ジャパンダイジェスト

ラニツキが取り戻した名誉

独断時評ベルリンの大通りに面した、堂々たるフンボルト大学。2月16日に、ここで86歳の文芸評論家が69年前に奪われた名誉を取り戻した。マルセル・ライヒ・ラニツキ氏は、1943年にフンボルト大学の哲学科への入学を希望したが、大学当局はラニツキ氏がユダヤ人だという理由で、受け入れを拒否した。大学当局はこのことについて謝罪するとともに、ラニツキ氏に名誉博士の称号を授与したのだ。フンボルト大学は、99年に謝罪を求められた時には拒否した。これに対し、ベルリン自由大学やテルアビブ大学は、彼に名誉博士号を与えた。2006年に就任したC・マルクシーズ学長は方針を変更して、老文芸評論家の名誉を回復させた。

学長は「過去に行われた不正義を償ったり、なくしたりすることはできません。我々は、ドイツが引き起こした惨禍について、我々の責任を意識することしかできません」と語った。

ラニツキ氏は、ハインリヒ・ハイネを愛し、ゲーテやシラーなどの作品に耽溺する文学青年だった。だが、彼が愛する文学作品を生んだドイツ民族はオーストリア生まれの反ユダヤ主義にこりかたまった犯罪者ヒトラーに籠絡され、欧州全体に大きな災厄をもたらす。

ラニツキ氏は1938年にポーランドへ移送されて、ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められた。彼はユダヤ人自治組織でナチス親衛隊とユダヤ人の間の通訳や、命令書、議事録の翻訳を行うことによって辛くも生き延びたが、両親はトレブリンカ絶滅収容所で殺害された。彼は映画「戦場のピアニスト」に描かれたユダヤ人ピアニスト、シュピールマンも知っていた。ゲットーで市民が飢えと病で次々と倒れるのを目にし、ユダヤ人の蜂起の後、ナチスが報復のためにワルシャワをほぼ完全に破壊するのを目撃した。

彼は戦後もドイツにとどまり、辛口の批評によって、この国の文学界に大きく貢献した。ラニツキ氏は名誉博士号授与にあたって行われた講演で、「私の人生はフンボルト大学と、国立オペラ劇場の間で過ごされるはずでしたが、実現しませんでした」と語った。この言葉には、青春時代がユダヤ人迫害によって永遠に奪い取られたことに対する無念が込められている。86歳になって名誉博士号を贈られても、時の歯車を戻すことはできない。ガス室や処刑場の露と消えた600万人のユダヤ人に比べれば、69年後に名誉を回復された彼は、被害者としては運が良かったほうである。

フンボルト大学が遅まきながら謝罪したことは、ドイツ人の中に過去との対決を重視する人がいることを示している。しかし、すでにこの世を去った大量虐殺の被害者にとっては、そうしたジェスチャーにどれほどの意味があるのかという重い問いをも突きつける。筆者にとってドイツで暮らすことの意味の1つは、日常の様々なニュースが現代史について考える機会を与えてくれることだ。

2 März 2007 Nr. 652

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
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