今年はベルリンの壁が崩壊してから20年目に当たる。そのきっかけは、1989年11月9日の夜、東ドイツ政権党SED(社会主義統一党)の政治局員が記者会見でなにげなく漏らした「新しい出国規則は、直ちに適用される」という言葉だった。政府はこの日に国境を開放する予定はなかったが、西側のマスコミは政治局員のこの言葉を聞いて、「ベルリンの壁が開いた」と一斉に報じた。ニュースを聞いた東ベルリン市民は国境の検問所に殺到。警備兵たちは人波を抑え切れなくなって検問所の遮断機を開き、東ドイツ人たちは西側に怒涛のように流れ込んだ。28年間にわたって街を分割していた壁が崩れた瞬間である。
私は20年前、身を切るような寒さのポツダム広場で、壁が取り除かれた場所を通って人々が西ベルリンに続々と流れ込む様子を眺めながら、深い感動が身体の中に沸き起こるのを抑えることができなかった。この出来事がきっかけとなって、ドイツはわずか1年足らずの間に統一を達成した。ワルシャワ条約機構も解体されたほか、その盟主だったソ連も消滅する。ベルリンの壁崩壊は、ドイツ現代史の中で最もドラマチックな出来事の1つである。
東西ベルリンを分割した高さ3.8メートルの壁ほど、冷戦によって翻弄されたドイツの悲劇を如実に象徴するものはない。28年の間に西側へ逃げようとして国境警備兵に射殺された市民の数は、ベルリンだけで約190人に上る。ベルリン以外の地域、さらに壁ができる前の時期も含めると、西側への亡命を図って命を落とした人の数は約890人に達する。統一後、犠牲者の遺族や旧西ドイツの人々は、「国を離れようとしただけで自国民を撃ち殺した旧東ドイツは“不法国家”だ」と強く批判した。
ところが、壁の記憶は急速に風化しつつある。現在ベルリンに行っても、壁が街を分断していたことを示す物はなかなか見つからない。ミッテ地区とヴェディング地区の境にあるベルナウアー・シュトラーセの「ベルリンの壁資料館」の前には、壁や当時の街灯、無人地帯がモニュメントとして保存されているが、80年代にこの街を訪れた時に感じた威圧感は感じられない。路上には敷石が並んでおり、「ベルリンの壁(Berliner Mauer)1961年-1989年」と書かれているが、注意しないと見落としてしまう。
最近、ベルリン自由大学が全国生徒を対象に行ったアンケートによると、「壁を建設したのは旧西ドイツだった」と答えた若者がいた。また、旧東ドイツの回答者の半分が、「社会主義時代の東ドイツは独裁国家ではなかった」と答えている。これほど誤った認識が広まっているとは嘆かわしいことである。旧東ドイツでは今よりも失業者の数は大幅に少なかったかもしれない。しかし、政府を批判する論文を発表するだけで秘密警察に逮捕される危険があった。そして共産党が支配し、野党の存在を許さない1党独裁国家であった。
壁崩壊から20年を迎える今年、ドイツ政府は冷戦がどのような悲劇をもたらしたかについて、改めて記憶にとどめる作業に力を入れるべきではないだろうか。
9 Januar 2009 Nr. 747