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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

27. ブッサルト5 二つの世界大戦を経て

Deutsche Sekt-Geschichte

ゼクトの生産技術は、20世紀初頭にほぼ完璧なものになったといわれる。問題の一つはボトルの品質だった。19世紀半ばごろまでは、瓶内二次発酵中のボトルが大量に破裂していた。1910年代にはボトルの破裂は数パーセントに抑えられるようになった

ゼクトの製造技術がやっと確立した時代に、第一次世界大戦が勃発した。醸造所はどこも、直ちに農作業用の馬や馬車を軍隊に提供しなければならなかった。レストランなどでは贅沢品の筆頭であるゼクトの提供が禁じられ、ブッサルト社はたちまち経営危機に追い込まれることになった。しかし当時の社長、カール=フェリックス=アルトゥア・フォイグトは、醸造所に急遽ビアホールを増築し、窮地を脱した。

第一次世界大戦終結後から第二次世界大戦勃発時にかけては、ブッサルト社のビジネスは好調で、ザクセン地方のスパークリングワインの中心的存在であり続けた。この時期の一番の得意先は軍隊だった。1936年にフォイグト社長が亡くなると、妻のエルゼが社長職を引き継ぎ、1946年までブッサルト社を牽引した。第二次世界大戦中の動向については、ブッサルト社史の執筆者ペーター・ウーファー氏は何も書き残していない。

第二次世界大戦後、ブッサルト社のセラーは一時的にロシア軍の拠点となった。その際、ロシア兵たちは瓶内二次発酵を終えて保管されていたゼクトを次々に空にしたという。ブドウ栽培農家は生活の糧を得るために、穀物やジャガイモの栽培に転向したため、ブドウ畑はどんどん失われていった。ブッサルト社は1947年に解散し、ゼクトは生産停止になった。その後1955年まで、同社の醸造所でゼクトが生産されることはなかった。

1949年、ブッサルト社の拠点があったドイツのソビエト連邦占領地域に、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が建国される。その後、ラーデボイル市営醸造所とブドウ栽培・ワイン醸造研究所は、国営の人民公社醸造所に吸収された。この醸造所は、1954年に人民農場醸造所ラーデボイルに組織替えされ、1963年には人民公社種子・植物共同体ケードリンブルクと改名されている。

初めて旧東独産のゼクトが誕生したのは1953年のことだった。生産者はブッサルト社ではなく、上述の人民公社醸造所で、製品は「ザクセンゴルト」(ザクセンゴールド)と名付けられた。使用されたブドウは、人民公社の所有畑のリースリングとグリューナー・フェルトリーナーだった。しかし収量が少なく、醸造技術も未熟だったため、間もなく生産停止となってしまう。

旧東独における、本格的なゼクト造りへの道のりは遠かった。一番の問題は寒冷な気候だった。それでもブドウ畑は、ホーフレスニッツ、マイセン、ゾイスリッツ、ヴァッカーバートなどに拡大され、徐々に収量が安定するようになった。

1953年に旧東独で初めて生産されたゼクト「ザクセンゴルト」のエティケット1953年に旧東独で初めて生産されたゼクト「ザクセンゴルト」のエティケット

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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