ジャパンダイジェスト

エジプト革命とドイツ

エジプトが、そして中東が前代未聞の事態に揺れている。1日、エジプト全土で100万人の市民がムバラク大統領に対する抗議デモを繰り広げた結果、同氏は次の大統領選挙に立候補しないことを明らかにした。だが今回の騒乱では、治安部隊の発砲によってすでに約100人の市民が死亡しており、人々の怒りはムバラク氏が退陣するまで収まらないだろう。一部地域では暴動や略奪により治安が悪化しているほか、ゼネストによって生産活動が停止し、経済に悪影響が出始めている。

アラブの国でこのような歴史的な事件が起きると、一体誰が予想しただろうか。チュニジアで起きた市民デモによって独裁者が国外に逃亡した後、エジプトに飛び火した革命は、1981年から続いたムバラク政権にも終止符を打とうとしている。政府は治安を回復するために戦車や装甲車を投入したが、兵士たちは何万人もの市民に圧倒され、「デモ隊に発砲しない」と宣言する始末。この時ムバラク氏の敗北は決まった。

少なくとも現時点では、この市民デモは草の根から発生したものであり、イスラム過激派によって組織されたものではない。欧州委員会や各国政府にとっても今回の事態は青天の霹靂(へきれき)だ。アラブ諸国では、独裁的な指導者が警察や軍を使って強権的な政治を行なっていることが多い。反体制派が投獄され、拷問にかけられることも珍しくない。言論の自由も確保されていない。そうした国で、人々が身の危険を顧みずに街へ出てムバラク氏への怒りをぶちまけ、軍にも止められない革命に発展したのは驚くべきことだ。ヨルダンの国王が1日に突然首相を交代させたことは、アラブ諸国の指導者の間で自国に革命の火の粉が飛んでくることへの恐怖感が高まっていることを示している。

しかしメルケル首相をはじめ、欧米諸国の首脳によるエジプト情勢についての発言は、非常に歯切れが悪い。エジプト政府はアラブ諸国の中でほぼ唯一イスラエルに対して比較的穏健な態度を取ってきた国だからだ。いわばムバラク政権は、欧米諸国にとってアラブ世界との重要なパイプ役を担っていたのである。この見返りとして米国は毎年エジプト政府に20億ドル(約1660億円)もの援助を行ってきた(その内半分以上が軍事援助。今回カイロの路上に出動した戦車もほとんど米国製)。欧米は、公然とムバラク氏の退陣を求めにくいのだ。

欧米やイスラエルにとって最も都合の悪い事態は、ムバラク政権が倒れた後にイスラム過激派と関係の深い政権が生まれて、イスラエルと敵対関係を持つことだ。エジプトでは、「ムスリム同胞団」という過激組織が深い根を張っている。かつてサダト大統領を暗殺したのは、この組織のメンバーである。またムスリム同胞団は、2001年の同時多発テロの首謀者とも関係があった。ムスリム同胞団は今回のデモに加わっているが、中心的な役割を果たしてはいない。

だがムバラク後のエジプトで長期間混乱が続いて市民の不満が高まった場合、この過激組織が権力を手中に収めようとする危険がある。欧米諸国が期待を掛けている穏健派のエルバラダイ氏も、エジプト市民の間では知名度が低い。ドイツ政府はナチスがユダヤ人を迫害・虐殺した反省から、イスラエルの利益を守ることに極めて熱心である。ドイツ政府は、チュニジアからエジプトに広がった造反が連鎖革命となってほかのアラブ諸国に広がり、中東全体でイスラム過激勢力が伸張する事態だけは避けたいと考えているに違いない。ただし、欧米の指導者たちも、長い間政府に抑圧されてきた民衆のパワーが爆発するのを抑えられないことは肝に銘じるべきだ。

11 Februar 2011 Nr. 854

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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