明治時代を代表する文豪、森鴎外(1862 〜1922)。2012年は鴎外の生誕150年の記念年である。日本においてはもちろん、かつて鴎外が留学したベルリンでも、誕生日の2月17日にフンボルト大学主宰の記念式典が行われるなど、この文豪への関心がいま再び高まっている。
鴎外は1884年から88年までの約4年間、陸軍軍医としてドイツに留学し、その間ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで学んだ。『舞姫』を挙げるまでもなく、とりわけベルリンは鴎外にとって思い入れの強い街だったようで、後の作品にも繰り返しその影響を読み取ることができる。
この機会に改めて鴎外の作品と向かい合ってみてはどうだろう。昨年、その著作『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)を通して、エリスのモデルとなった人物エリーゼ・ヴィーゲルトについて決定的な新事実を発見したベルリン在住のフリーライター、六草いちかさんに話をうかがった。いざ、鴎外の生きた19世紀末のベルリンへ!(インタビュー・構成:中村真人)
『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の著者
六草いちかさん インタビュー
エリーゼとの120年越しの友情
1988年よりベルリン在住。フリーライターとして「PEN」「マリ・クレール」「オブラ」「キネマ旬報」等の雑誌や企業専門誌、トラベルガイド等に執筆。ベルリン生活情報サイト「べるりんねっと789」 (www.berlinnet789.de)主宰。
昨年3月に出版された『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)、大変面白く読ませていただきました。そもそも六草さんが鴎外に、そして『舞姫』のエリスのモデル探しに熱を入れるきっかけは何だったのでしょうか?
『舞姫』は高校の国語の授業で最初に読む方が多いようですが、私は習いませんでした。ちゃんと読んだのは今から10年ほど前、『舞姫』が収録された日本文学全集で。聞いてはいましたが、主人公が女性を捨てるという話に驚き、そして腹が立って……。それでも、1つの話としてその後は忘れていました。
3年ほど前、たまたま射撃というものに誘われて、そこでMさんという人に出会いました。射撃の後、皆で古い居酒屋に行き雑談をしていた時、Mさんが、「鴎外の恋人は、自分のおばあちゃんの踊りの先生」だと言ったのです。私はびっくり仰天して、後日話を聞きに行きました。結局、それは正しい情報ではなかったのですが、『舞姫』を読み返すきっかけになりました。
一方で、鴎外の妹の喜美子さんによる回想録を読むと、(はるばる日本まで鴎外を追いかけて来た)エリーゼは森家の破壊者であるかのように書かれていました。また、研究者による『舞姫』の解釈には、「豊太郎とエリスが出会った時、エリスは体を売ろうとしていた」とも。エリーゼがかわいそうに思えてきました。「本当にそうだったのだろうか?」。調べていくうちに、既存の解釈に対する違和感が強くなっていきます。
『舞姫』は小説として描かれたけれども、調べるほどに 「エリス」と「エリーゼ」は重なっていって、やがて自分の中で彼女の人格が生まれてきました。だからこそ、1人の人間として、一部に流れている間違ったエリーゼ像を晴らしてあげたいと思うようになったんです。
エリーゼ探しの背景には、突き動かされるような強い気持ちがあったのですね。それにしても、気の遠くなるような資料の山を前にして、よくぞこれまで誰も到達できなかった資料を探り当てたものだと思いました。しかもわずか半年で!
以前、第2次世界大戦について調査する機会があり、その時に調べ方を学んだというか、どこに行けば情報を得られる可能性があるかがわかっていたのは大きかったと思います。大事なのは、わからないことは人に聞くという度胸。例えささいな会話でも、人との触れ合いの中でヒントを得て、それが次につながっていくこともありました。そういった偶然は、家にこもってネット上だけで調べていたら、絶対に起こり得なかったと思います。自分が(エリーゼと同じ)女性であること、そしてベルリンに住んでいたことも有利な点だったかもしれません。それでも何度も行き詰まりました。「今日でもうやめようかな」と思っていた寒い冬の日、車で公文書館に向かう途中、湖で出会った白鳥に慰められた、ということもありました。
そして、その年の年末、ついにエリーゼについての決定的な資料を教会公文書館で発見されます。
最後は胸騒ぎがするというか、資料を探している時に一種異常な興奮状態にありました。私は霊感を信じない人間ですが、あの時はエリーゼの像が本当に見えたというか……。
海外に住んでいると、日本の友達にいつでも会えるというわけではありませんよね。メールのやり取りをしていても時間の差というものに慣れてくる。結局はそれが8時間前だろうが、100年前だろうが、メールだろうが、昔の小説だろうが、書き手と読み手の気持ちが一致する時、それが「今この時点」という捉え方を私は持っています。時空を飛び越えた感覚というのを、エリーゼとの間に持つことができた。それは120年越しの友情のようにも感じました。
鴎外が生きた19世紀末のベルリン
『舞姫』はベルリンが舞台の小説。ブランデンブルク門周辺など、ここに描かれた場所をたどってみたいという人は多いと思います。「たちまちこのヨオロツパの新大都の中央に立てり。なんらの光彩ぞ、我が目を射むとするは」から街の描写が始まりますが、非常に輝かしく、鮮烈な印象を読み手に与えます。この「ウンテル・デン・リンデン」周辺は、当時どのような様子だったのでしょうか?
鴎外が生きたベルリンは、まだドイツ帝国ができたばかりの時代でした。今はクーダムなど、ウンター・デン・リンデン以外にも繁華街がたくさんありますが、当時は街の規模が小さかった上に、繁華街といえばここだけ。フランスとの戦争に勝った高揚感も手伝って、今よりもずっと賑やかだったと思います。機械工業が発達し、企業の仕組みが成立した時代。ベルリンはドイツ帝国の首都となり、軍事が強化されたことから、郊外は軍隊の駐屯地だらけでした。ヴァリエテや余興が栄えたのも、街に軍人が多かったことと関係があります。
鴎外自身も軍医だったので、日本もこのぐらい軍が栄えてほしいという目で見ていたのではないでしょうか。 パリを手本とした新しい文化がベルリンに生まれ、それ を目指していろいろな人が集まって来ました。飢えるような活気に満ちていたのが、あの頃のウンター・デン・リンデンだったと思います。
もともと天才肌の鴎外でしたが、ベルリンに来るまでの道は決して順風満帆ではありませんでした。一旦はドイツ留学を諦めていたところ、陸軍省に入り軍医としてベルリンに来られることになったのです。
『舞姫』は日本への帰国後に書かれたものですが、この部分には、初めてウンター・デン・リンデンの真ん中に立った時の「ついにここへ来た!」という喜びが溢れているように思います。
それとは対照的なのが、エリスが住むアルト・ベルリンと呼ばれる古い地区ですね。「狭く薄暗き巷」として描かれています。
鴎外が住み始めた1887年のベルリンの人口は141万人。今ほど広くない上に人口密度は高く、住宅難でした。当時の地元の新聞を見ると、Schlafstelle(賃貸ベッド)の広告をよく見かけます。家を持たずに寝床だけ借りる人もいたのです。
鴎外の第2の下宿はそんなアルト・ベルリンにありました。物騒なところだと言う人もいましたが、彼自身はとても快適だと感じていたようです。「新築で部屋が広い、アスファルトが引いてあるので馬車も音を立てない、三食を家で食べられる、勤務先の衛生部も近い。これ以上何を求めようか」と大変な気に入りようでした。
1884年に鴎外が初めてベルリンに来た時の風景は、その後のライプツィヒ留学を経た数年後、大きく変わっていました。近代化・工業化の最中、新旧入れ替わりの時代だったのです。そんな中で取り残されたのが、光に対して影の象徴だったアルト・ベルリン。それでも、鴎外はこの界隈に情緒を見出し、好んで歩いていたと思います。エリーゼの住み処もここにありました。
『舞姫』研究における六草さんの功績の1つは、豊太郎とエリスの出会いの場となった「クロステル巷の教会」のモデルが、ガルニゾン教会だと特定したことだと思います。これまではマリーエン教会など諸説ありましたよね。
ここは本当に盲点でした。豊太郎とエリスのような出会いが本当にあったのかは疑問ですが、その描写はとても生々しく、鴎外がエリーゼと出会った時も彼女は泣いていたのではないか、と思えてしまいます。
ガルニゾン教会は第2次世界大戦の空爆によって現存しませんが、最近新しいビルが造られた際に広場として整備され、教会の歴史を紹介するプレートも設置されました。新しい鴎外関連スポットとして見に行かれてはいかがでしょう。鴎外の第3の下宿先もこのすぐ近くにありますし(Große Präsidentenstr.10, 10178 Berlin)。
人間・鴎外
それにしても、鴎外はなぜ『舞姫』を書こうと思ったのでしょう?
エリーゼがドイツに帰国した2カ月後、鴎外の親友の賀古鶴所が山縣有朋に随行して欧州視察に旅立っています。ベルリンに数カ月滞在しているので、エリーゼに会わなかったはずがありません。『舞姫』は、賀古が日本に帰国した直後に書かれているのです。エリーゼは賀古から鴎外の結婚のことを聞き、おそらく発狂した。その話を聞いた鴎外もショックを受けた。『舞姫』に限らず、鴎外は小説を書くことによって切羽詰った状況、辛いことを乗り越えようとしていました。その後、彼は最初の奥さんと離婚します。
『舞姫』の豊太郎は恋人エリスを捨てて帰国する話。それを書いた鴎外も、エリーゼとの恋を悲恋に終わらせ てしまいます。女性を身勝手に捨てたというよりは、そういう生き方を選ばざるを得ない環境にあったのです。エリーゼとの悲恋は鴎外にとって大変な痛手。鴎外はエリーゼの面影を生涯抱き続け、エリーゼとの恋の影響を受けた作品を多数遺しています。
今回の執筆の過程を通して、六草さんは鴎外の人間像をどのようにご覧になりましたか?
「鴎外とはどういう人だったか?」、それを一言で表すならば「愛の人」だったと思います。それは恋人や妻に対してだけでなく、友情だったり、母親や家族に対してだったり、人として愛する気持ちが強かったということです。例えば、お弟子さんたちが鴎外について語っている回想録を読むと、誰もが「自分は鴎外に愛されていた、よくしてもらっていた」と感じています。鴎外の子どもたちの手記の中には、「自分が一番お父さんに愛されていた」と書いてあります。子どものために独自の教科書を作ったり、夜中にトイレに連れて行ったりなど、彼は愛情をもって子どもたちに接していました。私生活ではいろいろなしがらみがあったようですが、自分を失わず、また人を愛することを失わずにいたのだと思います。
エリーゼとの恋が悲恋だったから、『舞姫』も悲恋に終わらざるを得なかった。そう思って『舞姫』をもう一度読んでいただきたいです。
『舞姫』はあえて古風な文体で書かれていますが、ほかの作品はそれほど難しくはありません。何より感動できる作品が多いですし、この機会にインターネット電子図書館「青空文庫」なども利用してどんどん読んでいただきたいです。きっかけとして、恋愛ものはいかがでしょうか?そこからほかのジャンルの作品に入っていくのもいいと思いますよ。
森鴎外が歩いたベルリンMAP
六草いちかさんセレクトによる
〜鴎外作 恋物語の特選集〜
詩集『於母影』より 「笛の音」
鴎外をはじめ、妹喜美子や落合直文、井上通泰ら文学グループによる訳詩集。ゲーテやハイネ、バイロンなどの欧州の詩人の作品を日本語に訳したものですが、シェッフェルの叙事詩「笛の音」などは鴎外とエリーゼの関係そのままのよう。許されない恋が胸に迫ります。
詩集『うた日記』より 「扣鈕(ぼたん)」
日露戦争に出征した鴎外が激戦となった南山の闘いを思い出し詩にしたためたもの。エリーゼへの思慕がくっきりと浮かび上がります。
小説『桟橋』
横浜港の桟橋での風景を、ロンドンへと旅立つ夫を見送る夫人の目を通して描いた短編。この作品が書かれる少し前、実際に鴎外は旧藩主である亀井伯爵の洋行を横浜港で見送っています。エリーゼと別れた日の自分を思い起こしたのではないでしょうか。
小説『普請中』
エリーゼとの20年ぶりの再会を思わせる一作。エリーゼ探しが白熱した時代に注目されていた作品です。個人的には、エリーゼとの再会を描いたものではなく、ほかに意図があって書かれた作品のような気がします。かつて来日したエリーゼが泊まったホテルで再会した、この女性は一体誰なのか?!
ベルリン森鴎外記念館
鴎外のベルリンでの最初の下宿先は、1984年よりフンボルト大学付属の記念館になっている。外国人作家としてはドイツ唯一の文学記念館。鴎外の多彩な活動が紹介されているほか、19世紀の典型的な下宿を再現した部屋もあり、当時を偲ぶことができる。昨年は皇太子さまが訪問されたことでも話題になった。今年は鴎外関連のシンポジウム(7月6日と11月23日)、講演会、鴎外のベルリンでの足跡をたどる散歩ツアー(5月)などが予定されている。詳細は以下にて。
開館:月~金10:00~14:00
住所:Luisenstr. 39, 10117 Berlin
電話番号:030-282 6097
ウェブサイト:www2.hu-berlin.de/japanologie/mog