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おいしいドイツを食べ尽くす! - ドイツ郷土料理ガイド

おいしいドイツを食べ尽くす!ドイツ郷土料理ガイド

ドイツ料理といえば、ソーセージ、ジャガイモ、ザワークラウト……と、それ以上思いつかないという人も少なくないだろう。そんなドイツにも、地方ごとに人々に愛され続けてきた郷土料理が数多く存在する。本特集では、知ったらきっと食べてみたくなること請け合いのドイツの郷土料理を一挙にご紹介する。さらにドイツの食にまつわる歴史的エピソードや、現代ドイツ人のグルメ事情も解説。いよいよ夏休みシーズン、ドイツ国内の旅先でおいしいものを食べ尽くすヒントにして!(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:本誌984号「ドイツ美食マップ 郷土料理編」

ドイツ料理の歴史

ローマ帝政時代の歴史家タキトゥスが紀元100年頃に執筆した『ゲルマニア』によれば、ドイツ人の祖先であるゲルマン民族は「大麦や小麦から醸造された液体」、すなわちビールを好んで飲んでいたという。それと同時に、彼らの食事はいたってシンプルで、木の実や新鮮な狩猟肉、牛乳から作ったチーズなどの動物性食材に依存していたことも記されている。ローマ文化からすれば、これらの食習慣は「野蛮」と見なされており、「ゲルマン民族の食べ物は単に空腹を満たすもの」とやや批判的な視点で捉えられていた。

しかし現在の研究では、ゲルマン民族の食事は実は非常に健康的で、肉を使わないシチューや新鮮なハーブで味付けした料理が特に好まれていたことが分かっている。さらに北部には、漁業で生活しているゲルマン民族もいたという。

13世紀になると、モンゴル軍の侵略を通じてさまざまな種類のキャベツがもたらされ、ドイツ料理でおなじみのザワークラウトもこの頃から作られるようになる。また、じゃがいもが登場したのは16世紀と遅かったが、ドイツ文化圏の食生活に革命をもたらしたといえる存在で、後に国民食となった(詳しくはp9)。さらに18世紀以降の工業化によって食品産業が発展すると、移民労働者の料理がドイツ各地の伝統料理と混ざり合うようになり、さまざまなバリエーションのドイツ料理が誕生したのだった。

19世紀後半にドイツが統一されると、郷土料理は各地方のアイデンティティーを保つ役割も担った。ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872)が「人間は食べたもので決まる」と言ったように、同じものを食べることがそれぞれの土地に住む人々の帰属意識を高めたのである。

参考:Südwestrundfunk「Wie ernährten sie sich? | Hintergrund」、Kleine Geschichte der Esskultur「Hamburger Abendblatt」、佐藤洋一郎著『食の人類史』 (中公新書)

MAP

MAP

北部
  • 1 シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州
  • 2 自由ハンザ都市ハンブルク
  • 3 メクレンブルク= フォアポンメルン州
  • 4 ニーダーザクセン州
  • 5 自由ハンザ都市ブレーメン
東部
  • 6 ベルリン州
  • 7 ブランデンブルク州
  • 8 ザクセン=アンハルト州
  • 9 ザクセン自由州
  • 10 テューリンゲン自由州
西部
  • 11 ノルトライン=ヴェストファーレン州
  • 12 ヘッセン州
  • 13 ラインラント=プファルツ州
  • 14 ザールラント州
南部
  • 15 バーデン=ヴュルテンベルク州
  • 16 バイエルン自由州

ドイツ北部(地図❶~❺)

Labskaus ラプスカウス塩漬け肉の目玉焼き載せ

塩漬けにした牛や豚のひき肉にビーツやじゃがいも、玉ねぎを混ぜ合わせたものを叩いてペースト状にしたものに、目玉焼きを載せていただく料理。付け合わせの定番は、ニシンの甘酢漬けやピクルスなど。18世紀に船乗りのために作られるようになり、デンマークやスウェーデン、ノルウェーにも同様の料理がある。

Finkenwerder Scholle フィンケンヴェルダー ショレフィンケンヴェルダー風カレイのムニエル

刻んだベーコンとカレイをバターでソテーした魚料理。ハンブルク東部のフィンケンヴェルダー地域で食べられていたことからその名が付いた。淡泊な味のカレイに、バターのコクとベーコンの塩味がマッチ。外はカリッと、中はふんわりと焼き上げられる。

Birnen, Bohnen und Speck ビルネン ボーネン ウント スペック洋ナシ、インゲン、ベーコンの煮物

洋ナシが収穫される8~9月にかけてよく食べられるこの料理は、レストランのメニューにはGrööner HeinやGrönen Heinとも記載されている。洋ナシは青く甘みの少ないものを使用する。素朴で意外な組み合わせだが、ベーコンのうま味と洋ナシの酸味がほどよく調和した料理。

Grünkohl und Pinkel グリューンコール ウント ピンケルケールの煮込みとピンケルソーセージ

ビタミン豊富な冬の野菜グリューンコール(ケール)を煮込み、ドイツ北部でポピュラーなピンケルソーセージと共にいただく。ブレーメン名物として知られるが、ニーダーザクセン州でもよく食べられている。ピンケルソーセージには豚肉や穀物、ラード、玉ねぎなどのミンチがたっぷり入っていてボリューム満点。ちなみに「Pinkel」は、フリースラント地方の方言で「小さな指」を意味する。

Geräucherter Aal ゲロイヒャーター アールウナギの燻製 (くんせい)

ドイツ北部でよく食べられる、ウナギの燻製。燻製にレモン汁を振りかけてそのまま食べたり、パンに載せてサンドイッチにしたり、スープに入れて食べる方法も。燻製方法は、内臓を取り、頭から吊るして丸ごと(いぶ)す。日本の蒲焼のように脂を落とす調理法ではないため、脂分は多め。

燻製の様子燻製の様子

ドイツ東部(地図❻~❿)

Leber Berliner Art mit Äpfeln レバー ベルリーナー アート ミット エプフェルンベルリン風仔牛のレバー焼きリンゴ添え

ビタミンA・Bや鉄分などを豊富に含む栄養価の高いレバー。牛のレバーの塊をじっくりとソテーし、赤ワインソースをかけていただくボリューム満点の一品。付け合わせは、バターでソテーしたリンゴのスライスにマッシュポテト、フライドオニオンなど。

Rollmops ロールモップスニシンの甘酢漬け

ピクルスと玉ねぎのスライスをニシンで巻いて酢漬けにしたオードブル料理。オリーブを入れることもある。巻いたニシンをほどいてパンに載せる食べ方も。世界的に共通の呼称だが、名前の由来は実はドイツ語。料理の見た目がパグ犬(Mops)に似ていることからこの名が付いた。ベルリン発といわれているが、ドイツ北部でもよく食べられている。

Gekochtes Eisbein ゲコフテス アイスバインゆで豚すね肉

アイスバインは、日本でもよく知られる代表的なドイツ料理。豚のすね肉を骨付きのまま塩漬けにし、ハーブや香味野菜と共に長時間ゆでて作る。皮にはコラーゲンがたっぷり含まれている。マスタードを付けていただくのが主流。付け合わせには、定番のザワークラウトをどうぞ。

ドイツ西部(地図⓫~⓮)

Rheinischer Sauerbraten ライニッシャー ザウアーブラーテンライン地方の牛肩肉ロースト

赤ワインビネガーにリンゴや玉ねぎ、セロリなどを加えた漬け汁に、牛肩肉(鹿肉の場合もある)を数日間漬け込んで蒸し焼きにした料理。ほのかな酸味が特徴だ。ソースは、漬け汁に干しぶどうやはちみつを加えて甘くし、裏ごしして煮詰める。ライン地方では定番の家庭料理。

Himmel un Äd ヒンメル ウン エードブラッドソーセージとリンゴ入りマッシュポテト

ケルンの郷土料理で、カリカリに焼いたブラッドソーセージに、ローストした玉ねぎ、リンゴの入ったマッシュポテトが付け合わせになっている。ヒンメル・ウン・エードはケルンの方言で「天と地」という意味。「地中のリンゴ」と呼ばれるじゃがいも(Erdapfel)と、天に向かって実を成すリンゴ(Apfel)のことを示している。

Frankfurter Grünesoße フランクフルター グリューネゾーセフランクフルト風グリーンソース

ヨーグルト、サワークリーム、マヨネーズに刻んだ香草(パセリやクレソン、ディルなど)やニンニク、玉ねぎなどを入れて裏ごしして作る、さっぱりとした冷製ソース。ゆでたじゃがいもやゆで卵に付けていただくのがポピュラーな食べ方。ソテーした魚や肉料理に合わせることもある。

ドイツ南部(地図⓯~⓰)

Zwiebelkuchen ツヴィーベルクーヘン玉ねぎケーキ

ケーキ(クーヘン)といっても甘くなく、パン生地やパイ生地の上に大量の玉ねぎとベーコン、卵、サワークリームを混ぜたものを載せて焼いた、ピザやキッシュのような食べ物。玉ねぎの収穫時期に家庭でよく作られる。ツヴィーベルクーヘンを食べるときは、フェーダーヴァイサー(ワインになる前の発酵途中のアルコール飲料)をお忘れなく。

Käsespätzle ケーゼシュペッツレチーズシュペッツレ

細長くちぎって茹でたシュペッツレ(パスタに似た卵麺)とすりおろしたチーズを絡めた料理。仕上げに揚げた玉ねぎを添える。チーズは主にベルクケーゼ(アルプスで放牧されている牛のチーズ)やエメンタールチーズを使用。シュペッツレは、シュヴァーベン語で「小さなスズメ」を意味する。

Fränkisches Schäufele フレンキッシェス ショイフェレフランケン風豚肩肉のロースト

豚の肩肉を刻んだ根菜や玉ねぎ、ビールと共にオーブンで2~3時間、豚肉が黄金色になり、表面がカリッとなるまで焼く。付け合わせは、クヌーデル(じゃがいも団子)やザワークラウト、赤キャベツなどさまざま。ショイフェレは南ドイツの方言で「豚の肩肉」を意味する。

Schwäbische Maultaschen シュベービッシェ マウルタッシェンシュバーベン風マウルタッシェ

正式名称はマウルブロン・タイヒタッシェ。大きなパスタ生地の包みの中にほうれん草やひき肉などの具が入っており、ソースをかけていただくほか、スープの具としても食される。キリスト教徒が肉食を禁じられている聖金曜日に、どうしても肉が食べたくて思い付いたといわれる料理。

Schweinehaxe シュヴァイネハクセ豚すね肉ロースト

バイエルン名物といえば、シュバイネハクセ。アイスバインと同様に豚のすね肉を使った料理で、こちらは皮をカリカリになるまで焼き上げる。バウアーブロート(農家のパン)やブレッツェルと一緒に食べるのがバイエルン流だ。ビールの祭典であるオクトーバーフェストにも欠かせない一品。ぜひビールと一緒に楽しもう。

Schupfnudeln シュプフヌーデルン南ドイツ風ニョッキ

シュプフヌーデルンは、南ドイツで人気のあるニョッキのような麺。基本材料は卵、小麦粉、水だが、17世紀にじゃがいもが栽培されるようになってからは、じゃがいもも使われるようになった。グラタンにしたり、ザワークラウトと絡めたりしていただく。砂糖をまぶしてデザートにしてもおいしい。

ドイツの食にまつわるコラム

じゃがいもがドイツ人の主食になるまで

ポツダムのサンスーシ宮殿にあるフリードリヒ大王のお墓には、じゃがいもが供えられているポツダムのサンスーシ宮殿にあるフリードリヒ大王のお墓には、じゃがいもが供えられている

欧州のじゃがいもの歴史は16世紀からで、スペイン人が南米から持ち帰ったことがはじまり。最初は食用ではなく、観賞物や薬草として、植物学者や王侯の庭園に珍重されていた。17世紀にはドイツでも知られるようになり、フランケン地方の農民が野外栽培を始めた。栽培は非常に成功し、ほかの公国やプロイセンにも供給されるように。しかし塊茎 (かいけい)(じゃがいものように栄養貯蔵のため地中で茎が肥大化したもの)を食べることに抵抗があったようで、農民の中には栽培に抵抗した者が多かった。イヌですら食べたがらず、地上部分には毒があるとも考えられていた。

じゃがいもが広く普及したのは、18世紀半ばころ。フリードリヒ大王は食料不足を解消するため、1756年に「じゃがいも令」を発令し、全ての農家にじゃがいもの栽培を義務付けた。特にブランデンブルク州などの寒冷な地域、痩せた砂地でも大量に収穫できるじゃがいもは貴重だった。また啓蒙家ルドルフ・ツァハリアス・ベッカー(1752-1822)が1788年に著した『農民のための生活の手引き』は当時ベストセラーとなり、じゃがいもの性質や利点についても紹介している。こうしてじゃがいもに対する人々の偏見は徐々になくなり、栽培が定着していく。19世紀になると、人口の増加に伴い大都市が誕生し、栽培も大規模になっていったのだった。

参考:Kartoffellager- und Handelsgenossenschaft Unteres Erzgebirge Großwaltersdorf e. G.「Die Kartoffel – unser wichtigstes Grundnahrungsmittel」、本誌1056号「じゃがいも事典」

ゲーテの美食家としての顔

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)

ドイツで最も重要な作家・詩人の一人であるゲーテは、並外れた美食家でもあった。同じ時代に活躍した劇詩人フランツ・グリルパルツァーは、「偉大な巨匠は時に悪いものを書くが、決して悪いものを食べることはなかった」と、ゲーテの美食家ぶりについて語っている。食事はゲーテにとって副次的なものではなく、人生に必要不可欠なものだったのだ。

そのため彼の食卓は豊かで、非常に洗練されたものであった。新鮮な果物や野菜もまた食の楽しみの一つで、特にゲーテが好んで食べたのはカブだったという。ゲーテはしばしば自宅に客を招待し、厳選された特産品を振る舞った。ゲーテが好んで食べていた料理は、ボリュームたっぷりのパテ、フランクフルトのグリューネゾーセ、アンチョビのサラダ、パルメザンチーズ入りのプレーンパスタ……などなど。実はゲーテの祖母のアンナ・マルガレーテ・リントハイマーは手書きのレシピ本を残しており、ゲーテも祖母の味を受け継いで料理をしたといわれる。このレシピ本は、ヴァイマールのGoethe- und Schiller-Archivに保管されており、18世紀半ばのフランクフルトの中流家庭の様子を伺い知ることができる貴重な文献でもある。

参考:Stadt Wetzlar「Speisen wie zu Goethes Zeiten」

ドイツ式夕食「冷たい食事」はもう古い?

一般的に午後5~7時がアーベントブロートの時間とされる一般的に午後5~7時がアーベントブロートの時間とされる

ドイツの夕食は「Abendbrot」(アーベントブロート、夜のパン)や「Kaltes Essen」(カルテスエッセン、冷たい食事)と呼ばれ、文字通りパンとハムやソーセージ、チーズなどを食べる。驚くことに、夜に温かい食事を取ることが健康に良くないと思っている人も存在する。そもそもこのようなシンプルな夕食を取るようになったのは、1920年代ごろから。工場の食堂では昼に温かい食事を取っていたため、夜は簡単に済ませるスタイルが広まった。戦後は女性の社会進出も進み、ささっと用意できるカルテスエッセンが定着したのだった。

しかし、最近ではその文化も徐々に廃れてきているという。2019年のネスレによる調査では、夕食がメインの食事であると回答した人は全体の38%だった。ライフスタイルが多様化したことに加え、スペインやギリシャなど夕食に温かい食事を取る他国からの影響もある。また、ベジタリアンが増加し、ソーセージやハムの消費量が減ったことも少なからず関係していそうだ。一方で、高齢者や子どもがいる家庭では今もカルテスエッセンが好まれる傾向にあるという。ドイツには何百種類というパンやソーセージがあるため、カルテスエッセンは「飽きが来ない」のが良いところ(諸説あり)。忙しいときやあまり食欲のないときに取り入れてみては?

参考:GEO「Wandel der Esskultur: Sterben die deutschen Schnittchen aus?」
最終更新 Dienstag, 20 Juni 2023 14:51
 

まだまだ知らない魅力がいっぱい! - ロマンチック街道をたどる

まだまだ知らない魅力がいっぱい!ロマンチック街道をたどる

ドイツの観光ルートといえば、ヴュルツブルクからフュッセンを結ぶロマンチック街道を思い浮かべる人が多いだろう。事実、街道沿いの各スポットは世界中から人気がある。一方で、ロマンチック街道ができた歴史や各都市で活躍した人たち、また中世から受け継がれてきた地域特有の文化など、あまり知られていない見どころも。本特集では、そんな世界中の心をつかむロマンチック街道の魅力を深掘りする。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:Romantische Straßeホームページ、Deutsche Zentrale für Tourismus e.V.「Die TOP 100 Sehenswürdigkeiten in Deutschland」、Rothenburg Tourismus Serviceホームページ

ドイツの「悪印象」から挽回ロマンチック街道の誕生物語

第二次世界大戦の後、西ドイツは「経済の奇跡」によって着実に復興の道を進んでいた。一方で、ナチス政権が引き起こした悲惨な戦争の悪いイメージはぬぐい切れていなかった。そんななか、戦勝国によって四つに分割された西ドイツの米国占領地域で、米国人観光客に向けたイメージづくりが始まった。そして1950年、政治家や観光関係者がアウクスブルクのホテルに集まり、ヴュルツブルクからフュッセンまでの街々を結ぶロマンチック街道が考案され、協働団体が結成される。

街道沿いの街や村には、中世の街並みが残されていて、歴史的な宮殿や城、教会など、見応えがあるスポットにあふれていた。特に戦争で印象付けられた「悪いドイツ」とは違う、伝統的で生活感のあるイメージを観光客にアピールすることを強く意識していた。また同団体は、ゆくゆくは米国以外の外国人旅行者にもロマンチック街道を広めたいという目標を当初から持っていたという。

ロマンチック街道のイメージ戦略は見事に成功した。米軍の兵士たちは駐屯地に家族を招き、まるで絵画の世界に迷い込んだかのような美しい風景を家族にも見せようと、休暇をロマンチック街道で過ごすようになった。この評判を受け、西ドイツ政府観光局は特に米国やカナダに向けて、ロマンチック街道を売り込むようになっていく。こうして大戦の混乱を乗り越えて、ドイツ観光業界はようやく第一歩を踏み出したのだった。

立派な制服に身をつつむバス乗務員立派な制服に身をつつむバス乗務員

1950年5月には最初のプレスツアーが企画され、各国から十数名のジャーナリストや旅行本の著者が参加。ロマンチック街道の観光の魅力を世界に向けて発信した。翌月には南ドイツ最長の長距離バス路線が運行を開始。377キロにわたる長距離路線は毎日両方向に運行された。バスには試験的に英語の通訳も乗車し、やがて専用の乗務員が同行するようになった。

こうしてロマンチック街道は、ドイツの観光ルートとしての地位を確立した。この成功は世界中に広まり、日本でもドイツをモデルにして長野県上田市から宇都宮市まで伸びるロマンチック街道が造られ、1988年に姉妹街道になっている。

1951年にはローテンブルクからミュンヘンを往復する特急車両を運航するようになり、各駅でロマンチック街道バスに乗り換えることができる仕組みを構築した1951年にはローテンブルクからミュンヘンを往復する特急車両を運航するようになり、各駅でロマンチック街道バスに乗り換えることができる仕組みを構築した

ここだけは行っておきたい!ロマンチック街道沿い必見の都市4選

ロマンチック街道はヴュルツブルクからフュッセンまで約400キロもあるが、そのなかでも一度は見る価値がある4都市をご紹介。歴史はもちろん、知られていない逸話から、今もなお街が愛されている理由を探ってみよう。 参考:Münchener Zeitungs Verlag「Würzburg - Lage, Geschichte, Wirtschaft, Politik und Sehenswürdigkeiten von Stadt und Landkreis」

MAP

MAP ①
ヴュルツブルクWürzburg

ロマンチック街道のスタート地点のヴュルツブルクは、マイン川がある立地を活かして発展した。ヴュルツブルクが文書で初めて言及されたのは704年のことだが、すでに紀元前1000年ころ、現在のヴュルツブルク市周辺にはケルト人の避難所としてマイン川の丘に城塞が築かれていたという。そして司教座が創設されて以来、大司教の街として栄えた。

見どころ❶マリエンベルク要塞

マイン川を見下ろすマリエンベルク(マリアの山)の名前は、706年にその丘に建てられた教会が聖母マリアに捧げられたことに由来する。13世紀に要塞が築かれ、大司教が代々居住した。現在要塞にはマイン・フランケン博物館があり、彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの彫刻を見ることができる。

見どころ❷ユネスコ世界遺産のレジデンツ

世の中が安定してきた17世紀、大司教は丘の要塞に住む必要がなくなり、街の中心に豪華絢爛 (ごうかけんらん)なバロック様式のレジデンツを建設した。現在はユネスコの世界文化遺産に指定されている。マイン川の斜面にはワイン用のブドウが栽培されており、レジデンツ地下にあるヴュルツブルク国立醸造所も見学可能。

逸話救済を目的として設立された醸造所

ヴュルツブルクにはヴュルツブルク国立醸造所以外に二つの大きな醸造所、ビュルガーシュピタール(Bürgerspital)、ユリウスシュピタール(Juliusspital)がある。二つの醸造所は、「助けを必要とする人々」の救済を目的として設立されたところが興味深い。ビュルガーシュピタールは、1316年に街の裕福な市民ヨハネス・フォン・シュテルンが妻と共に貧困層や病人を受け入れる財団病院を設立したのが始まり。今日でも醸造所と市民の寄付によって老人ホームと病院が運営されている。ユリウスシュピタールは、ユリウス・エヒターが私財を投じて取り組んだ老人ホームと病院で、1576年からワインを造り始めた。ヘッセンのクロスター・エバーバッハに次いでドイツ第2の規模を誇り、収益は施設の運営に充てられている。

MAP ③
ローテンブルクRothenburg ob der Tauber

970年頃、東フランケン地方の貴族ラインガーがタウバー渓谷にデトワング教区を設立したのが、ローテンブルクの始まり。1142年、コンラート3世が領域を獲得し、タウバー川の山上に「Rote Burg」(赤い城)を建設。現在の都市名「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」とは「タウバー川上方の赤い城」という意味で、この城に由来する。

見どころ❶ブルク公園

都市名に「ブルク」(城)があるため、ローテンブルクに城があると思われがちだが、残念ながら現在城は存在しない。しかしかつて城があったブルク庭園からは、ローテンブルク旧市街のパノラマを見渡すことができる。ここから眺めるローテンブルクの街並みは、まるで絵本の世界だ。

見どころ❷市長の伝説「マイスタートゥルンク」

三十年戦争でローテンブルクは破滅的な状況に陥った。敵の将軍が「3リットルのワインを一気に飲み干したら街を救おう」と提案し、市長が自らこの挑戦を受けて見事成功。この話は「マイスタートゥルンク」として語り継がれ、毎年5月に祭りが開かれるほか、広場にはこの様子を描いた仕掛け時計がある。

逸話奇跡ではない、街並み保存活動

ローテンブルクでは古くから街並み保存運動があり、1898年に「アルテ・ローテンブルク協会」が設立された。中世からの古い建物を残すべく市当局が監視の目を光らせており、たとえ個人住宅でも許可なしには増改築ができない。この郷土愛は、小さな国家の集まりだった時代を経て、1871年にドイツが統一国家として成立したとき、かつての自国に対する愛着が強まったことから生まれたものだという。第二次世界大戦では旧市街地の約45パーセントが破壊されたが、市民たちは寄付を惜しまなかった。街並み保存のための市の指導は今日も健在で、市民は傾斜のある床やたわんだ梁がむき出しの室内で生活したり、マクドナルドは街並みに調和するように鉄製の装飾が施されていたりする。

MAP ④
ネルトリンゲンNördlingen

898年にカロリング朝の領地「ノルディリンガ」として、初めて文献に登場したネルトリンゲン。城塞は敵が攻めにくいように高台や川の上に建設されるのが一般的だが、ネルトリンゲンは平地である。「リース盆地」と呼ばれる平らな土地が生まれたのは、500万年前に隕石が落下したクレーターの跡。敵の進撃を防ぐため、とりわけ強度の高い市壁が築き上げられた。

見どころ❶製皮職人の家

中世には皮革産業が盛んで裕福な市民の多くが製皮業者に所属していた。今でもゲルバーガッセという小路があり、職人の家が保存されている。潤っている職人の家はさすがに立派で壁には組合のマークが。家の裏には小川が流れており、仕事に不可欠だった水を自由に使用できた。

見どころ❷市壁

街を囲む見事な円形を描いた市壁は、14世紀にバイエルン王の命により建設された。今でも市壁の上には見張り用の通路があり、街を完全に一周することができる。ちなみにマンガ作品『進撃の巨人』にも街を囲む壁が登場するが、ファンの間ではネルトリンゲンがモデルではないかと噂されている。

逸話市民に愛される塔守

ゲオルグ教会の鐘楼には塔が建てられた1490年以来、塔守が寝泊まりをしている。今でも夜になると22時~深夜0時まで、塔守が1時間おきに展望台へやって来る。しかも塔の上から低い音で「ゾー・ゲゼル・ゾー!」(ほら、豚が行く!)と叫んでいるのだ。これは1440年の出来事に由来する。この街を奪おうと企んでいた近辺の領主がおり、その兵士たちが夜中に市壁の周りにいた。ところが女性が街の門から逃げていくブタを発見し「ブタが逃げた!」と騒ぎ立てた。驚いたのは敵の兵士たち。まさか豚のことで騒いでいるとは思わず、気づかれたと勘違いして、さっさと逃げてしまった。結果的にこの言葉が街を救ったということで、事件以来、安全を確認するための合言葉になったという。

MAP ⑤
アウクスブルクAugsburg

地名の由来となったのは、ローマ皇帝アウグストゥス。彼は紀元前15年にこの街を創設し、軍営を設けていた。13世紀以降、アウクスブルクは帝国自由都市の権利を得て、関税、税金、裁判の権利が完全に与えられるようになった。帝国自由都市になってから裕福な貴族がますます影響力を増し、特に力のあったヴェルザー家とフッガー家の名残りが今も街中で見られる。

見どころ❶シェッツラー宮殿

15~16世紀は欧州における重要な貿易拠点として発展し、豪商たちは芸術を保護するなど、文化に貢献した。銀行家リーベルト・フォン・リーベンホーフェンもその一人。彼の館「シェッツラー宮殿」は現在アウグスブルク市立博物館になっており、バロック芸術作品や宗教画などが収蔵されている。

見どころ❷アウクスブルク市庁舎

17世紀に建てられたルネッサンス様式のアウクスブルク市庁舎は、アウクスブルク出身の建築家エリアス・ホルが手がけた。当時、アウクスブルクは重要な金融・貿易都市であったため、市庁舎は重要な役割を果たし、街の誇りと自信の象徴でもあった。現在も市庁舎は市のランドマークとなっている。

逸話築いた富を貧しい市民のために使ったフッガー家

ドイツのフッガー家は、イタリアのメディチ家と並んで中世の大富豪として知られている。ヤーコプ・フッガーは父の商売を受け継ぎ、銀の取引で巨大な富を築いた。その富を彼は貧しい人々のために使い、低所得者のための福祉施設フッゲライを1521年に完成させる。家賃は年間わずか1ライングルデン(当時の手工業者手取りの2週間分)。この家賃は財団により今日も守られており、ドイツマルク時代は光熱費別で年間72ペニヒ、現在でもたったの88セント。入居条件は低所得であること、罪科が無いこと、アウクスブルク市民であること、敬虔なカトリック信者であること、創立者の冥福を1日に3回礼拝堂で祈ること……など、条件が厳しくないことから長い順番待ちとなっている。

ロマンチック街道沿いの街で傑作を生み出した人物

ロマンチック街道沿いの街には、現在でも多くの人を感動させるものを造った人物がいる。3人の人物たちとその傑作をご紹介しよう。 参考:Bayerischer Rundfunk「Lichtgestalt und Lichtgestalter des Rokoko」、Süddeutsche Zeitung「Ludwigs Traum in Weiß」、Denkmalstiftung Baden-Württemberg「Dominikus Zimmermann」

過酷な運命をたどった彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーTilman Riemenschneider

リーメンシュナイダーはヴュルツブルクに住み、起業家として成功した人物。祭壇、彫像、記念碑、そのほかの宗教的な品々を、地元の高い需要に応えてオーダーメイドで製作し、バイエルン州で名が知れ渡った。数十年かけて工房を拡大し、晩年には40人ほどの弟子を雇っていた。さらにいくつかの家屋と広大な土地とブドウ畑を所有し、市民からの人望も厚く、1520年にはヴュルツブルクの市長も務めた。

そんななか、人生を揺るがす事件が起こる。16世紀に南ドイツで起こった農民戦争はヴュルツブルクでも発生。大司教の支配から解放されるようにと、市民の大多数は農民側についてマリエンベルクを攻めた。リーメンシュナイダーもヴュルツブルク市長として農民側に立つ。しかし大司教の要塞はそう簡単には崩れず包囲に耐え、反乱は鎮圧された。議会は反乱軍を支援したため、リーメンシュナイダーとほかのメンバーは逮捕され、投獄されてしまう。数カ月後に解放されたが、役職、名誉、財産を失ったリーメンシュナイダーは1531年に死去した。さらに彼の作品の多くは、その後の宗教戦争でプロテスタントに破壊されてしまっている。クレーグリンゲンのヘルゴット教会にある「聖母マリアの昇天」は、リーメンシュナイダーの最高傑作といわれる。彼は祭壇に当たる自然光を計算して、彫刻がドラマチックに見えるように工夫した。巡礼者の中には、実際にマリアが天に昇ったと信じることもあったという。

ロマンチック街道内にある作品

「聖母マリアの昇天」ヘルゴット教会(Herrgottskirche)

クレーグリンゲン(地図❷) www.herrgottskirche.de

空間の創造者としての建築家ドミニクス・ツィンマーマンDominikus Zimmermann

ヴェッソブルン近郊の村で生まれたツィンマーマン。5歳年上の兄は、後に有名な画家で左官職人になるヨハン・バプティストだ。ヴェッソブルン修道院の工房で訓練を受け、のちに兄弟そろってバロックの化粧しっくい職人の流派「ヴェッソブルン派」の代表的な存在となった。その後、化粧しっくい職人、大理石職人、棟梁、建築家としてランツベルク・アム・レヒに移り、1716年に市民権を取得。1719年には同市庁舎のファサードのデザインを依頼された。この美しいファサードは、今日でも広場の顔となっている。1725年以降、彼はますます建築に傾倒するようになり、棟梁および建築家として無数の祭壇、教会、修道院、礼拝堂を造り上げた。

ツィンマーマンが目指していたのは、「建築と芸術の融合」。つまり装飾、絵画、建築が単体として目立つのではなく、全てを組み合わせた総合的な芸術空間のことである。彼の生涯の仕事の集大成になるヴィース教会は、1746年から建設開始。教会に魅了されたツィンマーマンはひときわこの仕事に情熱を傾け、世界で最も完璧なロココ様式の教会を生み出した。1755年以降、彼はヴィース教会の近くに建てられた自分の家に移り住み、1766年に自宅で息を引き取った。現在、同教会はユネスコの世界遺産に登録されている。

ロマンチック街道内にある作品

旧市庁舎(Historisches Rathaus)

ランツベルク・アム・レヒ(地図❻) www.landsberg.de ヴィースの巡礼教会(Wieskirche)

シュタインガーデン(地図❼) www.wieskirche.de

夢の城を再現したバイエルン王ルートヴィヒ2世Ludwig II.

バイエルン国王ルートヴィヒ2世は幼い頃、フュッセン郊外のホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。城内に描かれたドイツ中世騎士物語の壁画は、やがてルードヴィヒを伝説の世界に導いていく。18歳でバイエルン国王に戴冠したルートヴィヒは長身で美しく、国民の人気を集めた。彼はリヒャルト・ヴァーグナーの楽劇の世界にとりつかれ、ヴァーグナーのパトロンとなる。女性に興味がなかった彼は、結婚せずに中世騎士物語にのめり込んでいく。やがて伝説の世界を実現させるため次々に城を建設して、国を破綻寸前に追い込んだ。そして夜と昼が逆転した生活を送っていたルートヴィヒは精神病と診断され、強制的に退位させられることに。

1886年6月12日、ノイシュヴァンシュタイン城からシュタルンベルク湖畔のベルク城へ送られた。翌日の夕方、医師のグッデンと共に散歩に出かけたルードヴィヒはそのまま戻らず、夜になってグッデンと共に湖の浅瀬で水死体となって発見された。死因として多くの推測が飛び交ったが解明されず、未だに謎に包まれたままである。

ロマンチック街道のフィナーレに相応しいノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツで最も美しい城と謳われている。ルードヴィヒが憧れた中世騎士物語の世界を再現し、きめ細かな装飾、鮮やかな色彩、構造全てに独特な趣がある。

ロマンチック街道内にある作品

ノイシュヴァンシュタイン城

寝室は鮮やかなブルーを基調としている。ゴシック調の彫刻が見事だ寝室は鮮やかなブルーを基調としている。ゴシック調の彫刻が見事だ

シュヴァンガウ(地図❽) www.neuschwanstein.de
最終更新 Dienstag, 06 Juni 2023 17:24
 

一度は訪れたい動物園ガイド付き - 歴史からひも解くドイツの動物園

一度は訪れたい動物園ガイド付き歴史からひも解くドイツの動物園

82%の人が「動物園が好き!」というドイツでは、各地の動物園がそれぞれ工夫をこらしながら人々を惹きつけ、何より動物たちの幸せのために教育と研究、そして自然保護に力を注いでいる。しかし、そこに至るまでには暗い過去の存在も。本特集では、そんなドイツの動物園の歴史をひも解きつつ、新しいコンセプトのもと発展してきた選りすぐりの動物園をピックアップ。背景や理念を知ることで、かわいい動物たちに癒されるだけじゃない、もう一歩先の動物園の楽しみ方が見つかるはず。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

動物園が「動物たちのための場所」になるまで

参考:Verband der Zoologischen Gärten e.V. ホームページ、GRÜNE JUGEND Hamburg「Aufarbeitung der Kolonialen Vergangenheit von Hagenbecks Tierpark jetzt!」、Tagesspiegel Online「Ein Rückblick auf 175 Jahre Berliner Zoo」(2019年8月1日)、スイス公共放送協会「生き物としての動物に、もっと真剣に向き合う」(2021年8月2日)

1. 富と権力の象徴から始まった動物飼育

野生動物の飼育が始まったのは、およそ5000年前の古代エジプト。一部の動物が神として崇拝されていた一方で、戦利品としてキリンやゾウなどが飼われていたという。また古代中国では「知識の園」と呼ばれる場所で、トラやバク、ウワバミなどの珍しい動物たちを飼育。古代ローマ時代の闘技場「コロッセオ」ではライオンやハイエナなどが戦闘に駆り出され、紀元80年にはそこで5000頭もの動物が殺されたとの記録がある。その後も野生動物の飼育は、王族や貴族の特権階級が富と権力を象徴するものとして続いていった。

動物園の前身として知られるのが、1664年にヴェルサイユ宮殿に造られた「Menagerie」(メナジェリー)だ。メナジェリーとは動物をコレクションして見世物にする施設で、ヴェルサイユ宮殿では放射状に七つの囲いが設置されていた。1752年には、ウィーンにも同じくメナジェリーとしてシェーンブルン動物園が誕生。もともとは皇帝フランツ1世が科学的好奇心と家族の娯楽のために造ったものだったが、1779年には市民も無料で入場できるようになった。なお、シェーンブルン動物園は現存する世界最古の動物園として知られており、今も運営されている。

設立当初に描かれたヴェルサイユ宮殿のメナジェリー設立当初に描かれたヴェルサイユ宮殿のメナジェリー

1910年頃に描かれたシェーンブルン動物園。奥のパビリオンは1759年にフランツ1世が朝食用に建てたもので、現在もレストランとして営業中1910年頃に描かれたシェーンブルン動物園。奥のパビリオンは1759年にフランツ1世が朝食用に建てたもので、現在もレストランとして営業中

2. 近代動物園「Zoo」の誕生

今日の動物園を意味する言葉「Zoo」が誕生したのは、19世紀に入ってからだった。1828年に開園したロンドン動物園(London Zoological Gardens)に由来し、同動物園は純粋に動物学研究のために造られた世界初の動物園として知られている。

一方、ドイツではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世がエキゾチックな動物をコレクションし、19世紀初頭にメナジェリーを造っていた。その後、息子のヴィルヘルム4世が王位につくと、1844年に一般にも公開することを決定。こうしてドイツで最初の動物園であるベルリン動物園が誕生したのだった。19世紀後半には、音楽パビリオンやレストランが造られ、社交の場としてもにぎわったという。

動物園(Zoo)は科学機関としての役割も果たすようになり、「生きた博物館」と認識されていた。できる限り多様な生物を展示することが求められたため、結果として動物の種類や飼育数を増やすことになり、檻はますます小さく、積み重ねられることさえあったという。そして19世紀が終わる頃には、ドイツには20以上の動物園や水族館が存在していた。

ベルリン動物園Zoologischer Garten Berlin

首都ベルリンの中心部にある33ヘクタールの敷地で、1200種の動物を飼育するドイツ最古の動物園。二頭のゾウが彫られた門は1900年頃に立てられ、今も多くの来園者を迎えている。2006年に同動物園で生まれたホッキョクグマのクヌートは一躍人気者となった。また2023年5月現在、ドイツで唯一パンダを飼育する動物園である。
Hardenbergplatz 8, 10787 Berlin
www.zoo-berlin.de

1910年頃に描かれたシェーンブルン動物園。奥のパビリオンは1759年にフランツ1世が朝食用に建てたもので、現在もレストランとして営業中1910年頃に描かれたシェーンブルン動物園。奥のパビリオンは1759年にフランツ1世が朝食用に建てたもので、現在もレストランとして営業中

3. 新しい展示方法を生み出したドイツの動物園

動物園史に名を刻んだ施設の一つに、ハンブルクのハーゲンベック動物園がある。1848年に珍しい動物を販売するビジネスを始めたハーゲンベック家は、その後動物展示やサーカスで成功し、1907年に動物園を開園した。この動物園を一躍有名にしたのは、1896年に2代目経営者のカール・ハーゲンベックが特許を取得した「ハーゲンベック式」と呼ばれる展示方法だ。鉄格子をなくし、堀によって人間と動物を隔てているため、無柵式ともいわれる。

カール・ハーゲンベック(1844-1913)カール・ハーゲンベック(1844-1913)

さらに魅力的なのは、まるで同じ空間にさまざまな種類の動物が自由に歩き回っているように見えるパノラマが楽しめる点だ(実際は堀などによって隔てられている)。ハーゲンベック式は、のちに世界中の動物園のお手本となった。

アフリカ・パノラマでは、ダチョウやシマウマを展示し、広大なサバンナのような風景を造ったアフリカ・パノラマでは、ダチョウやシマウマを展示し、広大なサバンナのような風景を造った

そんなハーゲンベックだが、1875年から「Völkerschau」(民族ショー)と呼ばれる、人間展示を行ったことでも知られている。ラップランドから連れてこられたサーミ人をはじめ、イヌイット族やマサイ族など、さまざまな民族を囲いの中で生活させ、大衆の目にさらしたのである。民族ショーは成功を収め、1931年まで続いた。しかし、今日までハーゲンベック動物園は被害を受けた民族へ謝罪をしたり、公式な見解を発表したりしていないため、問題視する声もある。

また、1911年にミュンヘンに開園したヘラブルン動物園も、1928年に新しい展示方法を生み出している。北極、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、オーストラリアと、大陸ごとに動物を展示する「Geozoo」を世界に先駆けて取り入れたのだ。さらにヘラブルン動物園はイザール川の自然保護地区につくられており、人工的な岩場などではなく、自然景観を活かした飼育を実践。現在では世界各地に同じコンセプトの動物園が存在し、日本では東京都の多摩動物公園がそれに当たる。

ハーゲンベック動物園Tierpark Hagenbeck

見どころの多いハーゲンベック動物園でとりわけおすすめは、北極と南極をテーマにした「Eismeer」エリア。ホッキョクグマやペンギンをはじめ、ドイツで唯一のセイウチの飼育も。昨年末に生まれたホッキョクグマのヴィクトリア(写真)の一般公開が待ち望まれている(4月時点で公開時期未定)。
Lokstedter Grenzstr. 2, 22527 Hamburg
www.hagenbeck.de

ヘラブルン動物園Münchner Tierpark Hellabrunn

約40ヘクタールという広大な土地に大陸ごとのエリアがあるヘラブルン動物園は、まるで世界一周旅行をしているような雰囲気を味わえるのが最大の魅力。特に子どもたちにライオンの吠え声、ゾウの強烈な臭い……など、五感全てで動物を感じてもらうことをヴィジョンに掲げている。
Tierparkstr. 30, 81543 München
www.hellabrunn.de

4. ナチス・ドイツの犠牲となった動物たち

1933年にアドルフ・ヒトラーが首相に任命されると、社会のありとあらゆる分野に政治が介入するようになり、首都にあるベルリン動物園もその例外ではなかった。政権樹立1年前には、国家社会主義者であるルッツ・ヘックが園長に就任。さらにナチスの人種政策により、ユダヤ人の株主を排除し、来園も禁止した。動物園の監査役員だったユダヤ人2名も追放され、のちに強制収容所で殺害されている。

また、園長のヘックはヒトラーの右腕ともいわれた軍人ヘルマン・ゲーリングに、ペットとしてライオンの子どもを貸し出している。その後もゲーリングの保護のもと、戦時中も運営を続けた。また1936年のベルリン五輪のために2000平方メートルのライオン展示場を新設し、200万人以上の来園者を記録。このように、ベルリン動物園はプロパガンダにも利用されたのだった。

ライオンの子どもとゲーリング夫妻。成長して扱いが難しくなってからは、動物園に戻されたライオンの子どもとゲーリング夫妻。成長して扱いが難しくなってからは、動物園に戻された

1938年、第二次世界大戦が勃発すると、来園者と従業員のための防空壕が用意され、新設されたヤギ岩にも150人が収容可能なスペースが造られた(気密性の問題のため実際には使われていない)。また爆撃に備え、万が一動物が逃走した場合に捕獲もしくは殺害する計画が立てられていた。1940年以降は徴兵により従業員が不足したため、ポーランドやフランス、そしてソ連の捕虜や民間人が動物園で強制労働させられたという。

そして1943年11月23日夜、連合軍による爆撃を受け、ベルリン動物園は火の海と化した。一夜の攻撃で3割もの動物が犠牲になったという。その後1944年夏に再開されたものの、終戦を目前に控えた1945年4月22日、ついに戦線となったベルリン動物園では塹壕 (ざんごう)が掘られ、動物たちも激しい戦闘に巻き込まれた。

爆撃で破壊されたベルリン動物園の園舎。解放後、いたるところに動物の死体があったという爆撃で破壊されたベルリン動物園の園舎。解放後、いたるところに動物の死体があったという

5月2日に動物園は解放されたが、かつて4000頭いた動物のうち、戦争を生き延びたのはわずか90頭のみ。第二次世界大戦中、ドイツ各地の動物園も爆撃に遭い、逃げ出して射殺されたり、食糧難で餓死したりするなど、数えきれないほどの動物たちが犠牲となったのだった。

戦争を生き延びたベルリン動物園のカバのクナウチュケは、復興のシンボルとなった(1947年撮影)戦争を生き延びたベルリン動物園のカバのクナウチュケは、復興のシンボルとなった(1947年撮影)

5. 現代の動物園が目指すもの

今日、ドイツには大小合わせて800もの動物園がある。第二次世界大戦までの動物園と大きく違うのは、「動物たちのための場所」へと生まれ変わった点だろう。そんな現代動物園の基礎を築いたのが、動物園生物学を創設したスイス人の動物学者ハイニ・ヘディガーだ。ヘディガーはスイスの動物園数カ所で園長を務めた人物で、第二次世界大戦後、野生で共生関係にある動植物を同じ囲いの中で自然に近い形で見せる、いわゆる「生態展示」を世界で初めて行った。動物のニーズを第一に考えたヘディガーの理念に基づき、今日におけるドイツの動物園の多くはレクリエーション、教育、研究、自然保護の四つの柱の上に成り立っている。

動物園ではすでに自然界で絶滅してしまった動物を飼育していることも少なくない。人工繁殖や研究成果は、野生の動物の保護にも有効とされ、動物園で育った動物を自然保護地区に放つことも。主にドイツ語圏の動物園から成る動物園協会(Verband der Zoologischen Gärten e.V.)では、動物園にいる約5分の1の種が絶滅の危機にあり、すでに自然界で絶滅したおよそ50種が飼育されているという。

シュトゥットガルトのヴィルヘルマ動物園では、絶滅危惧種に指定されているボノボを、ドイツで最多である22頭飼育するシュトゥットガルトのヴィルヘルマ動物園では、絶滅危惧種に指定されているボノボを、ドイツで最多である22頭飼育する

さらに現代の動物園では、動物に可能な限り最高の生活をさせることが求められる。身体的および心理的に幸福度が高い動物は、一般的に長生きできる傾向にある。動物の生息地に基づいた自然に近い飼育環境をはじめ、他種との共存、生態に合わせたエサの隠し場所、おもちゃなど、動物たちの幸せのためにさまざまな工夫がこらされている。

また、来園者が生態系や生物多様性について学べる場所として、それぞれの動物園がより魅力的な展示方法を生み出し、さまざまな教育プログラムを実施してきた。近年では、気候変動や環境保護について学ぶのにも動物園は最適な場所であると認識されている。そんな進化を続ける動物園を訪れることは、動物たちだけでなく、自分たちの未来を考えることにもつながるのではないだろうか。次ページではドイツにあるユニークな動物園をご紹介。気になった動物園が見つかったら、ぜひ訪れてみてほしい。

ハーゲンベック動物園のZooschule(動物学校)の様子ハーゲンベック動物園のZooschule(動物学校)の様子

ドイツのユニークな動物園6選

ドイツの動物園はそれぞれ理念やミッションを掲げ、どのように来園者にアプローチするのか、動物たちにとってどんな環境が望ましいかなどを常に考えながら、ユニークなアイデアを実践しているところがいっぱい。そんな数あるドイツの動物園のなかから、一度は訪れてみたい場所をその見どころや人気者と共にご紹介する。

ケルン
1. ケルン動物園Kölner Zoo

1860年に創立されたドイツで3番目に古い動物園。「Begeistert für Tiere」(動物に夢中)をモットーに掲げ、定期的に改築や増築をしながら、動物たちをより身近に感じられる展示方法を追及している。その飼育数はドイツ最大級で、カバたちの楽園ヒッポドーム、独自の生態系を学べるマダガスカルハウス、9種の霊長類が暮らす原始林ハウスなど、ユニークな動物たちが来園者を迎えてくれる。

総飼育数:約1万(約850種)
Riehler Straße 173, 50735 Köln
www.koelnerzoo.de

アルプス以北最大のエレファントパーク

2004年にオープンしたエレファントパークは、アルプス以北で最大規模を誇り、現在10頭のアフリカゾウたちが暮らしている。かつては2~5頭の小グループでの飼育が一般的だったが、2万平方メートルという広大なスペースのおかげで、集団での飼育が実現した。最年少は2020年に動物園で生まれたLeev Marie。

シュトゥットガルト
2. ヴィルヘルマDie Wilhelma

ドイツ唯一の動植物園であるヴィルヘルマは、もともと19世紀にヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世の命によって建てられた保養施設。王の死後は植物園として運営され、1952年に動物飼育が始まった。現在は温室や水族館をはじめ、アフリカ、アマゾン、霊長類などのエリアに分かれている。広大な園内はビオトープとしても機能しており、野鳥だけでも90種以上が生息。ムーア式庭園にある世界最大級の蓮池は夏にぜひ訪れたい。

総飼育数:約1万1000(約1200種)
Wilhelma 13, 70376 Stuttgart
www.wilhelma.de

2022年生まれの五つ子チーター

ヴィルヘルマで初めてチーターの繁殖に成功し、2022年6月に雄3頭、雌2頭の五つ子が誕生した。絶滅危惧種に分類されているチーターは、世界に約7500頭しかおらず、ライオンやヒョウよりも希少。また、ヴィルヘルマではナミビアでの個体保護にも取り組んでいる。そろそろ1歳になる五つ子の成長の様子は、時折ウェブサイトにもアップされるので要チェック!

ハノーファー
3. ハノーファー体験動物園Erlebnis-Zoo Hannover

1865年創立のハノーファー動物園が再開発される形で、1996年にオープンしたハノーファー体験動物園。アフリカのザンベジ川、霊長類が住むアフィマウンテン、カナダのユーコン・ベイ、インドのジャングル宮殿など、テーマごとにエリアが分かれているのが特徴だ。来園者の好奇心をくすぐりインスピレーションを与えることで、動物について新たな発見をもたらすことを使命としている。

総飼育数:約2000(約182種)
Adenauerallee 1, 30175 Hannover
www.zoo-hannover.de

夏季限定のザンベジボートツアー

ザンベジエリアを流れる川をぐるりと一周するボートツアーは、ハノーファー体験動物園の人気アトラクションの一つ。フラミンゴの群れのすぐそばを通り過ぎたり、浅瀬に水を飲みに来たキリンやレイヨウを眺めたり、動物たちを間近で観察することができる。3月下旬から10月下旬までの期間限定で、所要時間は約12分。

ライプツィヒ
4. ライプツィヒ動物園Zoo Leipzig

ライプツィヒ動物園は、1878年にレストランを拡張する形で開園。現在は、開園当初の建物からなるグルンダーガルテン、熱帯雨林のゴンドワナランド、霊長類が暮らすポンゴランド、アフリカ、南米、アジアの六つのエリアに分かれている。2000年以降、できるだけ自然に近い体験型の動物園を目指してきた。英国の動物専門家によるランキングで、ドイツで最も優れた動物園に選出されるなど、多数の賞を受賞している。

総飼育数:約6600(約800種)
Pfaffendorfer Str. 29, 04105 Leipzig
www.zoo-leipzig.de

巨大温室のゴンドワナランドを探検

サッカーコート二つ分以上の広さがある温室に、アフリカ、アジア、南米の熱帯雨林が再現されたゴンドワナランド。曲がりくねった小道やつり橋の上を歩いたり、ボートに乗船したりしながら、いろいろな動物を探してみよう。木にぶら下がったナマケモノやひなたぼっこをするコモドオオトカゲが見つかるかも!

ロストック
5. ロストック動物園Zoologischer Garten Rostock

1899年に開園したロストック動物園はバルト海沿岸で最大規模の動物園で、欧州最高の動物園に2年連続選出された(年間来園者100万人未満の部門)。霊長類たちが住み、生物の進化の過程を知ることができるダーウィネウム、ホッキョクグマやペンギンが暮らし、南極や北極について学べるポラリウムが特に人気。また園内ではクラシックコンサートやアートイベントが開催されるなど、文化プログラムも充実している。

総飼育数:約4500(約450種)
Barnstorfer Ring 1, 18059 Rostock
www.zoo-rostock.de

ポラリウムでのびのび暮らすホッキョクグマ

2018年にオープンしたポラリウムには、ツンドラ風景を再現した3600平方メートルの広大なホッキョクグマエリアが広がっている。現在3頭のホッキョクグマたちが飼育されており、思いっきり泳いだり遊んだりしている姿が見られる。屋内スペースでは、絶滅危惧種であるホッキョクグマについて、展示物に触れながら学ぶことができる。

ヴァルスローデ
6. ヴェルトフォーゲルパークWeltvogelpark Walsrode

ニーダーザクセン州ヴァルスローデ近郊にあるヴェルトフォーゲルパークは、世界最大級の鳥類専門の動物園。世界で最も小さい鳥、世界で最も速い鳥……など、全ての大陸から集まったありとあらゆる種類の鳥たちに出会うことができる。お気に入りの鳥が見つかったら、エサやり体験などができるミート&グリートを利用して(入場料とは別料金)、もっと間近で観察してみよう。

総飼育数:約4000(約600種)
Am Vogelpark, 29699 Walsrode
www.weltvogelpark.de

世界中の空をかけめぐる飛行ショー

1日2回開催される飛行ショーでは、羽を大きく広げた鳥たちが大空を飛ぶ姿を観ることができる。各回30分でテーマは「世界一周」。ハクトウワシのレディとは北米でサーモンフィッシングを、コンドルのカルロスとは一緒に南米のアンデス山脈を越え、ヘビクイワシのブーツとはアフリカのサバンナでヘビ狩りをしに出かけよう。

最終更新 Freitag, 19 Mai 2023 17:46
 

日本映画祭 ニッポン・コネクション 2023

日本映画100本がドイツにやってくる 第23回 ニッポン・コネクション
2023年6月6日(火)〜11日(日)

Nippon Connection

6月6日(火)〜11日(日)まで6日間にわたって、日本映画と日本文化の祭典「ニッポン・コネクション」がフランクフルトで開催される。コロナ禍でのオンライン開催を経て、昨年から市内の映画館に帰ってきた。1万7000人以上が来場する日本映画祭へと成長したニッポン・コネクションの見どころをピックアップしてお届けする。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

日本の長編・短編映画100本以上を上映

第23回ニッポン・コネクション日本映画祭では、6日間の期間中に100本以上の日本の長編・短編映画が上映される。会場は、MousonturmとNAXOSをはじめとするフランクフルト市内の八つの劇場。ジャンルはドラマ、コメディ、アニメ、ドキュメンタリーと、幅広い興味に合わせて上映される。

また今年の映画祭は、「Cityscapes And Countryside」(都市風景と田園風景)がテーマ。近未来的な大都会と緩やかな時間流れる地方が共存する日本の姿を、さまざまな映画を通じて観客に伝える。そんな第23回ニッポン・コネクションのラインナップをご紹介しよう。

2023年のハイライト

まず注目すべきは、映画祭のメインゲストである俳優で歌手の三浦透子だ。昨年オスカーを受賞した「ドライブ・マイ・カー」(2021年)での見事な演技は、国内外から評価を受けた。三浦へは、その若き才能を讃えて、今年新たに設立された「ニッポン・ライジングスター・アワード」が授与される。

2023年のハイライト

中江裕司監督の「土を喰らう十二ヵ月」(2022年)は、映画祭のテーマ「Cityscapes And Countryside」にもぴったりの作品だ。信州の山荘で暮らす作家の日々を、四季の移り変わりと美しい自然と共に描き出す。主演に沢田研二と松たか子、そして料理研究家の土井善晴が料理を初監修している。

阪本順治監督の「せかいのおきく」(2022年)の舞台は、1858年の江戸。のどを切られて声を失い、子どもに文字を教えているおきくと、下肥買いの二人の若い男が心を通わせながら、それぞれ懸命に生きる姿を描く。数々の賞を受賞してきた俳優・黒木華のセリフのない名演にご注目。

ドキュメンタリー作品では、コロナ禍の東京を記録した「東京自転車節」(2022年)が上映される。監督の青柳拓氏はコロナ禍で仕事がなくなり、山梨から東京へ。緊急事態宣言下の東京で、ウーバーイーツの自転車配達をすると同時に撮影を開始した。人がいない「ニュートーキョー」で、自転車配達員の視点から見えてきたものとは?

日本でも今年2月に公開されたばかりのクィア映画「エゴイスト」(2022年)が、松永大司監督と共にドイツへやってくる。主人公はファッション誌の編集者として働く浩輔(鈴木亮平)と、母を支えながら暮らすパーソナルトレーナーの龍太(宮沢氷魚)。愛し合うがゆえに生まれる葛藤を繊細に描き、東京国際映画祭でも高い評価を得ている。

アニメーション作品で見逃せないのは、マンガ原作ファン待望の「金の国 水の国」(2023年)。100年断絶している二つの国の王女と貧しい建築士が、国の思惑により偽りの夫婦を演じることに。それぞれの国を案じる二人の「優しい嘘」は未来を変えることができるのか……。アニメ制作会社マッドハウスの逸材・渡邉こと乃が監督を務めている。

日本を体験するニッポン・カルチャー部門

ニッポン・コネクションのもう一つの魅力といえば、体験や講演を通じて日本文化を理解するためのプログラム「ニッポン・カルチャー部門」。音楽プログラムでは、日本を代表するガールズロックバンド・つしまみれ(6月9日)、世界で活躍するヨーデル歌手・石井健雄(6月10日)などをはじめとするコンサートが予定されている。

人気のワークショップでは、木版画、マンガ、日本料理、茶道などの体験が可能。さらにメイン会場のMousonturmとNAXOSでは、30以上の屋台が日本料理、美術工芸品などを販売する。映画を観る前や観た後に、ぜひ立ち寄ってみてはいかがだろうか。

2023年のハイライト日本を体験するニッポン・カルチャー部門

そのほか上映作品やニッポン・カルチャー部門のプログラム、チケット情報などは、映画祭ウェブサイトからチェックしよう。

イベント情報
ニッポン・コネクション

ニッポン・コネクション Nippon Connection 開催期間:2023年6月6日(火)~11日(日)
メイン会場:Künstler*innenhaus Mousonturm Waldschmidtstr. 4, Frankfurt am Main
NAXOS Waldschmidtstr. 19, Frankfurt am Main
https://nipponconnection.com/ja

最終更新 Dienstag, 16 Mai 2023 10:08
 

日独交流を楽しむヒントが満載! ドイツの中の「日本」

日独交流を楽しむヒントが満載!ドイツの中の「日本」

160年以上の交流の歴史を持つ日本とドイツ。ドイツに住んでいても、歴史や伝統文化をはじめ、経済分野、ポップカルチャー、言語など、あらゆる分野で日本との深い結びつきを感じることができる。本特集では、そんな日独交流の歴史をおさらいするとともに、ドイツにいながら日本文化が味わえるイベントやスポットをご紹介する。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

日独交流を楽しむヒントが満載!ドイツの中の「日本」

その歴史は160年以上!日独文化交流の歴史

参考:在ドイツ日本大使館「日独交流150周年/歴史」、nippon.com「日独修好160周年:日本の近代化にドイツが果たした役割」

日本とドイツの交流は、160年以上前にさかのぼる。江戸時代の鎖国政策下の日本には、ドイツ人のケンペル(1690年から3年間滞在)やシーボルト(1823〜28年、59〜62年に滞在)がオランダ商館付きの医師として長崎に滞在。日本に西洋の知識を伝え、帰国後にはドイツで日本についての知見を広めた。やがて1854年に日本の鎖国政策が解かれると、1861年1月24日、統一国家としてのドイツが成立する以前のプロイセン王国との間に日普修好通商条約を締結する。これにより日本との正式な関係が樹立された。

開国以来、日本は医学や法律、芸術などのさまざまな分野でドイツから知識を吸収し、近代国家としての礎を築いていった。一方で1914年に始まった第一次世界大戦では、日本はドイツに宣戦し、中国の山東半島に出兵して青島などのドイツの租借地を占領。その時に捕虜になったドイツ人兵士によって、日本にバウムクーヘンやソーセージがもたらされたといわれる。さらに徳島県鳴門市の板東俘虜 (ふりょ)収容所では、ドイツ人捕虜らによって日本で初めてベートーヴェンの交響曲第9番が演奏された。1930年代に入るとナチス・ドイツとの関係が強まり、1940年にはイタリアも含めた日独伊三国軍事同盟へと発展。それぞれが軍国主義、そして戦争へと突き進んでしまう結果となった。

戦後、敗戦国として一時的に連合国軍の支配下に置かれた日本とドイツだったが、1951年には日本とドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の国交が再開。その後、両国共に奇跡的な経済成長を遂げるに至った。またドイツ民主共和国(旧東ドイツ)との国交も1973年には再開し、一定の交流が行われていた。そして1990年のドイツの再統一に伴い、日本との交流も一本化された。

今日、ドイツは日本にとって欧州最大の貿易相手国であり、日本はドイツにとって中国に次ぐアジア第2位の貿易相手国。またドイツには、学術・経済・政治・文化など幅広い分野にわたる日独の知的交流拠点「ベルリン日独センター」(https://jdzb.de)、ドイツにおける日本文化の紹介などを行う「ケルン日本文化会館」(https://co.jpf.go.jp)が置かれており、文化面でも緊密な交流が行われている。

数字で見る「ドイツの中の日本」

ドイツに住んでいる日本人

(2022年10月1日現在、海外在留邦人調査統計) 4万2266人(前年比+0.3%)

ドイツに住んでいる日本人

ドイツに拠点をおく日系企業

(2021年10月1日現在、日本外務省) 1934社(前年比+2%)

ドイツの公立大学にある日本関連の研究施設

(2023年5月現在) 約17カ所

日独姉妹都市・友好都市の数

(2023年5月現在) 61都市

在ドイツ日本国大使館・総領事館

(2023年5月現在) ベルリン、デュッセルドルフ、ハンブルク、フランクフルト、ミュンヘン

ドイツでも日本を満喫!おすすめ 日本イベント

ハンブルク

Japan Film Fest Hamburgハンブルク日本映画祭

今年で24回目を迎える日本映画に特化した映画祭。アニメはもちろん、短編から長編映画まで、あらゆるジャンルの映画が5日間にわたって上映される。日本の若手監督の作品が多く出品されるのも特徴の一つ。

2023年6月14日(水)〜18日(日) https://jffh.de

デュッセルドルフ

DoKomiドコミ

ドイツ最大の日本・アニメコンベンションで、5月にデュッセルドルフで開催される「日本デー」と並ぶ一大日本イベント。日本のポップカルチャーを軸に、日本から著名なミュージシャン、バンド、漫画家などが招待され、アーティストと触れ合う機会を提供している。

2023年6月30日(金)〜7月2日(日) www.dokomi.de

ミュンヘン

Japandult日本ダルト

今年10周年を迎えるミュンヘンの日本ダルトは、日本のデザインやアートをはじめ、音楽やグルメが楽しめる。武道や日本舞踊のパフォーマンス、着付けやマンガのワークショップなどの文化プログラムも充実。11月19日(日)には、日本ダルトのクリスマスマーケットも開催されるので要チェック!

2023年7月9日(日) https://japandult.de

マンハイム

AnimagiCアニマジック

1999年からマンハイムで開催されている、欧州最大規模のアニメ・マンガのコンベンション。コンサートや上映会、コスプレイベントなど、幅広いプログラムに加え、日本からマンガ家やアニメ声優などの豪華ゲストも来独する。

2023年8月4日(金)〜6日(日) https://animagic.de

オッフェンバッハ

Main Matsuriマイン祭り

3日間かけてマイン川沿いで開催される日本祭り。今年はオッフェンバッハで初の開催となる。屋台では日本料理を堪能できるほか、雑貨販売や文化ブースも。野外ステージでは数多くのアーティストが技を披露し、日本文化にたっぷり浸ることができる。

2023年8月18日(金)〜20日(日) www.main-matsuri.com

ヴィースバーデン

Connichiコンニチ

日本のサブカルチャーフェスティバルで、アニメ、マンガ、ゲーム、コスプレなど幅広い分野を網羅し、日独の架け橋として2014年に外務大臣表彰を受賞。今年は開催地をこれまでのカッセルからヴィースバーデンへと移し、さらにパワーアップして帰ってくる。

2023年9月1日(金)〜3日(日) www.connichi.de

ドイツで日本文化に触れるおすすめ ミュージアム&日本庭園

ケルン

Museum für Ostasiatische Kunstケルン東アジア美術館

1913年に開館した同美術館では、「東アジアの芸術を偏りのない新しい視点で紹介する」ことを目指しており、日本画をはじめ、初動や木版画、また韓国の陶芸や漆芸などの豊富なコレクションを有する。施設の中には、美しい日本庭園が広がっている。

Universitätsstr. 100, 50674 Köln https://museum-fuer-ostasiatische-kunst.de

ベルリン

Samurai Art Museumサムライアートミュージアム

ベルリンにあるサムライアートミュージアムは、日本刀や甲冑 (かっちゅう)をはじめとした4000点以上のプライベートコレクションを誇る。2022年にリニューアルオープンし、マルチメディアを使ったインタラクティブな展示が魅力。日本から輸送した能楽堂と茶室もお見逃しなく。

Auguststr. 68, 10117 Berlin https://samuraimuseum.de

テュルコー

Schloss Mitsukoシュロス・ミツコ

メクレンブルク=フォアポンメルン州テュルコーにある日本文化と現代アートの美術館。日本の美術品や民芸品、陶磁器、織物などの大規模なコレクションと日本文庫を所蔵している。現代彫刻家の深田充夫氏のインスタレーション作品も展示されている。

Kastanienallee 21-23, 17168 Thürkow-Todendorf https://schloss-mitsuko.org

デュッセルドルフ

Japanischer Garten im Nordpark

デュッセルドルフのノルトパークの北西部には、現地の日本企業と日本人コミュニティーによって1975年に寄贈された庭園がある。本格的な日本庭園をのんびり散歩できるほか、コスプレイヤーたちによる撮影会が行われていることもしばしば。

Stockumer Kirchstr., 40474 Düsseldorf www.duesseldorf.de/stadtgruen/park/nordpark/japanischer-garten.html

ベルリン

Gärten der Welt

ベルリン中心部からSバーンとバスで40分ほど行ったところにある「Gärten der Welt」(世界の庭園)では、欧州やアラブ諸国、アジアなど、世界中の特色ある庭園を楽しむことができる。日本人の作庭家によって設計された日本庭園「融水苑」をはじめ、韓国式庭園や中国式庭園も見応えあり。

Blumberger Damm 44, 12685 Berlin www.gaertenderwelt.de

バート・ランゲンザルツァ

Japanischer Garten „Garten der Glückligkeit“

テューリンゲン州バート・ランゲンザルツァにある日本庭園「幸福の庭」。春には桜をはじめツツジやシャクナゲが咲き、6月からはハナショウブやスイレンが日本庭園の池を彩る。植物館で茶会に参加ができるほか、お花見や七夕などの季節行事も充実。

Kurpromenade 15, 99947 Bad Langensalza https://badlangensalza.de/erleben/parks-gaerten/japanischer-garten

冷戦下の旧東ドイツとの文化交流も日本の有田焼をお手本にしたマイセン

17世紀の欧州では、薄い磁器を作る技術がなく、中国の景徳鎮や、日本の白く艶やかな磁器が貴族の間で高い人気を誇っていた。なかでも佐賀県有田市で製造されていた有田焼は、オランダ東インド会社によって1660年以降に欧州にも輸出されるように。伊万里港から出荷されることから、伊万里焼とも呼ばれた。特にその魅力に取りつかれたザクセン王国のアウグスト強王は、錬金術師を城に幽閉して白磁器の研究を行わせ、世界的に有名な磁器「マイセン」を誕生させた。その中でも力を入れたのが、「柿右衛門様式」の有田焼の模倣製造だったという。

そんな「陶都」である有田市とマイセン市が姉妹都市であることは不思議ではないが、姉妹都市の提携が結ばれたのは、なんとまだベルリンの壁によって東西ドイツが隔てられていた時代。1970年、ドレスデンに膨大な有田磁器のコレクションがあると知った有田町の窯業界の代表らが、東ドイツを訪問したことが契機となった。彼らは冷戦下の東ドイツを訪問するために外務省と地道に交渉し、最終的には文化交流使節という形で実現した。ドイツで有田焼のコレクションとの邂逅 (かいこう)を遂げた有田町の代表らは、1975年に福岡大博覧会で「古伊万里里帰り展」を開催し、ドレスデン美術館秘蔵の有田磁器を公開することに成功。さらに1979年には有田町から申し入れがあり、マイセン市と姉妹都市提携が結ばれることになった。以来40年以上にもわたって、世界有数の名陶磁器を誇る両都市の交流が続いている。

参考:Arita Episode 2「1970年―冷戦期、東西の壁を越え有田マイセン交流の架け橋となった7人のサムライ」、外務省「磁器が結び付けた絆(佐賀県有田町とドイツ連邦共和国マイセン市の交流)」

(写真左)柿右衛門様式を模して絵付けされた、1730年ごろのマイセン磁器(右)1970年、有田町の窯業界の代表らはドレスデンやマイセンをはじめ、欧州各地の有名な窯業地を訪れた(写真左)柿右衛門様式を模して絵付けされた、1730年ごろのマイセン磁器(右)1970年、有田町の窯業界の代表らはドレスデンやマイセンをはじめ、欧州各地の有名な窯業地を訪れた

あの日本語がこんな意味に!?ドイツ語で使われている日本語

Sushi(すし)やManga(マンガ)、Emoji(絵文字)など、ドイツ語の中で当たり前のように使われている日本語が数多く存在する。しかし中には、元々の意味とは離れて独自の使われ方をしている、ちょっと不思議な日本語由来の言葉も。ここでは、そんな単語をいくつか紹介しよう。

Hokkaido ホッカイドウ

秋になるとスーパーにも並ぶ、オレンジ色のドイツ産カボチャ。1945年以降に、ドイツに初めて輸入され種子が北海道産であったころとから、シュトゥットガルト在住の日本人八百屋が「Hokkaidokürbis」(北海道カボチャ)という名前で販売したのが始まりだそう。

Mikado ミカド

色付けされた竹ひごのような棒を使った、欧州ではポピュラーなボードゲーム。棒にはいくつかの模様があり、それぞれミカド、ボウズ、サムライの名前が付いており、これらを集めて得点を競う。ちなみに日本でもおなじみのお菓子「ポッキー」は、欧州ではこのゲームの竹ひごに似ていることから「MIKADO」という名前で販売されている。

Kombucha コンブチャ

欧米をはじめドイツでも流行している健康飲料「コンブチャ」。これは日本語の「昆布茶」とは全くの別物。紅茶や緑茶などを発酵させたもので、日本では「紅茶キノコ」と呼ばれている。もともと中国やモンゴルからロシアに渡ったとされ、名前の理由は韓国語の「菌」(Kom)からきているとする説や、日本語の「酵母茶」が訛ったという説も。

最終更新 Freitag, 05 Mai 2023 15:39
 

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