昨年秋、この連載を愛読してくださっていた、ある外交官のご夫人から、日本へ本帰国される直前にお便りをいただいた。ベルリンで印象に残っている場所として、壁跡の小さな記念碑を挙げられていた。「最初に見たのは、16年ほど前。小さな花壇と碑文を見て、きっと親が設けたのだろう、17歳の息子の得られなかった自由な世界で生きる親の思いはいかなるものだろうと想像を膨らませました。最近再訪すると、木製の十字架は古びてきていましたが、花壇はいつも通り綺麗に手入れされ、美しく花が咲いていました」
今も残るS バーンのデュッペル駅のホームと線路跡
この記念碑は一度見たような気もするが、記憶が曖昧だ。悲しみに寄り添うこの方のメールに感銘を受け、息子を連れて行ってみることにした。
昨年末のクリスマス休み、フェアベリナー広場から115番バスに乗った。終点のNeurupinner Str.の停留所に降り立つと、くだんの記念碑はすぐ目の前にあった。カール=ハインツ・クーべという人の名前が彫られた木の十字架で、手作りのぬくもりがある。1949年4月10日に生まれ、没したのは1966年12月16日。「自由への逃避」により東独の国境警備隊によって撃たれることがなかったら、75歳のカール=ハインツさんは老後の人生をいきいきと楽しんでいたのかもしれない。
カール=ハインツ・クーべの記念碑
その近くには、2009年になってから設置された鉄製のプレートがあり、カール=ハインツさんを含め、4人の犠牲者の名前が刻まれていた。今は寒々しい光景だが、「美しく花が咲く」春ごろにまた訪ねようと思った。
さて、停留所の裏手の木の茂みに入っていく。一見何もない場所に「発掘」したいものがあったからだ。運動場の間の細長い林の中に見えてきたのは、古びた線路と車止め。かつてここにはSバーンのデュッペル駅があった。この線路跡は、プロイセン最初の鉄道としてベルリンとポツダム間を結んだ路線の一部。第二次世界大戦末、ドイツ軍が近くのテルトウ運河の橋を爆破し、戦後はデュッペル駅と南のグリープニッツゼー間の線路は撤去されてしまった。しかし、1961年の壁建設後もこのデュッペル駅と2.6キロ北のツェーレンドルフ駅までは、盲腸線として1980年まで電車が走っていたのである。
線路とホームという具体的な物が姿を現したものだから、息子は急に楽しくなってきたようだ。線路跡に沿って歩いてみることにした。営業停止から40年以上が経ち、線路は自然の中で朽ちているものの、隣が遊歩道になっているので歩きやすい。次のツェーレンドルフ・ズート(南)駅はホームに加え、待合室も残っていた。ツェーレンドルフの駅が近づくと、Sバーンの音が聞こえてきた。真っ暗になりかけてきたので、車道に戻ったときは少し安堵した。
実は、この廃線跡を地域交通として再建するプランがあるという。今は寂しい感じが否めないカール=ハインツさんの記念碑の前も、いずれは多くの人が足を止めるようになるのかもしれない。
ドイツ分断の犠牲者の記念碑
Denkmal Opfern der Teilung Deutschlands
シュテーグリッツ=ツェーレンドルフ区(ベルリン市)とクラインマッハノウ(ブランデンブルク州)の境にある記念碑。鉄製のプレートにはカール=ハインツ・クーべのほか、ペーター・メトラー、クリスティアン・ブットクス、ヴァルター・キッテルという同世代の4人の壁の犠牲者の名前が刻まれる。車道を隔てた側には、実物のベルリンの壁1ブロックが保存されている。
住所:Karl-Marx-Str. 2, 14532 Kleinmachnow
ベルリン-ポツダム基幹線
Stammbahn Berlin – Potsdam
1838年に開業したプロイセン最初の鉄道路線。当時は、ベルリンからプロイセン王家お膝元のポツダムまでの26キロを1時間以上かけて走っていた。2023年、ドイツ鉄道とベルリン・ブランデンブルク交通連合は、グリープニッツゼーからツェーレンドルフまでの廃線を再建する計画を発表した。開業200年に当たる2038年を完成の目標に進めるという。