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ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年を迎えた。この節目にドイツニュースダイジェストでは、2号にわたってベルリンの壁をテーマにした特集をお届けすることにした。かつて2つに分断されていたドイツの歴史を深く掘り下げるとともに、ベルリンの壁にまつわるエピソードを取り上げ、そしてこれまでの30年を振り返る……そう遠くないドイツの過去から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。前編では、そもそもなぜベルリンの壁が建設されたのかをひも解き、分断時代を知る人々に聞いた東西の暮らしぶりを紹介。まずは、1945年まで時計の針を巻き戻してみよう。(Text:編集部)

東西分断時代を知る人に聞いた 壁の中の暮らし・壁の外の暮らし

歴史の教科書ではなかなか知ることができない、2つのドイツの市民の暮らしぶり。28年もの間、壁で囲まれていた西ベルリンの生活はどのようなものだったのか、そして、社会主義というシステムのなかで東ベルリンや東ドイツの人々の自由はいかに制限されていたのか。東西分断時代を知る4人の方に、それぞれの経験や感じていたことを聞いた。

お話を聞いた人

  • 永井潤子さん 1934年東京都生まれ。日本短波放送(当時)に勤め、1972年にケルンに移住、ドイチェヴェレの日本語放送記者として働く。2000年よりベルリン在住フリージャーナリスト。
  • 吉岡俊司さん 1949年生まれ、和歌山県で育つ。ハンブルク、デュッセルドルフを経て、1973年に西ベルリンに移住した。2018年まで日本食レストランのオーナー。
  • アンドレアス・ガンドウさん 1950年東ベルリン生まれ。1956年、政治的な理由で両親と7人の姉とともに西ベルリンに移った。元新聞記者で、日本特派員として約20年日本に住んだ経験も。
  • ウーヴェ・ベネケさん 1970年東ベルリン生まれ。大学進学前の兵役中に壁が崩壊した。1999 年、東ベルリン出身の4人の仲間とゲーム会社を立ち上げ、現在も同社の共同経営者。

WEST 壁の中の暮らし

西ドイツの一州として、東ドイツの中にぽつねんと存在した西ベルリン。分断時代には「赤い海に浮かぶ自由の島」とも言われたが、実際には壁に囲まれた生活に窮屈さを感じる人も多かったようだ。

50~60年代 怖い思いをした西ドイツへの電車移動

西ベルリンから西ドイツへ行く時は、必ず東ドイツを通らなければならず、子どもの頃、ハンブルクやハノーファーへは電車を利用しました。今でも忘れられないのが、東ドイツの入国審査官と国境警備隊。彼らは国境地帯で電車に乗り込み、コンパートメントのドアを開けて入ってきます。審査が終わるとポンポンポンとスタンプを押してドアを閉め、次のコンパートメントに移っていきました。そのドアの開け閉めをする音は、ある意味トラウマでもあります。(ガンドウさん)

60年代 夏休み以外は西ベルリンから出られず

1960年に合唱団に所属し、61年の始めから夏にかけて月に1度、東ベルリンの教会に歌いに行っていました。その頃はまだ西と東の行き来は自由でしたが、その後すぐに壁ができてしまったため、夏休み以外は西ベルリンを出る機会がなくなってしまいました。(ガンドウさん)

60年代 年に2回だけ親戚を訪ねて東へ

クリスマスとイースターの時期だけ、東ベルリンの親戚を訪ねることが許されていました。フリードリヒ通り駅から入国することになっていたのですが、まずはビザのチェック、税関、そして西ドイツマルクから東ドイツマルクへの換金、という3段階があって。特にクリスマスは長蛇の列で、暗く雪が積もっているなか、何時間も待たされました。私にとっては、あまりいい思い出ではありません。(ガンドウさん)

西ベルリンの人々クリスマスに東ドイツの親戚を訪ねるため、入国審査に並ぶ西ベルリンの人々
(1965年12月26日撮影)

60年代 東の親戚に送ったはずの小包の中身が……

東の親戚のために母が準備した小包を郵便局へ持って行くのが、子どものころの私の役目でした。ただ、親戚の元に届く前にシュタージ(東ドイツの秘密警察)に中身を調べられてしまうため、現金や物が盗られてしまうことがよくありました。(ガンドウさん)

70年代 壁がある地域は異様な雰囲気

ベルリンに暮らし始めて、何度も壁を観に行きましたが、やはり異様な光景でした。場所にもよるのですが、壁の前にはごく最近銃殺された人のお墓があることも。国境だったブランデンブルク門に近いベルリンフィルハーモニーの辺りは何もなく、第二次世界大戦で破壊された建物が放置されていました。当時から観光スポットだったベルナウアー通りは、建物の壁がそのままベルリンの壁になっていた部分があったり、設置されていた物見台からは東ベルリンの街並みがよく見えました。(吉岡さん)

東ベルリンを一望できる物見台東ベルリンを一望できる物見台は街のいたるところにあった

70年代 ハンブルクまではアウトバーンではなく国道

西ベルリンから西ドイツへ行く方法の1つが、東ドイツを通過する自動車移動でした。特にハンブルクへのルートはある時期までアウトバーン(高速道路)がなく、最高速度60キロ程度の国道のみ。途中停車禁止のため、3時間ほど走り続けなければなりませんでした。農家のトラクターの後ろにつくとスピードが落ちるので、余計に時間がかかり気が気ではなかったです。(吉岡さん)

70~80年代 西ベルリンではクナイペが大繁盛

1979年にそれまで勤めていた会社を退職し、日本食を提供する居酒屋(クナイペ)をオープン。当時は夜中2時まで営業していたのですが、とても繁盛していました。というのも、西ベルリンは壁があるので、行く場所が限られていたんです。さらに、食料品店は基本的に平日は18時まで、土曜は13時までしか開いていなかったので、買い物をしそびれると食べるものがないんですね。だから、西ベルリンにはクナイペがものすごくたくさんありました。(吉岡さん)

OST 壁の外の暮らし

社会主義国の暮らしを想像できるだろうか。今でこそ笑えるような出来事がある一方で、信じられないほど厳しい面もあった東ドイツ。つい30年前まで存在した国の素顔をのぞいてみよう。

70~80年代 バナナ欲しさに長蛇の列

東ベルリンでは夏になると、キューバ産の緑色のバナナが店に並び、その時期は「Bananenzeit(バナナ期間)」と呼ばれていました。もちろん、店の前には購入するための長蛇の列が。スイカも時々売られていて、誰かがそれを目撃すると瞬く間に噂が広がり、やはり列ができました。買占めしないように、1人3つまでなどの制限もあったと思います。(ベネケさん)

70~80年代 牛乳のメーカーは1つだけ!

東ドイツでは「牛乳=牛乳」でした。牛乳のメーカーは1つしかなかったので、牛乳と言われたら、そのメーカーの商品のことを意味したのです。それから、西側諸国をまねた商品も多く売られていました。例えば、チョコレートバーなどのお菓子。ただし、味は西のものに劣っていましたし、パッケージがどれも色あせたような典型的な東ドイツ製の見た目をしていました。ちなみに、清涼飲料水のClub Colaや洗剤のSpeeは今も販売されている数少ない東ドイツのメーカーの製品です。(ベネケさん)

70~80年代 西側諸国の商品が手に入るインターショップ

何を買うわけでもなく、西側の商品が売られている免税店「インターショップ」によく行っていました。食料品から魅力的な製品までいろいろと売られていましたが、西ドイツマルクでしか購入できず、ほとんどが高額。西ドイツマルクを集めて、友人と少しずつお金を出し合い、一緒に買い物をしたこともありました。外交官は西ベルリンに行くことができたので、その子どもはこっそり西側のティーン向け雑誌「BRAVO」を手に入れられることも。付録のポスターなどを安く売ってもらったこともありましたよ。(ベネケさん)

インターショップ東ドイツの各都市にあったインターショップは1989年時点で470店舗あったという

70~80年代 子どもはとにかくピオニールに参加

東ドイツのほとんどの子どもたち(全体の約9割)が「ピオニール(先駆者)」に参加していました。ピオニールとは、社会主義教育をするための青少年のグループのことで、1~3年生までは青いスカーフのJungpionier、4~7年生までは赤いスカーフのThälmann-Pionierに所属します。レクリエーションやレジャー活動を行ったり、壁新聞を制作することもありました。(ベネケさん)

ピオニール「Seid bereit!(備えよ!)」の号令に「Immer bereit!(常に備えあり!)」と
答えるのがピオニールのお決まりの掛け声

70~80年代 初めて習う外国語はロシア語

東ドイツの子どもたちは、1〜10年生まであるPOS(Polytechnische Oberschule)と呼ばれる学校で学びました。5年生になると全員ロシア語を習い、7年生で英語かフランス語を選択可能。EOS(Erweiterte Oberschule)に進んだ子どもたちは、大学進学を目指すことができました。(ベネケさん)

80年代 休暇は東のリゾート地・リューゲン島へ

アビトゥーアのクラスにいた時、友人たちと自転車で3日間かけてバルト海のリューゲン島(メクレンブルク=フォアポンメルン州)に行きました。ほかにも、同じ社会主義国であるポーランドやハンガリーは定番の旅行先で、私も両親と一緒に旅行したことがあります。ただ、西側諸国へは旅行できないため、ドイツ国内にとどまっている人も多かったという印象です。(ベネケさん)

80年代 東ベルリン市民は西ドイツ放送を見ていた

公の場では、テレビやラジオはもちろん東ドイツの放送しか受信することができませんでした。でも、東ベルリンの人はたいてい西ベルリンからの電波を拾って、ARDやZDFなどの西ドイツの放送を見ていました。逆に東ドイツには「Der schwarze Kanal」という、西ドイツの放送を風刺したプロパガンダ番組があったのですが、今見ると滑稽な感じです。(ベネケさん)

80年代 目と鼻の先にある別世界

壁沿いに住んでいる友人のパーティーに行った時のこと。10階くらいだったと思いますが、西ベルリンが丸見えで、壁の反対側にジャンプしていけそうなくらい近い距離でした。壁という人工的な障害物があるにもかかわらず、壁の向こう側の別世界がよく見えることに、不思議な気持ちがしたのを覚えています。(ベネケさん)

70~80年代 オペラが破格の値段

当時、東ドイツには素晴らしい歌い手や指揮者がたくさんいたので、よく東ベルリンにオペラを観に行っていました。しかも、オペラのチケットは15マルク(約7.5ユーロ)、プログラムが50ペニヒ(約25セント)、ゼクトが1マルク(約50セント)と破格の値段。それでも、強制両替した東ドイツマルクが余るので、西では手に入らないロシア音楽のレコードをお土産に買って帰ったこともありました。(吉岡さん)

50~80年代 進学は労働者と農民の子が優先

東ドイツは労働者と農民の国。弁護士や医者などのエリートの子は大学に行けず、そのことは人々が西へ逃亡する理由の1つでした。私がケルンで働いていた時、ハレ(ザクセン=アンハルト州)出身の同僚がいたのですが、彼女は西側の親戚を頼って、マインツ(ラインラント=プファルツ州)の大学に進学したそうです。(永井さん)

70~80年代 赤いシビックに見物客

東ドイツ出身の同僚の里帰りに、私の運転で一緒に行ったことがありました。車種は赤いシビックだったのですが、彼女の実家の目の前に駐車したら、西の車が珍しいのでしょう、近所の人たちが皆見に来ていました。(永井さん)

70~80年代 家庭菜園で物々交換

東ドイツのお店に行っても置いてあるのはじゃがいもと玉ねぎとにんじん、それからキューバ産のレモンくらいで、新鮮な果物や野菜はほとんど売っていませんでした。でも、庭のある家の人たちはサクランボやイチゴを育てたりして、物々交換をしていたんですね。庭があるか否かで、生活水準に大きな差があったのです。私もそれに触発されて、同僚とケルンで庭を借りたことがありました。(永井さん)

70~80年代 西への出張に家族は連れていけない

東ドイツ出身の同僚のいとこの夫が物理学者でした。党員ではなかったため、大学教授にはなれませんでしたが、優秀だったため西側の国際会議に出席していました。ただし、西に逃亡しないようにと、妻子を連れてくることは許されなかったそうです。(永井さん)

70~80年代 東に西の新聞の持ち込みは厳禁

シュヴェリーン(メクレンブルク=フォアポンメルン州)出身の友人を車に乗せて、彼女の両親を訪ねに行った時、うっかりケルンの新聞を車の中に置きっぱなしにしてしまったことがありました。すると、それを見つけた友人は震えんばかりに怒りました。東ドイツで西ドイツの新聞や雑誌を持っているのが見つかると、シュタージに連行されることもあるため、友人はいつも恐怖心に捉われていたのだ思います。(永井さん)

 
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