メーデーの5月1日、ベルリン中央駅からレギオナルエクスプレスのRE5に乗って北へと向かった。この日の目的は、ベルリンから北へ80㎞の場所にあるラーヴェンスブリュック強制収容所跡を訪ねることだった。ここはナチス時代に主に女性を収容したことで知られ、この時代の書物を読むと折に触れて出てくる。「この場所をぜひ自分の目で見てみたい」という日本から来られたあるご夫婦の希望で、同行することになったのだった。
ラーヴェンスブリュック強制収容所跡の広大な敷地
私も初訪問の場所なので、未知数の部分も多い。1時間ほどで最寄りのフュルステンベルク駅に到着。駅から少し離れているので、タクシーでも拾えたらと思っていたが、駅前には1台もない。幸い、地元の小さな路線バスがやって来て、近くまで行くことができた。痛々しい姿の女性と子どもをモチーフにした彫刻作品、そしてソ連軍の戦車を横目に、収容所の敷地へと入る。新緑がまぶしい。右手にはシュヴェートゼーの湖が広がる。意外にも風光明媚な場所だった。
時刻はそろそろお昼。広大な収容所跡を見学する前に何か食べておきたかったのだが、それらしき店が見つからないまま、ビジターセンターに着いてしまった。受付で聞いてみると、湖のほとりに1軒だけレストランがあるとのことだったが、この日は休業。しかし、近くにユースホステルがあるというので、最後の望みでその受付を訪ねると、シリアルのスナックが置いてあった。それを買い込んでセンターの自販機でコーヒーのボタンを押す。普段ならばわびしい昼食となるところだが、この場所の歴史を思うと、何か食べられるだけでもありがたいと感じられてくる。
少し落ち着いてまず向かったのが、当時司令部だった建物を利用した博物館。ラーヴェンスブリュック強制収容所は、1939年にSS(親衛隊)によりドイツ領内で最大の女性収容所として建てられた。その後、次々とバラックが建てられ、男性用の収容区も造られた。39年から45年の間に、約12万人の女性と子ども、2万人の男性、さらに200人の少女たちが囚人として登録されていたという。
その裏手に広がる収容所の敷地を歩く。はるか向こうに、洋裁工場の建物が見えるので行ってみた。内部はガランとしていたが、当時の写真を見比べると、様子が想像できた。収容所は強制労働の場所でもあったのだった。少し離れたところにシーメンス社の工場跡地もある。入口近くに戻って来て、湖のほとりの中央記念碑を訪れる。そこに隣接してガス室、クレマトリウム、絞首刑場などのおぞましい場所があった。このガス室は、アウシュヴィッツの解放間近の45年1月になってから造られ、4月までの間に主に病人の女性5000〜6000人が殺害されたという。
フランスから強制輸送された女性と子どもを追悼する碑
収容所の壁に面して、国ごとに造られた追悼碑が並ぶ。ここには30カ国以上の出身国から成る女性が収容されていたのだ。「花をモチーフにしたデザインだったり、ほかの収容所跡と違う女性らしさを感じますね」と同行した女性が言った。
女性らしさや人間らしさを徹底して奪われた場所。日本で令和元年が始まった初日にここを訪ねたことは、忘れないだろう。
ラーヴェンスブリュック強制収容所跡
Mahn- und Gedenkstätte Ravensbrück
ブランデンブルク州フュルステンベルクにある強制収容所跡。ここに収容された12万の女性(ユダヤ人やシンティ・ロマも含む)のうち、2万8000人が命を落としたといわれる。ベルリンからは丸1日がかりの行程。フュルステンベルク駅から徒歩で30分ほど。途中、食事できる場所が少ないので、食べ物持参で行くのがおすすめだ。
開館:火曜〜日曜 9:00〜20:00(10〜4月は〜17:00)
住所:Straße der Nationen, 16798 Fürstenberg/Havel
電話番号:033093-608-0
URL:www.ravensbrueck.de
ザクセンハウゼン強制収容所跡
Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen
同じくブランデンブルク州のオラニエンブルクにある強制収容所跡。1936年に、首都ベルリンから近いモデル収容所として建てられ、ナチスの強制収容所のなかでも特別な役割を担っていた。現在はラーヴェンスブリュック強制収容所跡、ベーロウの森「死の行進」記念館などと並び、ブランデンブルク州の財団法人により運営されている。
開館:8:30〜18:00(10月15日〜3月14日は〜16:30)
住所:Straße der Nationen 22, 16515 Oranienburg
電話番号:03301-200-0
URL:www.sachsenhausen-sbg.de