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冷戦時代のレーダー跡地 トイフェルスベルク

ベルリンのSバーンに乗ってヘーア通り駅で下車し、徒歩で南西へ向かうと、小高い山の上に白いドームが見えてきます。山の名前は「Teufelsberg(トイフェルスベルク)」。「悪魔の山」と名付けられたこの山の標高はおよそ120メートルで、ベルリンでは2番目に高い地点です。このトイフェルスベルクでは、ベルリンの近現代史を物語るような、さまざまな変遷を見ることができます。3月初旬にこの山の歴史を巡るガイドツアーに参加したので、その様子をレポートします。

ヘーア通り駅から山道を登ること30分、目の前に巨大なドームが姿を現しました。よく見るとドームの外装は破れてボロボロ。建物には窓はおろか、壁すら存在していない箇所があります。まさに廃墟そのものといった風情ですが、一方で壁面には大小のグラフィティアートが描かれていて、何とも言えない奇妙で退廃的な雰囲気です。

廃墟となったかつてのレーダー施設。ドーム内は残念ながら入場禁止廃墟となったかつてのレーダー施設。ドーム内は残念ながら入場禁止

受付で入場料とツアー参加費を払い(合計15.50ユーロ)、ほどなく13時からガイドツアーが始まりました。この日は13時からドイツ語、15時から英語のツアーが行われていて、それぞれの所要時間は約90分。集まったのは30人ほどで、10代の若者から高齢の方まで幅広い年齢層が参加していました。

最初にこの山の成り立ちについて、ガイドの男性から説明がありました。トイフェルスベルクは人口の山で、第二次世界大戦の爆撃で廃墟になったベルリンの瓦礫を集め、それらを積み上げてつくられました。瓦礫の量はベルリン全体の約3分の1にも上るそうです。また1972年には土をかけて整地し、100万本もの木が植えられました。そして東ドイツ、さらにはソ連の無線傍受に適しているとして、西側諸国が諜報目的のレーダーを設置したとか。これらの話は、私にとっては驚きの連続でした。遠くから見えた白いドームは、冷戦時代のレーダーの残骸だったのです。

当時、職員の食堂として使われていた部屋当時、職員の食堂として使われていた部屋

概要の説明が終わると、施設内を歩いて見学しました。かつての軍事施設や食堂は、多くのインスタレーションや彫刻、グラフィティで彩られていて、さながら現代アートのギャラリーのよう。東西ドイツの再統一、そして冷戦終結後に誰も使わなくなったこれらの施設は、一転してストリートアーティストたちの活動場所へと変貌していきました。

施設内はいたるところにグラフィティアートが描かれている施設内はいたるところにグラフィティアートが描かれている

「ここが私のかつての職場です」。最上階のドームの真下でガイドがそう言うと、聴衆にざわめきが広がりました。彼はなんと、かつてこの施設の職員として働いていたのです。「毎回、ここに来るたびに新しい絵が増えているんですよ」と言う彼の目には、第二次世界大戦、ドイツの東西分断、そして現代のストリートアートまでもが、ひとつなぎで見えているに違いありません。ベルリンの複雑な歴史がそのまま形になったようなトイフェルスベルク。機会があれば、ぜひ一度訪れてみてください。

 
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中村さん中村真人(なかむらまさと) 神奈川県横須賀市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。現在はフリーのライター。著書に『ベルリンガイドブック』(学研プラス)など。
ブログ「ベルリン中央駅」 http://berlinhbf.com
守屋健(もりやたけし)
ドイツの自動車、ビール、そして音楽に魅せられて、2017年に渡独。現在はベルリンに居を構えるライター。健康維持のために始めたノルディックウォーキングは、今ではすっかりメインの趣味に昇格し、日々森を歩き回っている。
守屋 亜衣(もりや あい)
2010年頃からドイツ各地でアーティスト活動を開始し、2017年にベルリンへ移住。ファインアート、グラフィックデザイン、陶磁器の金継ぎなど、領域を横断しながら表現を続けている。古いぬいぐるみが大好き。
www.aimoliya.com
佐藤 駿(さとう しゅん)
ドイツの大学へ進学を夢見て移住した、ベルリン在住のアラサー。サッカーとビールが好きな一児のパパです。地元岩手県奥州市を盛り上げるために活動中。
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