光を浴びて輝くベルリン・フィルハーモニーのジグザグの屋根に向かって、透明の青いガラスの壁が伸びている。その横には様々な歴史的情報や写真が掲載されたプレートが設置され、コンサートのオフ・シーズンにもかかわらず、旅行者や地元の人が頻繁に訪れては説明に見入っている。青いガラスと情報プレートの間のスペースでは若者数人がスケートボードに興じていた。日曜夕方ののどかな光景……。
ナチス・ドイツ下では、精神的もしくは肉体的に障害を抱えた人は「不適格」と判断された。1939年秋、安楽死による殺人計画が実行され始め、翌40年4月からは、ティーアガルテン通り4番地にあった邸宅に安楽死計画の司令部が置かれた。通り名から後に「T4作戦」と呼ばれるようになる。
ベルリン・フィルハーモニーの前にあるT4作戦の記念碑
この青いガラスも情報プレートも、当時のティーアガルテン通り4番地の敷地に沿って置かれたものだ。平面図を見ると、邸宅は現在のフィルハーモニーのチケット窓口付近にまで及ぶ。自分がこれまで何度となく足を運んだ場所でも殺害対象となる患者の選別や殺害施設への輸送が計画されていたのかもしれないと思うと、体の中を緊張が走った。41年8月までの間に、学者や医師、介護士などが共犯する形で、7万人以上もの人が殺害されたという。
この恐ろしい計画は、当時の社会にはびこっていた「健康で優秀なドイツ民族」と「それ以外の劣等分子」とに分ける極端な人種差別や優生学思想といった背景なしには考えられなかった。T4作戦はミュンスターのガーレン司教の告発などにより「中止」されたものの、安楽死計画で初めて使われたガスによる大量殺りくの方法は、後にユダヤ人のホロコーストへと応用されることになる。そして、実際はその後も継続された安楽死計画により、ドイツ占領下のヨーロッパにおいて30万人近くが殺害されたという。
これほど重大な犯罪にもかかわらず、戦後ドイツ社会は「安楽死」殺人の事実から目を背けた。犯罪に加担した医師の大部分は、戦後あっさり職場に復帰し、西独では、強制断種された人が損害賠償の対象外とされたままだった。この場所への関心が再び高まったのは1980年代になってから。88年に米国の彫刻家、リチャード・セラにより最初の記念碑がここに建てられたが、抽象的で分かりにくいという批判が絶えなかった。「よりふさわしい形の記念碑を造るべきだ」と様々な団体が行政に対して粘り強く働きかけた結果、2011年に連邦議会は記念碑の設立を決定。T4作戦の新しい記念碑が完成したのは、つい最近の2014年9月のことである。
豊富な展示を見て回っていると、ナチス時代の1枚のポスターが目に止まった。左の絵には田園風景の向こうに大きな施設が描かれ、その右側の絵には一戸建ての家が奥にいくつも連なっている。絵の下にはこういう説明があった。「130人の知的障害者の施設に要する年間支出10万4000マルクで、遺伝病質のない労働者家庭のために17の一戸建てを建てることができる」。
相模原の障害者施設で起きた痛ましい殺傷事件の加害者の言動が脳裏に浮かんだ。と同時に、人の命に対するいびつな価値付けが、ヘイトスピーチがはびこり、経済効率がとかく最優先されがちな社会ともどこかで重なって見えたのだった。
ナチスによる「安楽死」殺人の犠牲者のための記念碑
Gedenk- und Informationsort für die Opfer der nationalsozialistischen »Euthanasie«-Morde
ベルリン・フィルハーモニー大ホール前にある記念碑。2012年に行われたコンペにて建築家のウルズラ・ヴィルムス、造形作家のニコラウス・コリウジスらが共同でデザインした案が選ばれた。豊富な情報を展示したプレートには、独英表記に加え、子供用の平易なドイツ語、さらに手話による映像や点字での説明も用意されている。
住所:Tiergartenstr. 4, 10785 Berlin
URL:www.stiftung-denkmal.de
ナチスによる強制断種と「安楽死」殺人の犠牲者のための記念碑
Denkzeichen in Berlin-Buch für die Opfer der national sozial i sti schen Zwangssteri l i sation und »Euthanasie«–Morde
ベルリンの北、ブーフの精神病院では1933年以降、約800人の患者が強制断種された。T4作戦の期間中、この病院の患者約2800人がブランデンブルクやベルンブルクの殺害施設へと送られ、一酸化炭素により殺された。2013年11月、この病院の敷地内にパトリツィア・ピサーニによる大きな白い枕を模した記念碑が置かれた。
住所:Schwanebecker Chaussee 50, 13125 Berlin