ベートーヴェン生誕250周年記念 私たちが知らない
ベートーヴェンの素顔
2020年はベートーヴェンが誕生して250周年という記念年。ドイツのみならず世界中でこのベートーヴェンイヤーをお祝いしようと、すでに昨年から各地でコンサートやイベントが開催されている。この貴重な節目に、より多くの読者の方にベートーヴェンの魅力をお伝えすべく、ベートーヴェンの素顔に迫った。ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲にちなみ、9つの逸話をご紹介するほか、影響を受けた人々の言葉を取り上げながら、ベートーヴェンがいかに神格化されてきたかを探る。(Text:編集部)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
1770~1827
ハイドン、モーツァルトと並び、ウィーン古典派を代表する作曲家。宮廷音楽家ではなく、貴族から援助を受けてフリーランスとして活躍。聴覚を失うなどの苦難を克服し、傑作を数多く残した。その後現代に至るまで、多くの音楽家に影響を与え続けている。
ベートーヴェンの人生
*グレーの文字は世の中の動き
1770 | 12月16日ごろ、ボンに生まれる |
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1778 | ケルンでコンサートデビューする |
1786 | ウィーンへ旅行し、モーツァルトのレッスンを受ける |
1789 | フランス革命が勃発する |
1792 | ウィーンへ移り、ハイドンの弟子になる |
1794 | フランス軍がボンを占領する |
1796 | プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンへ演奏旅行 |
1799 | フランス新政府樹立(フランス革命の終焉) |
1802 | ハイリゲンシュタットの遺書を書く |
1804 | ナポレオンが皇帝に即位する |
1805 | フランス軍がウィーンを占領する |
1812 | 「不滅の恋人」に宛てた手紙を書く |
1814 | ウィーン会議が開かれる |
1818 | 難聴のため完全に筆談となる |
1824 | 交響曲第9番が初演される |
1827 | 3月26日、ウィーンで亡くなる |
ベートーヴェンの人生を知る9つのエピソード
神童、天才音楽家、苦悩の人……ベートーヴェンにどのようなイメージを抱いているだろうか。ここでは、ベートーヴェンの素顔に迫るため、彼の人生にまつわる9つの逸話を紹介する。これまで知らなかったベートーヴェンの一面が発見できるかも?
参考:Beethoven-Haus Bonn「Beethoven für Kinder」、ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)illustrations ©Sayuri Nakamura
1スパルタで酒癖の悪い父親に
育てられた「神童」
1770年12月16日ごろ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはボンの宮廷音楽家のヨハンと宮廷料理人の娘のマリア・マグダレーナの間に生まれた。幼い頃よりスパルタな父親から音楽教育を受けていたベートーヴェンは、楽器と一緒に部屋に閉じ込められたり、夜遅くまで練習させられたこともしばしば。また、ピアノのほかにオルガン、ヴァイオリン、ヴィオラなども演奏できたという。コンサートデビューしたのは実際には7歳のときだったが、父は息子をより「神童」に見立てるため6歳と年齢を偽わり、ベートーヴェン自身もそう信じていたという逸話も。父親はパーティー好きの浪費家で、酒癖も悪かった。一方、優しかった母親はベートーヴェンが16歳のときに死去。母親の死後、家族を支えたのはベートーヴェンだった。
故郷ボンの生家
Beethoven-Haus Bonn
ベートーヴェンハウス
ベートーヴェンの故郷ボンに残っている生家が、現在は博物館として公開されいてる。実際に使用していた楽器や楽譜が展示されているほか、音楽ホールも設備。生誕250周年を機に、昨年12月に新しいエリアがオープンしたばかりだ。
10:00~18:00
※閉館日はウェブサイト要確認
入場料:9ユーロ ※各種割引あり
Bonngasse 20, 53111 Bonn
0228-98175-25
https://www.beethoven.de
2自由と平等を愛した
本の虫
ベートーヴェンは学校に行く時間がほとんどなく、子ども時代をほぼ音楽だけに捧げていた。しかし、音楽以外にもさまざまなことに興味を持ち、1789年からボン大学の哲学科の講義を受けたり、友人たちとボンの書店に通い、政治や芸術の本を読んだという。フランス革命(1789-1799)の起こったこの時代に、ベートーヴェンは自由と平等に価値を見出したといわれる。1792年にウィーンに移った後も本に囲まれた生活を送り、生涯にわたってさまざまな分野で知見を広めた。ある日の日記には「5時半から朝食までの時間はいつも勉強」と書き残している。
3隠し子の噂も?
恋多きベートーヴェン
生涯独身だったことで知られるベートーヴェンだが、実はずっと家族をもつことを夢見ており、女性関係についてはさまざまな逸話が残っている。30歳のときに恋をしたジュリエッタ・グイチャルディは、ピアノ曲「月光ソナタ(ピアノソナタ第14番)」(1801年)を捧げたことで有名だ。また最も知られている「エリーゼのために」(1810年)の「エリーゼ」は、39歳のときに婚約したテレーゼ・マルファッティではないかといわれる。そして、ベートーヴェンは「不滅の恋人(Unsterbliche Geliebte)」に宛てた手紙を書いており、その人物は一体誰なのか、ベートーヴェン最大の謎の1つである。ピアノを教えていたヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという説が最も有力で、彼女との間には隠し子がいたという噂も……。いずれにしても、現在に至るまで真相は分かっていない。
「月光ソナタ」の譜面
431歳、ハイリゲンシュタットで
遺書を書く
1802年、ウィーン近郊のハイリゲンシュタットに住んでいたとき、かの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた。ベートーヴェンが31歳のときである。すでに患っていた難聴が回復する見込みはなく、挙句の果てに最愛のジェリエッタ(前述)が別の男性と結婚したことで絶望のどん底に突き落とされ、ベートーヴェンは死を覚悟したのだった。遺書は2人の弟に宛てたもので「私の死後に読み、私の意志通り取り計らってくれ」と記されていた。しかし、ベートーヴェンは遺書をポストに投函することはなく、死後に机の引き出しの中から見つかっている。遺書には、自分の才能を十分に発揮する機会がなかったことを悔やみ、死がもう少し遅く訪れることを望んでいる旨も書かれており、結局は生き続けたいという気持ちが勝ったようだ。
1802年に書かれたハイリゲンシュタットの遺書
遺書が書かれた家
Beethoven Museum
ベートーヴェン博物館
1802年に遺書を書いた家が博物館として保存されている。2017年のリニューアルオープンで展示面積が2倍以上に拡張され、さらに見応えのある展示に。ワイン産地として有名なこのエリアにある、「ベートーヴェンの散歩道」を散策するのもおすすめ。
火曜~日曜・祝日 10:00~13:00、14:00~18:00 ※閉館日はウェブサイト要確認
入場料:7ユーロ(割引5ユーロ)、19歳以下無料
Probusgasse 6, 1190 Wien
+43 (0)664 889 50 801
https://www.wienmuseum.at
5「超」が付くほどの
かんしゃく持ち?
ベートーヴェンはその気難しそうな見た目からも、気性が荒く短気なことで知られている。使用人が少しでも気に入らないことをすると、怒りで本や食べ物を投げつけることもあり、しばしば使用人たちを解雇したという。そんなベートーヴェンの性格がよく分かる有名なエピソードがある。共和主義を目指したナポレオン・ボナパルトをたたえ、ベートーヴェンは交響曲を「ボナパルト」と名付けた。ところが、ナポレオンが皇帝に即位したことを知って激怒し、表紙を破り捨ててしまったのだ。それが「英雄(エロイカ)」と名前を変えた交響曲第3番(1804年)。しかしこれは作り話という説もあり、本当のところは分からない。そんなベートーヴェンだが、意外にも友だちは多かったそう。もちろん、友人たちもベートーヴェンから怒りをぶつけられることがあり、扱い方に困っていたようだ。
6引越しは34年間で
少なくとも52回
ベートーヴェンが生きた時代は、頻繁に引越すことは今日よりも一般的で、住宅は家具付きが基本だった。とはいえ、ウィーンに暮らした34年の間に、分かっているだけでも街中で24軒、夏場を過ごす郊外では29軒の家に移り住んだというのは、異常である。理由は定かではないが、ベートーヴェンは田舎や自然を愛していたため、5~10月はウィーンではなく郊外の村や小さな街に行き、毎年違う家に滞在したという。田舎の美しい風景が描かれた交響曲第6番「田園」(1808年)は、自然豊かなハイリゲンシュタットに住んでいる間に作曲された傑作だ。
1901年に描かれた、田舎道を散歩するベートーヴェンの肖像画
7病的なほどワインと
コーヒーが好き
ドイツといえばビールだが、ベートーヴェンがよく飲んでいたのはワイン。ベートーヴェンは、ワインの酸味が強かったり甘味が少ないと酢酸鉛を入れていたそう。というのも、本物の砂糖は高価だったのだ。もちろん鉛は体に悪いため、ベートーヴェンの数々の不調はワインの飲み過ぎが原因ではないかともいわれている。また、もう1つお気に入りだった飲み物がコーヒー。こだわりの強かったベートーヴェンは、カップ1杯分のためにご丁寧に豆を60粒数え、専用のコーヒー器具を使って自分自身で入れていた。ところがあるとき、健康のためにコーヒーはドクターストップがかかってしまったという。
8基本的に
いつも不健康
ベートーヴェンが完全に耳が聞こえなくなったのがいつであるのかは分かっていない。難聴の症状が出始めたのは1801年ころといわれており、耳鳴りが絶えず、次第に楽器の音や歌声が聞こえなくなっていった。しかし、ベートーヴェンは1806年までそれを隠し通そうと必死だった。さまざまな治療や当時登場したばかりの補聴器なども試したが、回復することはなくますます悪化してしまう。交響曲第9番(1824年)を作ったときは全く耳は聞こえなかったが、初演では自身が指揮をし、大喝采を浴びたことに気づかなかったという逸話もある。また、聴覚以外にも健康に問題があり、慢性的な頭痛や腹痛、リュウマチなども患っていた。
ベートーヴェンのラッパ型補聴器
9葬式に
2万人が参列
1826年秋、ベートーヴェンは肺炎を患い、肝臓にも問題を抱えていた。肝臓病の原因は、ワインの飲みすぎではないかと指摘されている。やがてお腹に水腫ができ、何度か手術をして水を抜き取ったものの一時的に痛みがなくなっただけで、ベートーヴェンはどんどん衰弱していった。そして、1827年3月26日の午後、ベートーヴェンは56歳で息を引き取った。葬式はその3日後だったにもかかわらず、各人に招待状が送られ、当日は学校も閉鎖された。参列者の数は2万人に上ったといわれており、新聞でも大きく報じられたという。日の目を見ることなく一生を終える作曲家もいるが、ベートーヴェンは同じ時代を生きた人々にとっても偉大な音楽家であり、当時その死がどれほどセンセーショナルな出来事だったかが伝わってくるエピソードだ。
ベートーヴェンのデスマスク