ジャパンダイジェスト

ロストックの警鐘

リヒテンハーゲン地区の団地

無機質な団地が建ち並ぶ、旧東独ロストックのリヒテンハーゲン地区。今年8月26日、壁にヒマワリが描かれた高層住宅の前で、ヨアヒム・ガウク連邦大統領を招いてある式典が行なわれた。20年前の夏に起きた、恥ずべき出来事を心に刻むための式典である。

1992年8月22日から24日にかけて、ネオナチらがこの建物内にあった亡命申請者の登録センターに放火した。当時この棟には、ベトナム人の労働者ら100人あまりが住んでいた。極右の若者たちは、建物に投石したり、火炎瓶を投げ込んだりしたが、奇跡的にベトナム人の間に死傷者は出なかった。ネオナチたちが石で窓ガラスを割ると、付近の住民たちが拍手喝采した。警官隊は現場から引き揚げており、誰も極右の暴力を制止しなかった。

私は事件の2カ月後に現場を訪れた。ガラス窓約30枚が割れたままで、木の板がはめられている。窓の上の壁は煤で真っ黒に汚れ、ネオナチが放った憎しみの劫火のすさまじさを感じさせた。

1992年は、異常な年だった。極右による暴力事件が2285件に達し、17人の外国人やドイツ人が極右勢力によって殺された。ロストックでの放火事件の3カ月後には、旧東独に近い旧西独のメルンで、ネオナチがトルコ人の住む家に放火し、3人が焼き殺された。同じような殺人事件は後にゾーリンゲンでも起きた。

ガウク大統領はロストックでの式典で、「リヒテンハーゲンの事件は、ドイツにとって負の烙印である。市民社会だけでなく、国家が機能不全を起こした。統一直後のメクレンブルク=フォアポンメルン州で、まだ警察組織の整備が進んでいなかったということは、言い訳にならない」と批判。そして「民主主義社会は自衛力を持たねばならない」と指摘した。さらにガウク氏は、「ドイツは移民国家である」と断言した上で、「将来も外国人に対する不安感を持つ人はいるだろう、しかし不安に対する解答は憎悪ではなく、連帯感であるべきだ」と述べ、外国人との協調を訴えた。

社会主義時代の東独は、全体主義国家だった。このため旧東独の若者の間には、ナチスの思想に染まる者の比率が、西側よりも高かった。旧東独の外国人比率は2%で、旧西独よりもはるかに低い。90年代初めには、経済水準を引き上げるために、ドイツに亡命を申請する外国人の数が急増した。リヒテンハーゲンの団地には、一時東欧からの亡命申請者が殺到し、市民の不満が高まっていた。ドイツ統一後、国営企業が民営化・閉鎖されて多数の失業者が生まれる中、一部の市民たちは「外国人は我々の職を奪う。彼らはドイツの寄生虫だ」と憎しみの目を向けていたのだ。

旧東独には、今もネオナチの影が残っている。テューリンゲン州のネオナチ組織NSU(国家社会主義地下組織)が、11年間にわたってミュンヘンなど各地で外国人とドイツ人警察官10人を射殺したことが、昨年、明らかになった。極右は地下に潜ってテロ活動を行っていたのだ。ドイツの捜査当局が11年もの間、ネオナチの犯行と気付かず、被害者であるトルコ人の犯罪と思い込んでいたことも、ロストックの放火事件と同様、社会の冷淡さ、無関心を浮き彫りにしている。メクレンブルク=フォアポンメルン州議会では、ネオナチ政党NPDが議席を持っている。彼らはお年寄りの介護などボランティア活動を通して、着々と支持層を広げつつある。

私自身は、社会の恥である出来事を忘却の彼方に押し流さず、大統領まで式典に招いて心に刻む姿勢を、ドイツの民主主義の健全さの表れだと感じている。今後もひるむことなく、極右との戦いを続けて欲しい。ロストックの警鐘を忘れてはならない。

7 September 2012 Nr. 935

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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