8月13日は、ドイツ人にとって忘れられない日です。1961年、つまり46年前のこの日に、旧東ドイツ政府がいわゆる「ベルリンの壁」を建設し始めたからです。ドイツを東西に分断したこの壁によって、多くの家族が別れ別れになりました。建国間もない東ドイツでは、社会主義政権に不満を持った市民たちが、車や徒歩で続々と西ドイツに移住しました。東ドイツ政府は、この「民族の大移動」に歯止めをかけるために壁を作ったのです。
私も1980年に、ベルリンの町を横切るみにくい灰色の石壁を見ました。そしてチェックポイント・チャーリーという検問所を通過して東ベルリンへ行き、東西冷戦の厳しい現実を、肌で感じました。もともと1つの国だった東西ドイツを壁で実際に分断し、市民がお互いに行き来できなくするという徹底した態度にも、ドイツ的な頑固さ、執念を感じました。
さてドイツでは、8月13日直前に1枚の文書が大きな注目を集めました。連邦政府のシュタージ(国家保安省)文書管理局は、社会主義時代の秘密警察が作成した大量の文書を保管しています。今回公にされたのは、文書管理局がマグデブルクで見つけた命令書です。この文書は国境警備部隊、特にその中に潜入していたシュタージ要員に対して、「国境を超えて西側に逃亡しようとする東ドイツ市民については、たとえ妻や子どもを連れていても、ためらうことなく発砲せよ」と 命令していました。
東ドイツ政府が、逃亡者を防ぐために武器を使用するよう命じていたことは、これまでも知られていました。また、この文書の存在についても、すでに研究者が指摘したことがあります。つまりこの文書そのものは新しいものではありません。
しかし、シュタージが女性や子どもに対しても、発砲するよう文書で命じていたことは、東ドイツ政府の冷酷さを改めて浮き彫りにするものです。1961年からの27年間に、国境を超えようとして射殺された東ドイツ市民の数は、1245人に上ります。ベルリンだけでも133人が犠牲になっています。自分の国を不法に去ろうとしただけで射殺されるというのは、やはり人道に反する国と言わざるを得ません。
私は壁が開かれた1989年直前にベルリンで逃亡を試み、射殺された青年の母親、カリン・ゲフロイさんにインタビューしたことがあります。彼女の無念な表情、そして東ドイツ政府に対してぶちまけた強い怒りの言葉は、今も忘れられません。
逃げる市民に弾が当たらないように、わざと狙いを外した国境警備兵は、厳しく処罰されました。これに対し、発砲によって逃亡を防いだ兵士は勲章や特別休暇を与えられました。映画「善き人のためのソナタ」でシュタージの将校を演じた故ウルリヒ・ミューエ氏も国境警備兵だったことがあります。彼は「自分の担当する地区で逃亡者が出たら、発砲しなくてはならない」という心理的なストレスのために、ひどい胃潰瘍を患い、今年胃がんで死亡する遠因となりました。
壁崩壊後、東ドイツの首相を務めたこともあるエゴン・クレンツ氏は、いまだに「逃亡者への発砲命令はなかった」と主張していますが、そうした傲慢 さは多くの犠牲者と遺族を侮辱するものではないでしょうか。
24 August 2007 Nr. 677