ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】
2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年
ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)
ベルリンの壁崩壊30周年記念特集 目次
2つのドイツは本当に1つになったのか?今なお、東西を分断する見えない壁
1990年10月3日、ベルリンの壁が崩壊して約11カ月後、ドイツは再び1つとなった。当時多くの人々が再統一を喜んだが、ベルリンの壁が崩れてから30年が経った現在、見えない壁が東西の人々の間に立ちはだかっている。それは一体なぜなのだろうか。その理由を探るべく、ドイツ在住47年になるジャーナリスト・永井潤子さんにお話を聞いた。この記念特集の最後に、これまでの30年を振り返り、そしてこれからのドイツについて考えよう。
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壁崩壊で希望に満ち溢れていたはずが……
ベルリンの壁が崩壊して間もない頃、特に東ドイツの若者たちはすごく希望に燃えていました。これからは素晴らしい生活が待ち受けているんだ、と心から喜んでいたのです。しかし、理想と現実には大きな開きがあることに人々は次第に気づいていきます。
旧東ドイツ出身の同僚の親戚に物理学者がいました。彼は社会主義統一党(SED)の党員ではなかったため、壁崩壊後、50代になってやっと教授に就任。当初は喜んでいましたが、後に彼はこう言ったのです。「壁が崩れるのが遅かった。もっと自分が若い時なら、状況は違っただろう」と。古いしきたりや予算不足により満足のいく仕事ができなかったことが原因でした。
再統一後、旧東ドイツの国有企業のほとんどがベルリンの「信託公社」によって整理され、失業者が続出。1991年の旧東独地域の失業率は10.2%だったのが、1996年には16.6%、2005年は20.6%にまで達しました(図①)。同僚のお姉さんのところでは家族全員が失業。長年慣れ親しんできた社会制度がすべてなくなって、西のやり方を受け入れなければなりませんでした。2018年には失業率は7.6%にまで下がり、西との差は縮まったとはいえ、平均収入や年金額は西に比べて低く、この30年間、旧東ドイツの人たちは不満を募らせてきたと思います(図②)。
東ドイツは女性が活躍できる環境だった?
失われた旧東ドイツの文化の1つに、女性の恵まれた労働環境があります。旧西独では専業主婦が多かったのに対し、旧東独では約9割の女性が職業に就いていました。西では、子どもが3歳になるまでは家で育てるという考えが根強かったため、保育所が少なかったんですね。一方東には、子どもが生まれてすぐに預けられる保育所がたくさんあり、子育てしやすい環境が整っていたため、再統一して東の女性は「西の男女平等政策は遅れている」と感じたことでしょう。
ところが、そんな旧東ドイツでも本当の意味での男女平等は実現していませんでした。政治のトップはほとんどが男性で、国家評議会議長だったホーネッカーの妻が教育大臣を務めたぐらい。それでも、東の女性たちは男女平等の社会に生きていると信じ、東ドイツの消滅を嘆き悲しんだ人も少なくなかったようです。
それに関連して、今年行われたドイツ女性参政権行使100周年の記念式典の場で、旧東ドイツ出身のメルケル首相の発言が印象的でした。「旧西ドイツでは結婚している女性が働きたいと思った場合、夫の許可が必要でした。(中略)今日の視点から見ると、信じがたいことです」。メルケル首相はその後に続く演説の中で、自分が18年間党首を務めたキリスト教民主同盟(CDU)では女性議員が少ないことを指摘。自分が党首だった間に、旧東ドイツでは当たり前と考えられていた男女平等を党内で実現できなかった不満が、この演説に込められていたのかもしれません。
AfDの躍進で明らかになった東西の壁
私が今最も心を痛めているのは、右翼ポピュリズム政党のドイツのための選択肢(AfD)の躍進です。AfD支持層は特に旧東ドイツ地域に集中し(図③)、男性の支持者が圧倒的に多いことが明らかになっています。9月のブランデンブルク州とザクセン州の州議会選挙では、30~59歳の年齢層の男性に支持され、その支持率は50%以上。また、労働者や地方の人々のAfD支持率も高く、労働条件や過疎化への不満が反映された結果とも捉えられます。
2019年5月に行われた欧州議会選挙でAfDの得票率がトップになった地域は、
旧東ドイツ地域に集中している
10月のハレのシナゴーグ襲撃事件を受けて、ますます懸念されるのは、AfD支持者の中にネオナチ的な考え方を持つ人が多いこと。AfDの党員も、ナチスドイツが行ったユダヤ人迫害について責任を感じていない人が多いという印象です。1968年以降ナチスドイツの責任を問う意識が高まった旧西ドイツと、そういう時代を経験しなかった旧東ドイツでの意識の違いが表面化しているのではないかと思います。
また、2015年の難民危機が一部の旧東ドイツの人々の不満と複雑に絡み合っています。東では自分たちは「二流市民」だという考えが根強く、われわれは再統一後に何もしてもらえなかったのに、難民は助けてもらえる、という妬みもあるようです。でも、旧東独地域にはずいぶんと西ドイツのお金が投資され、街がきれいになり、経済状況が改善されてきたのも事実。一方で、ドイツを代表する大企業は1つも旧東独地域に本社を置いていません。国の重要機関も、ライプツィヒの連邦行政裁判所とエアフルトの連邦労働裁判所があるのみ。 過疎化を防ぎ、旧東ドイツの人々のことを考えるのなら、もっとそういったものを西から東へ移すべきでしょう。
それから、閣僚の中にもっと旧東ドイツ出身の人を取り入れるべきだとも思います。この点で注目すべきは、東の女性たちの活躍ぶりです。例えば政界では、緑の党の国会議員団代表や左翼党の共同代表として旧東独出身の女性が活躍。東ドイツ時代、職業・家事・育児をこなした女性たちの中には優秀な人が多く、各界でその力を発揮していると感じます。さらに、「Ostfrauen(東の女性たち)」が今後のドイツを変える、という自負も彼女たちにはあるようです。
9月の東部2州の州議会選挙について、南ドイツ新聞で興味深い社説が掲載されました。「東部では、特に人々の不満に応える政治家が必要とされる。(中略)これまで以上に有権者に説明し、新しいことにも勇敢に挑戦する態度が必要で、それが実行される時、東部ドイツに新しいものが生まれる」。同社説では、両州首相が選挙中に積極的に集会に参加し、人々の不満を聞き、それを解決する具体的な政策について説明したことが、高く評価されていました。
今後もAfDは勢力を伸ばしていくことが予想されており、ドイツが本当の意味で1つになるまでの道のりは、想像以上に長いでしょう。ですから、これからますます東西の人々がお互いの相違を認識した上で、理解し合うことが必要なのではないでしょうか。そして、人々が東西の見えない壁を崩していく具体的な努力をするよう願わざるを得ません。