メルケル首相にとって今月半ばのポーランド訪問は重要な意味を持っていた。ドイツに批判的なレフ・カチンスキ大統領とじっくり話し合って、ポーランドでふつふつと湧き上がる警戒感を減らすという目的があったからである。
「私は大統領と大変実りの多い会談を持った」とメルケル首相が強調するのも、一応理解できる。会談後、カチンスキ大統領は欧州連合(EU)議長国であるドイツに配慮して、EU憲法草案を原則として受け入れる方針を明らかにしたのだ。大統領はEUの機構改革についてドイツと共同歩調を取ることも約束した。会談が完全に決裂しなかったことは、まず評価するべきだ。
しかし、メルケル首相にとって問題が全て解決したわけではない。ポーランド国民、特に西部のシレジア地方の市民の間では、ドイツの保守派の行動に対して懸念が強まっているからだ。ドイツでは東西統一以降、「第2次大戦中にドイツは加害者だったが、被害者でもあった」という意見が次第に強まっている。
戦争が終わるまではドイツ帝国の一部だったシレジア地方は、連合国のポツダム合意によって、ポーランドに編入された。このためドイツ市民が着のみ着のままで追放され土地や財産を失ったことは、人々の心の底に苦い記憶として残っている。シレジア地方から追い出されたドイツ人の数は、約690万人。西へ向かう途中でポーランド人による襲撃や、飢えや寒さ、病気などで死亡した市民の数は110万人にのぼる。生き延びた人々もドイツ本土でゼロから出発しなくてはならなかった。
シレジア出身のドイツ人たちが晩年を迎えるにつれて、望郷の念は強まる一方だ。東西を分断していた鉄のカーテンが崩壊してからは、多くのドイツ人が自分の住んでいた家などを見学するためにポーランド西部へ出かけている。故郷で奪われた財産への執着心も消えない。
ドイツ追放被害者連盟は、「ベルリンにはホロコースト被害者の追悼碑だけでなく、世界中の追放問題を扱う博物館も作るべきだ」と主張して、ポーランド人を不安がらせている。彼らは2000年に「プロイセン信託」という相互扶助企業を設立した。そして同社は、追放被害者1000人を代表し、ポーランドからの不動産の返還を求めて、欧州裁判所に提訴した。メルケル首相は「ドイツ政府は、こうした土地返還の動きに一切支援を与えていない」と説明しているが、シレジア地方に住むポーランド人は不安を抱いている。
ドイツ市民が追放や連合軍の爆撃によって大きな被害を受けたことは間違いない。従って彼らには「我々は被害者でもあった」と主張する権利はある。だが追放や爆撃の根源が、ドイツ市民が選挙によってヒトラーを政権の座につけたことにあるという事実を忘れてはならない。歴史的な文脈を無視して、「ドイツ人被害者論」だけを独り歩きさせるのは、危険である。
追放問題(Vertreibung)は、旧加害者であるドイツと、旧被害者ポーランドの間に深く刺さった棘(とげ)である。果たしてメルケル首相は、両国の和解に向けて大きく貢献することができるだろうか。
30 März 2007 Nr. 656