ジャパンダイジェスト

ドイツ統一とコール

1990年10月3日、当時のコール政権は東西ドイツの統一に成功した。ドイツはベルリンの壁崩壊から1年足らずで東西分断に終止符を打ち、国家主権を回復するという悲願を達成したのだ。コール氏の政治的センスは評価に値する。彼は壁崩壊をドイツ統一への千載一遇のチャンスと考え、わき目も振らずにこの目標へ向けて猪突猛進したのだ。私は1990年9月からミュンヘンに住んで、統一後ドイツがどう変化したかを定点観察してきたが、スピード統一の背景にはコール氏の手腕だけではなく、いくつかの「幸運」があったことを強く感じる。

コール首相は、壁が崩壊するや否や、米国など旧連合国と積極的な交渉を開始。特にブッシュ大統領(父)の強力な支援を得ることができた。当初、ソ連と英仏が統一に否定的だったことを考えると、米国がドイツの後ろ盾となったのは大きな幸いだった。

さらにソ連の最高指導者がゴルバチョフという、ソ連では稀な人物だったこともドイツにとっては幸運だった。ソ連は当初、統一後の東ドイツが西側の軍事同盟NATO(北大西洋条約機構) に加盟することに反対していた。しかしコール氏は粘り強く交渉を続け、ゴルバチョフの説得に成功した。もしも当時、ソ連の最高指導者がブレジネフやチェルネンコのような頑迷で保守的な人物だったら、ソ連がこれほど早く東ドイツを明け渡すことはなかったに違いない。変革を恐れないゴルバチョフは、ソ連の指導者としては珍しい人物だった。

そもそもベルリンの壁が崩壊して東ドイツ市民が西側に流れ出した時、ベルリン周辺に駐留していたソ連軍が出動してこの「無政府状態」を武力で鎮圧しなかったことも、ドイツにとっては僥倖(ぎょうこう)だった。ライプツィヒやドレスデンで市民の改革要求デモが起きた時にも、ソ連の戦車は沈黙したままだった。

だが欧州現代史のページをめくると、ソ連が過去に東ドイツやチェコ、ハンガリーなどで起きた市民の反政府デモや暴動を何度も軍事力で押さえ込み、多数の死傷者を出してきたことに気付く。そう考えると、1989年にソ連軍が出動せず、東ドイツの「市民革命」が犠牲者なしに成功した背景にも、ゴルバチョフの配慮が感じられる。

コール氏は回想録の中で当時を振り返り、「統一の過程は川を渡るようなものだった。私たちは膝まで水につかり、霧のために前方がよく見えなかった。私たちはどこかに安全な道があると確信していたので、一歩一歩足で確かめながら前へ進み、ついに反対側の岸に着いた。神の助けがなければ、私たちは到底この目標を達成できなかっただろう」と述べている。敬虔なキリスト教徒であるコール氏の本音がにじみ出ている。「幸運の女神には後ろ髪はない」ということわざがある。成功への扉が開いている期間は短いのだ。実際、1990年代初頭に、ソ連は政治的、経済的に混迷を深めて崩壊し、ゴルバチョフも政治の舞台から姿を消す。コール氏がこの 人物にすべてを賭けて歴史の急行列車に飛び乗ったのは、正しい判断だった。

もちろん統一が経済的に成功したとは言い切れない。コール氏の旧東ドイツ再建に関する見通しは、甘かった。統一から20年経った今なお、旧東ドイツは莫大な資金援助を必要としており、若者の西側への流出が続いている。しかし政治的には、ドイツ統一は成功だった。ソ連によって半世紀近く「占領」されてきた地域が解放され、市民が自由を獲得したことは、コール氏が成し遂げた大きな業績として歴史に記録されるだろう。

15 Oktober 2010 Nr. 838

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
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