ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコントラバス奏者、エーバハルト・シュプレーさんは、長年の音楽活動を通じて、日本の音楽愛好家がヨハン・セバスティンアン・バッハ(1685-1750)の作品に寄せる情熱に感銘を受けてきたといいます。そのシュプレーさんに、ある時こんな疑問が浮かびました。「バッハとその家族は、当時日本のことを知る機会はあったのだろうか?」と。
2月10日、この問いを主題にしたシュプレーさんの講演会が、ベルリン独日協会の主催で行われました。バッハがライプツィヒに住んでいた時代、徳川幕府の日本は鎖国の真っただ中。当時のライプツィヒ市民にとって、極東の日本はあまりに遠い存在だったのは確かでしょう。しかし、博士号を持つ音楽学者でもあるシュプレーさんは、注目すべき調査結果を明らかにします。
エーバハルト・シュプレーさん。ベルリン日独センターで行われた講演会後に
鎖国の時代、オランダの東インド会社(VOC)だけは日本との通商を許可されていました。当時から出版業が栄えていたライプツィヒでは、VOCによって長崎の出島に派遣された数少ないドイツ人を通して、日本の情報を比較的容易に入手することができました。例えば、エンゲルベルク・ケンプファー(1651-1716)の有名な『日本誌』。1749年にドイツ語版が出版されますが、その序文はライプツィヒで書かれています。やはり出島に勤務したゲオルゲ・マイスター(1653-1713)は、後にドレスデンの宮廷庭師となり、日本の植物や盆栽についても述べた東インドの植物に関する本を出版しました。「バッハの妻で園芸愛好家だったアンナ・マグダレーナはこの本を読んでいたのではないでしょうか」とシュプレーさんは推測します。
シュプレーさんの小冊子「J.S.バッハと彼の家族は当時 の日本に関して何かを知り得たか?」
また、ライプツィヒに生まれ、出島に派遣、江戸を訪れた経験も持つカスパー・シャームベルガー(1623-1706)の人間関係をたどっていくと、バッハ家の子どもの代父とつながります。当時の新聞広告を見ると、見本市の時期に日本の墨汁や素描などが売りに出されていたことが分かり、「ひょっとしたらバッハ一家の目にも留まっていたのではないか」と想像させてくれます。
「日本とドイツの交流は、一般には修好通商条約が結ばれた1861年から始まるとされていますが、300年以上も前、ライプツィヒの人々は日本について知ることができました。ザクセン出身の著名な人物が当時の日本に刺激を与え、さまざまな発展に影響を及ぼしていたのです」。こう語るシュプレーさんは、ドイツ語と日本語で小冊子を作り(日本語訳監修:粂川麻里生、編集協力:穎川栄治)、関心を持つ人に配布しています。バッハと日本を結ぶ、さらなる調査の結果にも期待がかかります。
エーバハルト・シュプレーさんの個人サイト:www.anna-magdalena-bach.com