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ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年を迎えた。この節目にドイツニュースダイジェストでは、2号にわたってベルリンの壁をテーマにした特集をお届けすることにした。かつて2つに分断されていたドイツの歴史を深く掘り下げるとともに、ベルリンの壁にまつわるエピソードを取り上げ、そしてこれまでの30年を振り返る……そう遠くないドイツの過去から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。前編では、そもそもなぜベルリンの壁が建設されたのかをひも解き、分断時代を知る人々に聞いた東西の暮らしぶりを紹介。まずは、1945年まで時計の針を巻き戻してみよう。(Text:編集部)

ベルリンの壁

ベルリンの壁の基本情報

ベルリンの壁建設:1961年8月13日(日)
崩壊:1989年11月9日(木)
全長:156.4キロメートル
高さ:3.6メートル
横幅:1.2メートル
逃亡に成功した人の数:5075人以上
国境警備隊による発砲:1709件
その内のけが人の数:119人
現在分かっている死者数:138人

出典:Bundeszentrale für politische Bildung 「Die Berliner Mauer」

ベルリンの壁

こうしてドイツは分断された ベルリンの壁 建設史

1961年から1989年の28年間にわたって、ベルリンを東西に分断していた「ベルリンの壁」。この壁の崩壊は、東西冷戦の終結、そして平和と自由の象徴として、世界史上でも最も重要な出来事の1つだ。しかし、そもそもなぜドイツを2つに分断する壁が築かれてしまったのだろうか。人と人、国と国の間に境界を敷くとは、どういうことなのか。「壁の建設」は人間の負の面を表す出来事でもあり、同じ過ちを繰り返さないためには、まずはその歴史を振り返る必要がある。これからの未来を語るために、過去を学ぶことから始めてみよう。

参考文献:Bundeszentrale für politische Bildung「Die Berliner Mauer」 Bundesstiftung zur Aufarbeitung「Die Mauer. Eine Grenze durch Deutschland」 www.berliner-mauer-gedenkstaette.de

終戦からベルリンの壁建設まで

第二次世界大戦後の4分割統治

1945年5月8日、第二次世界大戦の欧州戦線は、ドイツの無条件降伏により終結。同年7月に行われたポツダム会談では、ドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼として、戦勝国である米国、英国、フランス、ソビエト連邦(ソ連)の4カ国によってドイツを4分割して統治することが決められ、首都ベルリンについても4カ国がそれぞれ分割・管理するこになった(下図参照)。もともとはドイツの再統一を目指しての決定であったが、数カ月も経たないうちに社会主義体制を敷くソ連と、資本主義体制の米英仏の関係が悪化。第二次世界大戦後の世界平和への夢は早々に崩れ、東西冷戦の幕が開いた。

ドイツ4分割統治第二次世界大戦後の連合国によるドイツ4分割統治

資本主義 vs 社会主義の対立が激化

1947年6月には米国が、戦後の欧州経済の復興と再建を目的とした復興計画であるマーシャルプランを発表し、西ドイツで新しい通貨ドイツマルクを導入。これに対し、ソ連は新通貨として東ドイツマルクを発行し、西側に対抗する。同年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断する、「ベルリン封鎖」を敢行した。交通や給水、電気が遮断され、西ベルリン市民の生活に深刻な影響を与えたが、米国が大空輸作戦で物資を大量に送って援護。ソ連は目的を果たせず、10カ月後にベルリン封鎖を中止した。

物資を運ぶ米軍輸送機に手を振る子どもたちベルリン封鎖時、物資を運ぶ米軍輸送機に手を振る子どもたち

東西間で広がる経済格差

1949年5月、米国、英国、フランスの占領地区は統一され、西ドイツは正式な独立国家となった。西ドイツは奇跡的な経済復興を遂げ、生活水準が順調に向上する一方、東ドイツではドイツ社会主義統一党(SED)が社会主義体制を構築。農業の集団化が行われ、民間事業者や職人、パン屋などの多くの個人商店は財産を没収され、生活協同組合への加入を強制された。農業生産は劇的に落ち込み、経済も低迷していく。

1952年に東ドイツと西ドイツ間の国境が閉鎖されたが、ベルリンでは東西間の移動はまだ自由で、地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(Sバーン)なども通常運行されていた。そのため東西境界を越えて通勤することも可能で、当時はドイツマルクの価値が東ドイツの約4倍だったため、西側で働いて東側に暮らす人も少なくなかった。

東側からの大量人口流出

しかし、東ドイツの生活状況はさらに悪化していき、個人の自由も厳しく制限され始める。そのため、1950年代に入ると、西ドイツへの逃亡が急増。1952年から東西ドイツの国境は有刺鉄線で遮断され、厳しい検問が行われていたため、人々は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃げるようになった。1949年から1961年までの13年間では、273万9000人が東から西へ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントに当たる。

50年代に東ドイツを去った人の多くは、青年、熟練労働者、専門家、知識人などの国を支える人口層であるほか、集団化を強要された農民たちも含まれていた。そのため人口とともに労働力が失われ、経済状況はさらに落ち込んでいった。

東ドイツからの逃亡者数(ベルリンの壁建設以前)
  人数 25歳以下の割合
1949年 12万9245 -
1950年 19万7788 -
1951年 16万5648 -
1952年 18万2393 -
1953年 33万1390 48.7%
1954年 18万4198 49.1%
1955年 25万2870 49.1%
1956年 27万9189 49.0%
1957年 26万1622 52.2%
1958年 20万4092 48.2%
1959年 14万3917 48.3%
1960年 19万9188 48.8%
1961年 20万7026 49.2%
出典:Bundeszentrale für politische Bildung「 Die Berliner Mauer」

ベルリンの壁建設以降の東西ドイツ

武装した警官

突如現れたベルリンの壁

1961年8月12日から13日の真夜中過ぎにかけて、ついに壁の建設が始まる。ベルリン市民が眠りについている間に、東ドイツは西ベルリンを封鎖する作業を開始。それまで使われていたおよそ80の交通路や鉄道を封鎖し、道路、空き地、公園などにも有刺鉄線を張り巡らせた。13日の午前1時45分ごろには西ベルリンの全域が封鎖され、武装した東独部隊が国境に並んだ。翌朝、目を覚ましたベルリン市民たちは、突然姿を現したベルリンの壁に衝撃を受ける。西ベルリンに通勤していた人は職を失い、国境を越えて家族や友人、恋人にも会うことが叶わなくなったのだ。

ベルリンの壁建設壁建設の作業員たちもまた、武装した警官に見張られていた

資本主義国はすぐに対応せず

壁の建設は、西側諸国にとっては全くの不意打ちだった。しかし、米英仏はすぐには対抗措置を取らなかったため、壁の中に取り残された西ベルリン市民たちは見捨てられたと感じていた。当時の西ベルリン市長のヴィリー・ブラントはワシントンに書簡を送り、「何もせずにただ受け身になっているだけでは、西側諸国に対する信頼を危機に陥れることにもなりかねない」と訴えた。当時の米大統領、ジョン・F・ケネディはこれに応え、西ベルリンの米軍守備隊を強化。また、英仏の各軍も派遣部隊を増強し、戦車を動員した。1963年6月、ケネディはベルリンを訪れ、「私はベルリンの一市民である(Ich bin ein Berliner)」というセリフで有名な演説を行い、西ベルリン市民からの信頼回復を試みた。

監視体制の強化

ベルリンの壁が建設された8月13日からの数日間は、まだ逃亡のチャンスが残っていた。東ベルリン市民たちは、窓からロープを伝って西ベルリンへと降り立ったり、運河を泳いで西側へ渡ったりした。さらには、壁建設に徴用された人々や、国境警備隊からも多数の脱走者が出た。しかし、1961年に国境警備隊は壁に沿った建物の住民の立ち退きに着手。何千もの東ベルリン市民が何の予告もなしに引っ越しを余儀なくされた。1964年からは、国境警備隊が壁近くの建物の解体をはじめ、住居だけでなく、教会すらも爆破されることに。西ベルリンおよび東西ドイツ間の国境には、広いところでは5キロメートルに及ぶ立ち入り禁止区域が設けられ、特別に訓練された犬が放された箇所は200以上、監視塔も250棟近く設置された。

1969年に建てられた東ベルリンの監視塔1969年に建てられた東ベルリンの監視塔

命がけの逃亡

1961年9月14日には、国境警備隊へ「西ドイツへ逃亡して拘束を逃れようとする者は、1回の威嚇射撃の後、銃撃して良い」という指示が出される。東ドイツから逃れようとする人には命の危険がつきまとい、両ドイツ間の国境で命を落とした東ドイツ市民は、合計1000人に上った。それでも逃亡を企てる人々の脱出ルートはさまざまで、例えば重量のある車両で直接国境の遮断棒を突破しようとしたり、長い年月をかけてトンネルを掘ったり、気球や飛行機などの空路、ゴムボートやサーフボードでバルト海を渡る人も。なかには、逃亡者としてあえて国境警備隊に捕まって数年間を刑務所で過ごし、西ドイツに政治犯として引き渡されるのを待つ人もいた。東ドイツにとって、西側が政治犯を高額で買い取ってくれる「人身取引」は外貨収入を得るための方法でもあったのだ。

日常化する壁の風景

1970年代に入ると、世界の人々、そして多くの西ドイツの人々も、ドイツが分断されている状況に慣れ始めた。1972年9月に締結された東西ドイツ基本条約では、両ドイツが「内政、外交において、両国それぞれの独立性を尊重する」ことを規定し、1973年には、西ドイツ・東ドイツそれぞれが独立して国際連合に加盟。この頃には、西側から東側へは、手続きを済ませれば比較的簡単に訪問できるようになっていた。1973年に西から東ベルリンと東ドイツに入国した旅行者数は350万人を超え、壁の存在は観光客の関心を集めた。

東ベルリンでは、立ち入り禁止区域などにより国境封鎖施設が市民の目にあまり触れないようになっていたが、西ベルリンでは、壁は常に生活の中に入り込んでいた。壁はスプレーの落書きで埋め尽くされ、また、壁の近くは静かな休日を過ごすのに最適だった。壁の影響下で育った西ベルリンの子どもたちは、「警察と泥棒」の代わりに「国境警備隊と脱出者」で鬼ごっこをして遊んだそう。しかし、壁の建設を経験した世代にとって、「壁」への適応は簡単なものではなかった。「分断」や「壁に囲まれている」という閉塞感に苦しむ人も数多くいたのだった。

壁の前でボール遊びをする西ベルリンの子ども壁の前でボール遊びをする西ベルリンの子ども

ベルリンの壁 4度の変貌
1 1961年8月13日
(壁が建設された日)
コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らせた、フェンスのような形態
2 1961年8月15日
(壁建設から2日後)
コンクリートやレンガのブロックを積み上げた上に有刺鉄線を張りめぐらせたより頑丈なつくり
3 1965年ごろ 鋼を骨組みに使用したコンクリート製の壁
4 1975年~1985年ごろ 高さ3.6メートル、横幅1.2メートルの鉄筋コンクリート造り
 
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