昨年(2024年)12月15日、ドイツ最初の信号機がポツダム広場で運用開始してからちょうど100年という記事が目に留まった。当連載ではその4カ月前(本誌1223号)にS バーン創業100周年を紹介したばかりだ。後の都市交通に大きな影響を及ぼす二つの重要なモノが同じ1924年のベルリンで相次いで誕生したわけで、私は「黄金の20年代」のこの都市の磁力の強さにあらためて感じ入った。
1924年、ポツダム広場に設置された最初の信号機のレプリカ
さて、その最初の信号機とはどういうものだったのだろう。地下鉄U2のポツダム広場駅から地上に上がり、にぎわいを見せるクリスマスマーケットの屋台をすり抜け、広場中央に置かれたオリジナルのレプリカの真下にたどり着いた。
高さ8.5メートルの緑色の塔は、「交通塔」と呼ばれた。そもそもこの場所に最初の信号機が設置されたのは、当時欧州で最も交通量が多いといわれたその混雑ぶりゆえ。5方向の道が交わる交差点の交通塔の五面それぞれに3色の信号機が並び、てっぺんの位置からそれらを手動で変えていたという。渋滞のど真ん中で、自分が塔の上に立ったことを想像しただけで目が回ってしまいそうだ。
初めてこの塔に登ったのは、フリードリヒ・ランゲという当時39歳の警官。信号の色は緑、白(後に黄色に変わる)、赤で、ランゲはストップウォッチで時間を計りながらギアレバーを操作し、ランプを点灯させていた。もっとも、この新しい技術のシステムは当初、午前の3時間半と午後の3時間に使用を限定していた。それ以前は警官が道路で笛を吹き、手で合図を送って交通整理に当たっていたというから、人件費の大幅な節約にはなったのだろう。
交通渋滞自体はそれ以前の時代からあった。1868年、歩行者と馬車でごった返していたロンドンでは、世界初のガス式信号機が設置されている。1924年12月の点灯初日のポツダム広場では、混乱もあったのだろう。その夜、60歳のドイツ帝国銀行の理事が横断中に馬車にひかれ、翌朝死亡する痛ましい事故が起きた。
上空から見るポツダム広場の様子
1926年には中央制御式の信号システムが導入されたが、全ての信号機が同時に青に変わったため大渋滞を引き起こす。同年末、この交通塔からほど近いライプツィヒ通りに、信号が順番に変わる「グリューネ・ヴェレ」(緑の波)という画期的な系統制御システムが実用されたことで、問題は改善されていった。無数の絵葉書や映画に登場した交通塔は、1937年にこの広場の地下のS バーン建設により撤去されるまで、戦前のポツダム広場の栄華、喧騒、混沌を見守った。
交通塔とS バーンの登場からちょうど100年、現在のベルリンの公共交通は予告なしの運休や遅延が頻発し、ひどい状況にある。相も変わらずカオスが支配する街だ。イライラすることも多いけれど、緑、黄、赤をしっかり守った安全運転、そしてそれらの色が連想させるドイツの政治の安定を願わずにはいられない2025年の年初めである。
ポツダム広場
Potsdamer Platz
1920年代のポツダム広場は、26の路面電車、五つのバス路線、1日2万台の車が通るなど、欧州屈指のにぎわいを見せた。今回ご紹介した交通塔は建築家ジャン・クレーマーの設計により、シーメンス社が建てたもの。1990年代の広場の再開発の際、戦前の記憶をとどめるモニュメントとしてレプリカが造られ、2000年9月から現在の場所に置かれている。
住所:Potsdamer Platz, 10785 Berlin
URL:www.potsdamerplatz.de
信号機の歴史
今回の削減策は、文化芸術の分野に大きな衝撃をもたらしている。例えば、ベルリンの先端的な劇場の一つであるシャウビューネは、180万ユーロの削減を告知されたことを受け、実験的な上演を行うスタジオを閉鎖する緊急措置と共に、2025年末の破産を危惧する声明を発表。削減策の影響は、ベルリン国際映画祭にも及ぶとみられている。