ブラジルの神々と夢を彫り
続ける木版画アーティスト
アートだけで食べて行くのは大変。
複数のチャンネルを持つことで、
続けることができた。
チタ・ド・ヘゴ・シウヴァ
1959年ブラジル・マラニョン州生まれ。14歳でブラジリアへ引っ越す。ブラジリア国立大学(UNB)美術科在学中の1988年にドイツへ移住。ハンブルクを拠点に創作活動を開始。独特の個性を放つ木版画で評価を得る。代表的な展覧会に、労働博物館(ハンブルク)、グーテンベルク博物館(マインツ)での個展がある。
「私は多分、アーティストとして生まれて来たんだと思う」。アーティストとして生きることをいつ決意したのかと尋ねた時、チタ・ド・ヘゴ・シウヴァ(53)は、控え目にそう答えた。木版画と出会い、四半世紀にわたってたゆまなく創作活動を行ってきたエネルギーの源をぜひ知りたいと思った。
北東部から未来都市ブラジリアへ
チタの亡き父親は大工で、伝統的な家屋の木彫りの装飾天井が得意だったという。母親は自宅で仕立て屋を営み、型紙なしでドレスやシャツを縫っていた。幼い頃は、ミシンを踏む母の傍で、端切れをおもちゃ代わりに遊んでいた。
生まれ育った町はとても貧しく、年の離れた2人の兄は良い職業に就けるよう、首都ブラジリアの大学へ進学した。1960年に未開の地を切り開いて造られた首都では、リオの建築家オスカー・ニーマイヤーがデザインした近未来的な造形の公共建築群が次々に誕生していた。兄たちがブラジリアで就職すると、姉たちも皆、次々にこの新天地へ引っ越した。
兄たちは、休暇の度に故郷の町で子どもを対象にソーシャルプロジェクトを実施していた。その1つが美術教室だった。チタは5歳の頃から毎回この教室に参加していた。「この教室がとても楽しかった。以来、絵を描き、工作するのが大好きになったの」と言う。
10歳の時、父に「アーティストになりたい」と宣言。すると父に「本気なら家を描いてごらん。外観と内部をリアルに描けるかな?」と言われた。父が何を言わんとしたのかわからなかったが、以来、彼女は対象をよく観察して絵を描くようになる。ブラジル特有のコロニアル建築が大好きになり、建築への関心も湧き始めた。ずっと後になって、父は遠近法のことを言っていたのだと気が付いた。14歳の時、末っ子の彼女も兄を頼ってブラジリアへ引っ越した。「でも70年代のブラジリアはお世辞にも美しくなかった。街は未完成で緑はなく、ニーマイヤーの建築だけが眩しかった」。
試し刷りをしながら版木を彫るチタ。アドリブで、下書きにはない線がいくつも生まれる
建築家への夢と運命のいたずら
高校卒業後、建築を学ぼうと思い、ブラジリア大学の建築科に志願。だが、当時は大変な人気学科で競争率は医学部以上。多くの若者がニーマイヤーに続こうとしており、入学は叶わなかった。やむを得ず私立大の観光学科に入学。ほぼ同時に、ヴァリグ・ブラジル航空での事務職が見付かったため、午前中に働き、大学の午後のコースに通った。翌年、再び建築科に応募したが、やはり許可が下りない。そこで、観光学科終了後に再挑戦しようと考えた。19歳の時、ヴァリグ社員の特典を利用し、初めて渡欧。その後も度々欧州を旅行し、主にパリで建築と美術に親しんだ。
私立大を卒業後、再度建築科に挑戦。その時、運命のいたずらが起こった。「入学志願書に建築科ではなく、美術科のコード番号を間違えて記入しちゃったの。それで美術科に入学できたのよ」。今度は、午前中は大学、午後はヴァリグに勤務する毎日が始まった。
大学の授業で初めて版画に出会い、木版画やリトグラフなどの技法を学んだ。中でも木版画と印刷技術に魅了された。同級生らと芸術家グループ「ミラ・ブラジリエンス」を結成し、精力的に木版画を制作。大学には印刷設備が整い、いつでも好きなだけ印刷できた。
大学4年の時、ブラジリアで知り合ったドイツ人の友人を頼ってドイツ留学を計画。1988年に1年の予定でハンブルク応用科学大学のデザイン科に転入すると同時に、ゲーテ・インスティトゥートの奨学金を得た。しかし、転入した大学では版画用のプレス機を使う度に許可書が必要で、時間内に作業しなければならない。それが不便で、やがて行かなくなってしまった。
ドイツ語集中コースを受講し、ある程度言葉が話せるようになると、木工職人である友人のアトリエの片隅で制作を始めた。また、友人を通じてハンブルクの版画工房を知り、実習生となって印刷と製本技術を学んだ。恋人もできた。気が付いたら、予定の1年を越えていた。この頃、版画を天職と確信し、ドイツでプロとして活動したいと強く願うようになった。カフェで働き、いつでも仕事ができるように中古の印刷機を購入し、寝室をアトリエにした。実習した版画工房のスタッフとグループ展を開いたり、 友人のギャラリーで個展を重ねたりするうちに少しずつ評判が広まり、各地のギャラリーから声が掛かり始めた。
ブラジルのルーツに開眼
当初チタは、赤と黒を基調とした、やや抽象化した人物を描いていたが、ある日友人に「君の作品はドイツ人の作品みたいだ」と言われた。以来、彼女は自分らしい作品とは何かを考えるようになる。そして、90年代初頭から徐々に作品に、ブラジルの神々や動物、色彩が溢れるようになった。90年代半ばには日本の出版社から制作依頼があり、担当者に「神々と動物に目を描いてもらえないだろうか」と言われた。以後、彼女は意識的に目を描くようになった。「今では、目が作品の大事な要素になっているの。あの日本人のおかげよ」。
また、彼女は版画と並行してアートブックとインスタレーションにも取り組み始めた。アートブックは著名、無名作家の文章の版下を組み込んだ手作りの絵本で、部数が多い場合は製本に出している。書籍見本市など、アートとは別ルートの展示・販売のチャンスがあるそうだ。一方のインスタレーションは祭壇をテーマに、純粋に楽しんで制作しているという。
2000年に、念願だったギャラリーと店舗を兼ねたアトリエを構えた。「アトリエがあるから、展覧会がない時も、作品やアートブック、グリーティングカードなどが売れる。この場所はとても重要なの」と言う。現在、彼女は年間5、6件の展覧会をこなしている。「アートだけで食べて行くのは大変。複数のチャンネルを持つことで、こうして続けることができたのよ」。
インタビューの後、彼女の仕事をしばらく見守った。自らのイメージを、彫刻刀を自在に操り、形にしていく彼女の手。天性のアーティストがそこにいた。
Atelier Tita do Rêgo Silva
Koppel 66, 20099 Hamburg
TEL: 040-28050599
www.titadoregosilva.de