30. ブッサルト8 伝統製法への道のり
ブッサルト社を吸収したラーデボイル醸造所は、70年代に繁栄期を迎え、旧東ドイツ独自のゼクト文化を育んだ。しかしブッサルト・ブランドの伝統製法のゼクトの生産は保留にした。ようやく生産が開始されたのは、市場が成熟した80年代だった
1979年、ラーデボイル醸造所はブッサルト社が取り組んできた伝統製法(瓶内二次発酵)のゼクトの生産を中止し、拠点をシュロス・ヴァッカーバートに移した。ブッサルトは幻のブランドとして、その名を留めるだけとなった。
1980年代に入り、生産されていた12種類のゼクトがいずれも高く評価されるようになり、年間生産量が700万本に達すると、同醸造所はようやく伝統製法のゼクトの生産に取り組み始めることになった。1984年に旧東ドイツの高級食品ブランド、デリカート(Delikat)から、伝統製法のゼクトの生産依頼があったのだ。当時の東ドイツの醸造所では、二次発酵時に瓶が破裂することも多く、生産に当たり4名で構成される破裂処理班が設置された。
この時代のベースワインはソ連や東欧諸国、イタリア、スペインなどからの輸入だった。ドレスデン・ノイシュタットの貨物駅にワインが到着すると、待機していた旧東ドイツ軍のブリガード(旅団)がトラックの小型タンクに移し替えた。その際、彼らはあらかじめ用意していた複数の保存容器をワインで満たし、闇取引を行っていた。イタリアやスペインのワインが手に入ると、ソ連軍が所有するオイルサーディンなどと交換していたそうだ。
1980年代末、ラーデボイル醸造所は「1993年以降にブッサルト社の旧セラーを改装し、そこで伝統製法のゼクトを生産する」という計画を立てていた。1987年にリリースされたゼクト「グラーフ・フォン・ヴァッカーバート」(Gr afvon Wackerbarth)は、将来的にブッサルト社のセラーで生産されるはずだったが、実現を見なかった。1989年にベルリンの壁が崩壊したからである。
ドイツ再統一後は、ブッサルト社の民営化が進められた。旧オーナーの妻の家系であるフェイト家と、その子孫であるプレル家に、信託公社トロイハントから不動産が返却され、社長にはラーデボイル醸造所のコルネリウス・フィンケンが就任した。彼はパテント庁を通じてブランド名の使用権を取得し、ベースワインはモーゼル地方やライン地方産を買い付け、伝統製法のゼクトの生産を開始した。しかし、由緒あるセラーで生産されたゼクトは、ビジネスとしては成功せず、やがて生産停止に追い込まれた。ドイツ再統一から2年後の1992年、ザクセン州はワイン文化の継承に取り組み始めた。民営化に失敗したブッサルト社は、この時ラーデボイル醸造所と再統合され、ザクセン州営醸造所シュロス・ヴァッカーバートが誕生した。
現在のシュロス・ヴァッカーバート。ブドウ畑、ベルヴェデーレ(望楼)とテラス。