フラメンコを越えて
パーカッシブダンスに挑む
ありのままの自分を表現するために、
身体が自ずと動き出すダンスが理想
ミズキ・ヴィルデンハーン
パーカッシブダンサー。ハンブルク生まれ。アビトゥア取得後、日本で空手の修業を積む。米国、メキシコ滞在を経て帰国し、フラメンコダンスと出会う。その後マドリッドに7年間滞在。マリア・マグダレーナなどに師事し、本格的にフラメンコを学ぶ。現在はハンブルクでフラメンコを教えつつ、パーカッシブダンサーとして新境地を切り開いている。
2010年の暮れ、スペイン・セビリアの文化センターで本格的なフラメンコダンスを観た。黒い簡素な衣装の男女。激しく清冽(せいれつ)で、人間の喜怒哀楽が凝縮された踊り。激しいステップと手拍子が繰り出す打楽器のような強烈なリズム。それは私のフラメンコに対するイメージを覆す体験だった。そして今春、ハンブルクでミズキ・ヴィルデンハーン(51)の舞台に出会う。彼女のダンスに、セビリアで観たフラメンコを越えた自由さ、大らかさを感じた。
ドイツと日本の狭間のアイデンティティー
ミズキの父親は映像ジャーナリスト、日本人の母親はハンブルクで書道用具や茶道具、尺八・笛などを扱う専門店を経営している。父親はマース・カニンガムやピナ・バウシュなどのドキュメンタリー番組も撮っており、母親は日本の芸能、書、茶道などへの関心が深い。しかしそれ以上に、両親が共に大変な音楽好きだったことが、彼女の人生に決定的な影響を与えた。
韓国でアヴァンギャルド音楽のデュオと共演した際のダンス
アビトゥア取得後の1980年から3年間を東京で暮らした。「アビが済んだら、とにかくどこか遠くへ行きたくて、母の故郷である日本に行こうと思ったの」。彼女は4歳の時に日本を訪れており、当時の断片的な記憶がある。両親に連れられて行った歌舞伎座で観た、女が狐に化けるシーンを今でも覚えている。後にその演目が、「蘆屋道満大内鑑」だと知った。「歌舞伎ってフラメンコに似ていると思わない? 大きな音をたてて足踏みしたり、止めのポーズがあったり……」。
東京では、友人の影響で空手を始めた。松濤館流道場に入門し、英語教師をしながら夢中で修業した。「当時の私は貧弱だったから、空手を通じて自分に自信が持てるようになったの。でもここは私の場所じゃないと感じ、変化を求めてアメリカへ行くことにした。まだハンブルクに帰りたくなかったのよ」。ニューヨークで暮らしたいという夢もあり、日本からカリフォルニア、メキシコ滞在を経てニューヨークへ向かった。「思えば、メキシコでスペインと通低する文化に初めて触れたのね」。しかし、ニューヨークに辿り着いた彼女は、大都会に留まるエネルギーを持ち合わせておらず、約1年の旅に終止符を打ってハンブルクに戻る。「この旅は、きっとアイデンティティー探しの旅だったのね」と当時を振り返る。
フラメンコと出会い、スペインヘ
帰国後、大学で日本学を学ぼうと決意するが、1984年当時はとても人気が高く、ヌメルス・クラウズス(定員制限)は厳しかった。入学申請をし、結果を待つ間、ダンスをしたいという気持ちが生まれた。「子どもの頃からダンスは好きだったけど、扁平足でX脚だから、ダンスには向かないと言われてきたの。でもこの時、心から踊りたいと思った」。モダンダンスを習うつもりが、たまたま訪れたフラメンコ教室に予備知識なしで通い始め、夢中になった。幸か不幸か、日本学部への入学は認められず、ハンブルクでたった3度のレッスンを受けただけで、もうスペインへ。マドリッドでは、オペアと英語教師をしながらプロのダンサーの指導を受けた。ハンブルクの先生に勧められ、主にマリア・マグダレーナに師事。生徒たちは通常、新しい技法を学ぶため、スタジオを転々とするが、ミズキはずっとマリア・マグダレーナのもとに留まり、同じ振付を繰り返し練習した。「無意識に空手の修業法を実践していたのね。武道をする人は普通、流派を転々とせず、同じ形を何度も繰り返し、完璧にしようとするでしょ」。
しかし、どれほど完璧さを追及しても、フラメンコはアンダルシアの伝統芸能。高度な教育を受けたプロのダンスは簡単には到達できない名人芸だ。ミズキは漠然と、フラメンコの別の可能性を考え始めていた。その頃、マドリッドで出会ったパーカッショニストの夫はフラメンコ音楽の枠を越え、アラビア音楽に傾倒していた。一方でミズキは仲間に頼まれ、夏休みごとにハンブルクでフラメンコのワークショップを開催するようになっていた。
フラメンコを越えた理想のダンス
7年間の修業を終えてハンブルクに戻ると、本格的にフラメンコを教える立場となり、フラメンコダンサーとして舞台に立つようにもなった。「ダンサーは舞台を経験するごとに上達する。だからチャンスがあれば、やらなくちゃと思ったの」。しかし彼女は、まもなくフラメンコでは勝負ができないと悟る。「フラメンコダンサーと名乗るなら、少なくとも本場のダンサーと同じレベルでないといけない。でも私は、彼女たちのようには踊れない」。そうしてミズキは舞台を降りた。
1990年代後半、彼女は毎年約3カ月をニューヨークで過ごしていた。現地では精力的にクラブに出掛け、時には飛び入りで即興ダンスを披露した。「あの頃の私ったら、著名なミュージシャンに気軽に声を掛けたりして、無邪気で怖いもの知らずだったわ。でもニューヨークは懐が深かった。そしてフラメンコがすべてじゃないと思えるようになったの」。
やがてミズキは、パーカッシブダンサーとして舞台に復帰する。身体を叩き、床を蹴り、音を立てて踊ることから、彼女自身が付けた名称だ。「フラメンコを基本に自らの経験を集大成して踊っている」という。彼女の理想は、ありのままの自分を表現するために、身体が自ずと動いてしまうようなダンス。「一字書の書道家、村木享子さんのパフォーマンスが理想形の1つ。小柄な彼女が重量5キロの筆を片手で抱え、畳より大きな紙に文字を書く。深く腰をかがめたかと思えば、思い切り背伸びをしたり。彼女の身体は字を書くために動いている。それが理想的なダンスに思えたの」。
ここ数年、彼女の舞台活動の幅は広がっている。今年3月には、ニューヨークの友人を通じて知り合った藤井郷子(ピアノ)らと共演する「掃き溜めに鶴」の日本ツアーを行ったばかり。このほか、自ら結成したチームでフラメンコに広がりを与えた「ダブルキック」を各地で上演。夫のファイン・サンチェス=ドゥエニャスも、パーカッションで参加している。 次の目標は来年、ベルリン在住の藤井郷子・田村夏樹(トランペット)夫妻と日本在住の臼井康浩(ギター)、ボストン在住の益子高明(パーカッション)、そして彼女の5人のユニットで、「掃き溜めに鶴」のドイツ公演を実現させることだ。
Mizuki Wildenhahn
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