ドイチェ・ポストの社長だったクラウス・ツムヴィンケル氏は、「私の財政基盤はしっかりしているので、お金には魅力を感じない」と語ったことがある。郵便事業の民営化を成功させたのは、彼の功績だ。政府から連邦功績十字章も授与された、ドイツ財界のエリート中のエリートである。
それだけに、同氏がリヒテンシュタインの銀行を使い、数百万ユーロを脱税していた疑いで検察庁から摘発されたことは、ドイツ社会に強い衝撃を与えた。所得格差が広がるなか、市民の財界重鎮への不信感は募る一方である。ツムヴィンケル氏の権威は地に落ち、庶民の怒りはさらに強まるだろう。
しかも、検察庁と国税当局が標的としているのは、ツムヴィンケル氏だけではない。捜査当局は、対外諜報機関である連邦情報局(BND)の助けにより、リヒテンシュタインのLGT銀行の顧客リストが入ったCD-ROMを入手した。このリストを分析した結果、富裕層に属するドイツ市民数百人が、リヒテンシュタインに財団を設立することによって脱税していた疑いが強まっている。同国では、財団に払い込む資本金については0.1%の税金しかかからない。そのうえ資本金からの利息収入は無税という、タックス・ヘイブン(租税回避地)である。
DAX市場の上場企業の社長が、テレビカメラの前で検察官に連行されたのは、ドイツ史上初めて。エリートの堕落は極まったと言わざるを得ない。
ドイツでは、脱税に対する刑事罰が比較的軽い。裁判所は最高10年の懲役刑を課すことができるが、ほとんどの被告は執行猶予を与えられるので、刑務所に入る必要はなく罰金を支払うだけである。テニスプレーヤーのボリス・ベッカー氏も罰金刑を受けたが、社会から糾弾されてはいない。一部の富裕層の間では、「税金が高いのが悪い。脱税はそれほどあくどい行為ではない」という意識が広がっている。
このため政治家の間では、脱税を行った市民に対する罰則を厳しくすべきだ、という声が強まっている。ツムヴィンケル氏も本来は身柄を拘束されてもおかしくないところだが、1億円を超える保釈金をぽんと払ったので、逮捕を免れた。これも富裕層だからできることである。
源泉徴収の対象となるサラリーマンや労働者は言うまでもなく、大半の経営者は、きちんと収入を申告し、税金を納めている。自営業者は利益の半分近くを税務署に取られる。日本や米国とは異なる社会保障国家だから仕方がないとはいえ、ほとんどの納税者は税金の高さに頭を痛めているだろう。
今回、検察・国税当局が摘発したドイツ最大の脱税事件は、「社会の公平性」をめぐる議論にいっそう拍車をかけることは間違いない。大連立政権が、格差の広がりという社会問題について具体的な解答を示すことができなければ、今後、州議会や連邦議会選挙では、ヘッセン州やニーダーザクセン州のように左派政党「リンクス・パルタイ」が躍進するだろう。メルケル政権に残された時間は少ない。市民の怒りは高まっている。
29 Februar 2008 Nr. 703