25. ブッサルト3 シャンパニアからゼクトへ
1836年にスタートを切った「スパークリングワイン工場」は波乱万丈の社史を持つ。だが、危機に直面するたびに窮地を救ってくれるパートナーが現れた。社名やオーナーが幾度も変わったが、ゼクト造りは継続され、伝統は今日に至るまで守られた。
1840年代に「シャンパニア工場ニーダーレスニッツ」と改名した同社は、1850年代まで順調に発展した。しかし1860年代に入ると、レスニッツだけで3社のゼクト工場が創業し、競争が激化、1878年には閉鎖に追い込まれた。しかし、倒産手続きを行ったドレスデンの弁護士、カール=ゲオルグ・シューバルトらが、ゼクトの生産を継続できるよう支援した。ゼクトビジネスはそれほどまでに魅力的だったのだろう。
シャンパニア工場は創業以来、地元レスニッツとその近郊のブルグンダー系(ピノ系)品種のブドウを使用していたが 、1880年にフィロキセラが同地を襲った。フィロキセラとはブドウの根に食いつき木を枯らしてしまう、体長1ミリに満たない害虫で、19世紀後半に北米から欧州に運ばれた。最初に確認されたのは1863年、フランスのヴォクリューズ県で、その後各地に被害を及ぼした。地元のワインが不足するようになると、ライン川、モーゼル川流域、さらにはシャンパーニュからもベースワインを購入して、ゼクトを生産し続けた。買い取ったワインから造られたゼクトは好評だったという。
創業50年を迎えた1886年、再び窮地に陥っていた「シャンパニア工場ニーダーレスニッツ」に手を差し伸べたのがウーリッチュ・リヒター社(Uhlitzsch, Richter & Co.)だった。1897年には、マイセンで起業した「ゼクトケラーライ・ブッサルト(Sectkellerei Bussard)」が同社を買い取り、醸造所名からは「シャンパニア工場」の文字が消え、それ以降は「ゼクト醸造所」と呼ばれるようになった。そしてこの社名が後世に残ったのである。
20万本のゼクトが保管可能な、醸造所悲願のセラーは、19世紀末に完成した。「ゼクトの大聖堂」とでも言うべき壮大な建築物には、二次発酵中のボトルのセラーとベースワインの樽のセラーが別の階に備わっていた。
ブッサルト社のビジネスは好調だったが、買収劇はこの後も続いた。1899年に、枢密商務顧問官テオドーア・メンツとドレスデンのワイン商シェーンロック社(H. Schönrock)に自社を売却したのである。同社はその後間もなく、株式会社から有限会社に組織替えされた。その後ブッサルト社は急成長を遂げ、著名ゼクトメーカーとして名を知られるようになる。ブッサルト社の幹部は企業に新風を吹き込み、工場を近代化し、併設レストランを拡張した。ゼクトグラスを手に散策できるイタリア風の庭園ができ、ドレスデンやその近郊に住む人々の行楽地、ゼクトファンの巡礼地として親しまれるまでになった。
1910年頃のゼクトケラーライ・ブッサルト