欧州難民危機から5年 ドイツ社会に生きる難民たち
2015年8月31日、メルケル首相は「Wir schaffen das!(私たちはやり遂げる!)」という掛け声と共に、ドイツに大量の難民を受け入れることを表明した。連邦移住難民局(BAMF)によると、同年11月末までに中東や北アフリカの国々から96万5000人の庇護申請者を受け付け、そのうち42万5035人が難民として認定されたという。あれから5年、難民の人々はドイツ社会でどのように暮らしているのだろうか。難民危機を振り返るとともに、ドイツで活躍する彼らに話を聞いた。(Text:編集部)
難民を受け入れたドイツの光と影
参考:Bundeszentrale für politische Bildung(bpb)「Vor dem 5. September. Die "Flüchtlingskrise” 2015 im historischen Kontext」、石川真作「『移民国』ドイツにおける反イスラームの文化の問題」、Der Tagesspiegel「Flüchtlinge und Arbeitsmarkt „Fast die Hälfte jetzt in Arbeit“」
なぜ「欧州難民危機」が起こったのか?
ドイツにおける難民の主な出身国は、シリア、イラク、アフガニスタンだ。それぞれの国では内戦が激化し、人々は近隣諸国に庇護を求めた。しかし、トルコやギリシャをはじめとする避難先の国々が支援金不足になったことなどを理由に、彼らはより社会的権利が保障されている欧州を目指すようになる。
本来、欧州連合(EU)の「ダブリン規約」によって、最初に入国した国で庇護申請をしなければならないという決まりがある。しかし、大部分はバルカンルートと呼ばれるギリシャ、北マケドニア、セルビアなどをそのまま通過し、2015年8月中旬までにハンガリーは15万人の難民を受け入れることに。ところが、受け入れの限界を超えたハンガリーがセルビアとの国境にフェンスを築き始めてしまった。その様子をはじめ、密輸業者のトラックの中で71人の難民が亡くなる事件などの痛ましいニュースが次々と報道される。そしてついに、ドイツは大量の難民を受け入れる決意を固めたのだった。
ドイツが大量の難民を受け入れた理由
難民危機以前もドイツは多くの難民を受け入れてきた。その背景には、第二次世界大戦後に定められた「基本法(ドイツの憲法)」の存在がある。ナチスによるユダヤ人迫害への反省から、基本法に政治難民の庇護請求権が盛り込まれたのだ。それから、西ドイツは共産圏からの難民などを受け入れてきたが、庇護申請数がピークを迎えたのは旧ユーゴスラヴィアが解体された1992年で、その数は43万人以上。このように、ドイツは長きにわたって難民に寛容な態度を取り続けてきた。
ドイツにおける庇護申請者数(1991~2019年)
近年では、多様性を受け入れることを象徴する「Willkommenskultur(歓迎する文化)」という言葉が使われているドイツ。病院の付き添いやドイツ語の勉強を手助けするほか、異文化交流の場を設けたりと、連邦政府や自治体も関連事業を積極的に支援している。ドイツにやって来た人々に対するさまざまなサポートが市民の手によって行われているのも、こういったバックアップ体制があるからこそだ。
難民危機に揺さぶられたドイツ
しかし、欧州難民危機によってドイツでは情勢が大きく変化。その象徴が、極右政党「ドイツのための選 択肢(AfD)」が一気に第3党にのし上がった、2017年の連邦議会選挙である。その背景の一つに、難民に対する人々への不満がある。例えば、難民の受け入れにかかる多額の費用が税金でまかなわれていることや、難民による性犯罪や殺人事件、テロが多発したことに対し、人々はネガティブな感情を抱いた。さらに旧東ドイツ地域では、その難民問題に東西格差に対する市民の不満が加わり、反イスラム文化を主張するAfDに票が集まったとみられている。メルケル首相の支持率は低迷し、政策転換をよぎなくされた。
ところが、現実にはドイツでは人口減少が続いており、20~30代という働き盛りの年齢層が多い難民の労働力を、むしろドイツは必要としているともいえる。今年2月のドイツ労働市場・職業研究所(IAB)が発表した報告によると、2013~2016年の間にドイツに到着した難民のおよそ2人に1人が5年以内にドイツで就職を果たし、そのうちの80%が保険に加入した。つまり、難民の統合は着々と進んでいるのだ。
一方で、難民の間でもジェンダーギャップが問題に。子どものいる女性の就職はとりわけ厳しく、ドイツ社会で孤立する人々も少なくない。さらに、コロナ危機により失業者が増えているが、難民の失業率は一般のドイツ人に比べて高いという。今年に入り、欧州に流れ込む難民の数が再び増加傾向にあるが、大胆な難民政策を推し進めてきたメルケル首相の任期は残り1年ほどに迫っている。このコロナ危機下でどこまで課題をクリアできるか、今後も注目される。
戦禍からの逃避行の果てに
ドイツで見つけた私たちの場所
難民の人々は祖国を逃れ、長い旅路の末にドイツにたどり着いた。さて、そこからの人生を彼らはどうドイツで生きる・生きたいと願うのだろうか。ここでは、難民の人々が関わる三つの事例を紹介。彼らの活動を通して、未来のドイツ社会の姿が見えてくるかもしれない。
難民の小さな声をドイツ社会に
Flüchtling Magazin
ハンブルクで2017年に創刊された「Flüchtling Magazin(難民マガジン)」は、多文化交流と相互理解を目的としたドイツ語のメディア。現在は誌面の発行(不定期)やウェブマガジン、ポッドキャストの配信などを通して、難民の人々の声をドイツ社会に届けている。記事のライターは、主に難民として祖国を逃れてドイツにやって来た人々で、ドイツ人スタッフがそのサポート役を務めている。難民の人々が自分たちの文化や考え方、祖国を逃れた経験やドイツでの生活などについて発信することで、難民とドイツとの間にある偏見や恐怖心をなくし、お互いに歩み寄ることができる社会をつくりたいという。同マガジンでは、難民としての体験や現在の生活についてドイツ語で文章を書きたい人とともに、彼らの執筆を手助けするドイツ語話者のボランティアも常に募集している。
www.fluechtling-magazin.de
お話ししてくれた人
Hussam Al Zaher さん(31)
創刊者で編集長を務めるHussamさんは、自身も難民として2015年にシリアから逃れてきた。「難民キャンプでドイツ語を学び始めると、ドイツの難民にまつわるニュースでは、難民自身の声がほとんど取り上げられていないことに気付きました」。シリアで政治学を学び、ジャーナリストとして活動していたHussamさんは、過熱する報道が「難民」という固定観念を強め、人々の恐怖心を煽っていると感じたという。「私たちは『難民』ですが、一人ひとり違う人間です。そのことを伝えるには、難民が自分の言葉で自分を表現する場が必要だと思いました」。彼自身、流暢なドイツ語を話す一方で、記事を執筆する際にはドイツ語話者の同僚の助けを借りている。この難民とドイツ人が「一緒にドイツ語で書く」というプロセスに、お互いをより良く理解するための可能性を感じているそう。
難民女性の社会進出を応援
Stitch by Stitch
フランクフルトにある「Stitch by Stitch」は、ファッションデザイナーのクラウディア・フリックさんと社会起業家のニコール・フォン・アルヴェンスレーベンさんが2015年に創立したスタートアップのB2Bの洋服店だ。ここでは現在、シリア、アフガニスタン、マダガスカル、エチオピアから逃れてきた10人の難民女性たちが働いている。Stitch by Stitchの重要な理念は、難民女性たちをドイツ社会に統合させていくこと。そのためにKfW(ドイツ復興金融公庫)と社会的企業を支援するSocial Impactからの支援を受け、ボランティアの協力も得ながら、彼女たちのドイツ語学習や仕立て屋としての職業訓練をサポートしている。また、2019年には独自のファッションレーベルを立ち上げ、サステナブルをテーマにした製品も展開。コロナ禍の現在では、マスクの生産に力を入れており、オンラインショップで購入可能だ。
www.stitchbystitch.de
お話ししてくれた人
Reyhane Heidari さん(28)/ Foruzan Ghaffari さん(26)
Saida Nawabi さん(21)/ Neda Kazimi さん(22)
アフガニスタン出身の彼女たちは、それぞれ家族と一緒に車やボート、徒歩……などあらゆる手段を使ってドイツまでたどり着いた。Stitch by Stitchについては、国際NGOのカリタスやインテグレーションコースを通じて知ったという。「アフガ ニスタンでは、仕立て屋だった父を手伝っていました」というReyhaneさんは、ドイツでゲゼレ(ドイツにおける職人・商業人としての国家資格を持つ人のこと)を取得。ほかの3人は子育てをしていたり、学生だったため、ドイツに来てから 仕立ての技術を学んだそう。「難民の女性がドイツで仕事に就 くことは簡単ではなく、掃除の仕事くらいしか見つかりません。 私たちにとって、ここで働くことは心の支えですし、Stitch by Stitchはまるで小さな家族のよう」と明るく話してくれた4人。将来は仕立てマイスターやソーシャルワーカー、料理人になりたいなど、各々が目標を持って頑張っている。
難民ガイドが案内する博物館
Multaka: Treffpunkt Museum
ベルリンにあるイスラム美術館、ベルリン中東博物館、ビザンティン彫刻コレクション・美術館、ドイツ歴史博物館との協力のもと、シリアとイラクからの難民に博物館ガイドとしての職業教育を提供するプロジェクト。「Multaka」はアラビア語で「合流地点(Treffpunkt)」の意味であり、ガイドとしてのトレーニングを受けた難民が、ドイツやシリア、イラクとの歴史的・文化的・宗教的な繋がりなどに焦点を当てたツアーを各博物館で実施している。ドイツ歴史博物館の「第二次世界大戦後のドイツの復興」をテーマにしたツアーでは、戦争によって破壊されたシリアやイラクもいつの日か復興できると、訪れる人々に希望を与えているそうだ。これらのツアーの目的は、ドイツに暮らす難民の人々とドイツ社会とのつながりを育むだけでなく、美術館や博物館をあらゆる文化や歴史が交差する魅力的な場所へと成長させることにあるという。
https://multaka.de
お話ししてくれた人
Yasser Almaamoun さん/ Sandy Albahri さん
「Multakaは、人々の間に立ちはだかる国境や紛争、困難を一時的に遠ざけ、他者の文化と親密になることができるプロジェクトです」。そう話すYasserさんは2013年、Sandyさんは2014年にシリアからやって来た。「Multakaのメンバーは、モザイクタイルのように多彩。それぞれが異なる経験や関心を持っているので、彼らとの議論はいつも刺激的です」と語るYasserさん。彼はシリアで建築を学び、現在は建築やアクティヴィズムの研究を行っている。Sandyさんも現在、大学でソーシャルワークを学んでおり、卒業後は難民支援団体を立ち上げるのが目標。「私たちは、特定の理由で祖国を去り、新しい文化の中で積極的に生きるために努力する、普通の人間です。そんな私たちが歴史や文化についてどんな考えを持っているか、多くの人と意見交換できれば」。
ドイツ入国から新生活スタートまで
難民認定のプロセス
参考:Bundesamt für Migration und Flüchlinge「Ablauf des deutschen Asylverfahrens」、本間浩「ドイツにおける難民保護と難民庇護手続法」
※2020年8月時点。手続きの順番や方法は、各州で若干異なる
❶ ドイツ入国と個人データの登録
まずはドイツ領域に入った際に、国境警備局に難民認定の願い出を行う。そして、指紋を使って個人データと身元を確認し、それらの情報は中央の管理システムに記録される。
❷ 難民受け入れ施設へ
個人データの登録が完了すると、各州に設置されている難民庇護希望者の受け入れ施設へ移動する。居住地や宿泊場所は州によって決定。この施設での滞在中は、日常生活に必要な現金や現物が支給される。難民は最初の受け入れ施設に6カ月まで滞在できる。
❸ 難民認定のための申請
受け入れ施設に入居後、速やかに連邦移民難民局で難民庇護申請を提出する。申請が完了すると、手続き期間中に限って有効な在留許可が与えられる。
❹ ダブリン規約に基づく認定責任国の決定
ダブリン規約とは、規約適用国の領域内で難民庇護申請が申し立てられた際に、申請を優先的に審査する国を決定するための規則。基本的に「最初に難民が到着した国が、難民の扱いに責任を持つ」ことが定められている。シェンゲン領域内が出入国審査なしで移動できることから、申請者がより良い条件を求めて複数国で申請を行わないよう、不正を防ぐ目的がある。
❺ 連邦移民難民局による面接審査
ダブリン規約の審査を通過すると、面接審査が行われる。ここで申請者は、祖国から逃れなければならなかった理由や事実関係、ドイツ入国までの経路や他国での滞在歴についての説明を行う。およそ2〜7日以内に決定が下される。
❻ 難民認定
審査の結果、難民認定されるとドイツでの正式な滞在許可証が得られる。庇護手続きにかかる期間は、2016年の平均で6カ月以上。難民認定が不許可になった場合は、出身国に戻るか、行政裁判所に異議を申し立てて再審査を行う。
❼ 新しい生活のスタート
難民認定されると、連邦移民・難民局が主導して移民・難民を対象に行っている、ドイツ語やドイツの歴史・文化などを学ぶ「インテグレーションコース」の受講資格が得られる(一部の州では、難民申請中から受講可能)。それと並行して、大学入学や就職支援などの制度を利用しながら、少しずつドイツでの生活基盤をつくっていく。