメダルを勝ち取ることです!ドイツ代表のユニフォームを着ることを許される。そのことが私にとって大きな名誉であり、また、連邦警察官としても、ドイツという国を代表する立場で、競技に臨めることを誇りに思います。
五輪では誰がライバルになる?
近年、ロシア、ポーランド、中国、キューバは強豪が揃っています。彼らが私の最大のライバルです。
アスリートとしての目標、そして、その先にあるものは?
まずは、より良いパフォーマンスを目指して日々努力し、様々な名立たる選手権大会で成果を挙げること。世界一になること。トップに立つ、それは本当に素晴らしい感覚です。そのためにトレーニングをしているといっても過言ではありません。職業の面では、まだまだやるべきことがあります。連邦警察官という職に就けて、私は幸せです。その傍らで法学を学んでいるので、大学を卒業することも目標です。
くせのある赤毛を頭のてっぺんで1つにまとめたベティーが、サークルの中でトルネードのようにパワフルに4回転し、ハンマーを天に向けて放つ。その一連の動作は、まさに一寸の隙も、迷いもなく美しい。サークルを出れば、天真爛漫な笑顔を周囲に向ける余裕を持てるのは、彼女が成熟した精神力を持ち合わせているから。ハンマー投という競技に向ける、純粋過ぎるほど一途な姿勢を貫き、ベティーは今、ひたすらにロンドン五輪を目指し戦っている。
競技解説
陸上競技の投擲競技に属する種目ハンマー投は、アイルランド発祥のスポーツと伝えられている。ハンマーは、ワイヤーの先に砲丸が付いているもので、ワイヤーの長さは男子で1.175~1.215メートル、女子で1.160~1.195メートル、ハンマーの総重量は、男子で7.260キロ、女子が4キロと定められている。直径2.135メートルのサークルから回転しながら投げ、角度34.92度に広がるラインの内側に入ったものが有効となる。日本人選手としては、室伏広治が2004年のアテネ五輪で優勝、11年世界陸上で優勝するなど活躍している。