ジャパンダイジェスト

ベルリンの壁崩壊20年(上)


©Foto:Toru Kumagai
1989年の11月、NHKのワシントン特派員だった私は、壁が崩壊した直後のベルリンに派遣された。寒風が吹き付けるポツダム広場では壁の一部が撤去され、東独市民たちが徒歩や車で次々に西ベルリンに入ってくる。人々がハンマーやのみで、町を長年にわたって分断していた壁を叩き、破片を集めている。涙を流しながら壁を叩いている女性もいる。時折ハンマーから飛び散る火花が、壁崩壊という歴史的な出来事を祝う花火のように見えた。ベルリン全体が異様な興奮に酔っていた。(写真は筆者撮影)

西独で80年代の初めに「壁が崩壊する」と言ったら、その人は笑い飛ばされ、夢想家扱いされたに違いない。東独の最高指導者ホーネッカーは、「壁は100年間持ち応える」と豪語していた。その壁があっけなく崩壊した。当時ドイツ人から最も頻繁に聞かれた言葉は「Wahnsinn!(とても信じられない、ありえない)」だった。

私は壁で分断されたベルリンを何度も訪れていた。89年にも8月に番組の取材のためにベルリンの壁の前でビデオ撮影を行ったばかりだった。それだけに、壁崩壊の衝撃はひとしお強かった。「ヨーロッパはこれから大きく変わる」。私は歴史が音を立てて動く現場を見て、こう確信した。

壁崩壊から1年足らずの間に東独は消滅し、当時首相だったコールは悲願のドイツ統一を実現する。分断の歴史にピリオドが打たれ、ドイツは国家主権を回復したのだ。コールが「自由の勝利」と呼ぶ統一がこれほど早く実現した裏には、様々な要素が働いている。

まず、ハンガリー政府が89年の夏にオーストリアに通じる鉄条網を切り、国境を開放して東独市民の亡命を許したことも、壁崩壊に繋がる重要な出来事だった。これ以降、多数の東独市民たちがハンガリーとチェコを通じて西側に亡命したことは、東独政府を弱体化させ、国内の不満を高める大きな原因となった。

さらに、ライプツィヒやドレスデンで東独市民が警察の弾圧を恐れずに、大規模なデモを繰り返したこと。彼らの勇気は社会主義政権を動揺させた。さらに市民が非暴力の姿勢を貫いたことも、無血革命が実現した理由の1つである。

また、当時ソ連の指導者が社会主義体制の改革を進めたゴルバチョフだったことも重要である。コールは回想録の中で「ベルリンの壁が崩壊したとき、武力衝突や流血は一切なかった。これは奇跡だ」と述べている。53年6月に東独の労働者たちが自由を求めて蜂起した時、ソ連軍は戦車を出動させて市民に発砲し、多数の死傷者が出た。このことを考えると、89年の東独革命で、ソ連が軍を出動させて市民を弾圧しなかったことは大きな幸いだった。ホーネッカーに批判的だったゴルバチョフは、暴力で東独政府を救おうとはしなかったのである。

一方で、当時米国の大統領だったブッシュ(父)が、西独政府の統一政策を強く支援したことも見逃せない。英仏など周辺諸国が統一に強い警戒感を持っていたのに対し、米国だけはコールを支持した。彼は今も敬意を込めてブッシュ氏を「私の友人」と呼んでいる。

だが、統一には影の面もある。ドイツ統一は政治的には成功したが、経済的には失敗した。次回はその点についてお伝えしよう。(この項続く)

13 November 2009 Nr. 791

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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