ベルナウアー通りに面したかつての壁の緩衝地帯には、数年前から緑の芝生が植えられるようになった。初夏のこの季節、芝生の上を歩いて行くと、緑に混じって鮮やかな小麦色が目に入ってくる。「和解の礼拝堂」という名の小さなプロテスタント教会を囲むように、ライ麦が一面に生い茂っているのだ。周囲は住宅街というこの場所に突如出現するライ麦畑のことをずっと不思議に思っていたのだが、先日、長年この教会の牧師を務めてこられたマンフレート・フィッシャーさん(65)にお話を伺う機会があり、私の疑問は氷解した。
1961年の突然の壁建設により、東西の境界線上にあったベルナウアー通りの住民は大きな悲劇に見舞われた。何とか西側に逃げようと、決死の覚悟でアパートの上階から飛び降りる東側住民の映像をご覧になった方もいるだろう。19世紀末に造られた和解教会は2つの壁の間の緩衝地帯に取り残され、そこに誰も立ち入りできないという異常事態に陥っていた。1965年、教区(ゲマインデ)の西側の人々は、壁のすぐ手前に鉄骨の新しい教会を建てた。1975年、フィッシャーさんはこういう状況下で牧師となり、ここを仕事場兼住居としながら、毎日灰色の壁を見ていた。
和解礼拝堂(右)とライ麦畑の前のフィッシャーさん夫妻
壁の前に住むと言っても、ドラマチックな出来事がそう起こるわけではない。「壁を越えようとする脱走者を見たことはありませんね。稀に警報アラームが鳴ることはありましたが、緩衝地帯の上をさまようウサギなどの小さな動物に反応してのことでした」
1985年1月、そんな静かな日常で、突如「ドラマチックな」事件が起きた。緩衝地帯に取り残された和解教会が、東ドイツ政府によって爆破されたのだ。「壁は、人も建物も何もかもを破壊したので、こうなることもある程度は予想できた。しかし当時、東西間の雪解けが進んでいただけに、『一体なぜ今になって?』という思いでした。東独政府としては、監視の邪魔になるという現実的な理由だけでなく、あんな場所に教会を残しておくのは、対外的なイメージの悪化につながると考えたのでしょう。実際は、あの爆破によって東独に対する人々の印象はさらに悪くなったのです。ともあれ、元々の教会が破壊されたことで、もうあそこには戻ることができないのだ、壁の時代は今後もずっと続くのだと思っていました」
そのわずか4年後、壁は突如崩壊した。分断された教区が再び1つになったことは、もちろんフィッシャーさんにとって喜ばしいことだったが、気掛かりな点もあった。無用の長物となった壁が猛烈な勢いで撤去されていったことだ。
「教会」を改装して造られたベルリンの壁記録センター
「防衛のための壁はほかの町にもありましたが、ベルリンの壁は完全な『監禁』目的で造られました。それが街のど真ん中を横切っていたんですよ。『負の遺産とは言え、歴史の記憶の一部は留めなければ』と、私たちや文化財保護団体などは強く声を上げたんです」
長い月日を要することになるものの、それはベルナウアー通りの壁を記念碑として残す動きにつながっていった。(次回へ続く)
ベルリンの壁・記憶の場所
Gedenkstätte Berliner Mauer
ベルリンの壁の歴史を知る上では必見の場所。壁建設当時の映像が見られ、屋上が展望台になっている記録センターは、本文に登場する1965年建造の教会を改装したもの(2階のステンドグラスにその名残が見られる)。2010年には北駅近くにビジターセンターが完成した。記念碑は最終的に、壁公園の方まで拡張される予定。
開館(記録センターとビジターセンター):
火〜日9:30〜19:00(冬期は〜18:00)
住所:Bernauer Str. 111, 13355 Berlin
電話番号:030-467 9866 66
URL:www.berliner-mauer-gedenkstaette.de
和解教会
Versöhnungskirche
1894年に完成した赤煉瓦造りによるネオゴシック様式の教会。壁の建設後、教会の塔は東独の国境警備兵の監視塔として使われていた。東独政府による爆破の後、2000年、その跡地に後編でご紹介する和解礼拝堂が建てられた。礼拝堂のすぐ横には、和解教会の建物跡が地面に刻まれているほか、かつて教会で使われていた鐘が並べられ、毎日12時に鳴らされる。