ツォー駅から100番バスに乗って、「ライヒスターク」のバス停で降りた。シャイデマン通りに面して何台もの観光バスが停泊し、ライヒスタークの入場口には次々に人の波が押し寄せる。
それとは反対のティーアガルテンの側に、ドイツの2人の政治家の言葉を引用したプレートが設置されていることをご存知だろうか。その1つには、シュミット元首相の発言が記されていた。
「シンティとロマはナチの独裁政治によってひどい不正を受けた。彼らは人種的な理由によって迫害された。この犯罪はジェノサイドだった」。
イスラエルの彫刻家ダニ・カラヴァンが設計したシンティ・ロマの記念碑
向こう側の様子が気になりつつも、ここからは中に入れないため、いつも素通りしていたが、ようやくその機会が訪れた。
昨年10月に完成した「虐殺されたシンティ・ロマの記念碑」は、ライヒスタークからブランデンブルク門までを横切る並木道の途中にある。入り口から中に入ると、そこは緑と記念プレートによって囲まれた空間になっていた。中心には円形の大きな池が置かれ、吸い込まれそうな黒い色をたたえた水面に、周囲の木々や空が反射し揺らぐ。池の真ん中には三角形のプレートが置かれ、その上には一輪の花が。流れ込む水のせせらぎ、鳥の鳴き声……。先ほどまでの喧噪とは打って変わった静けさが、ここを支配していた。
1933年から45年にかけて、ユダヤ人だけでなく、シンティやロマといった少数民族が大虐殺の犠牲になったことはあまり知られていない。記念碑の脇に設置された 年譜によると、シンティやロマが、「ツィゴイナー」という総称でナチにより「劣等民族」と位置付けられ、老若男女問わず組織的にゲットーや強制収容所に送られた過程は、ユダヤ人のそれと極めて類似している(犠牲者数は約50万人に上ったという)。池の中央に置かれた三角形の石は、強制収容所で当時、囚人の服に縫い付けられたバッジをモチーフにしており、ここに置かれた花が枯れると、石が下がって、新しい花に置き換えられる仕組みになっているそうだ。設計したダニ・カラヴァンによると、この花は「生、哀悼、記憶の象徴」とのこと。
「Do you speak English?」。今日も中心部を歩いていると、子どもを抱えた物乞いのロマの女性に声を掛けられる。彼らはいつこの街にやって来て、どこに住み、どのような生活を営んでいるのかと時々思うが、周囲の知人に聞いても、誰もわからない。ただ、何となく「汚い/子どもを連れた女性/物乞い」という忌避のイメージが共有されている。
先日、たまたま訪ねたノイケルンのギャラリー「イム・ザールバウ」で、ロマをテーマにした写真展に出合った。準備に関わったフランクさんがそこで、こんなことを語ってくれた。
「展示に携わって感じたのは、人々が抱く単純化された図式と違って、ロマの世界が信じられないほど多様で、複雑だということ。彼らを巡る状況は今も厳しいが、 こんな時、政治が見出す解決策は幅の狭いものになりがちだから、文化の側から今の硬直を解きほぐせないかと思っています」
ロマの問題に限らず、憎しみの連鎖を防ぐには、まず知ろうとすることから始めるべきだろう。ライヒスタークの裏にひっそり構える記念碑は、そんな何かを感じさせてくれる場所だった。
シンティ・ロマの記念碑
Sinti und Roma Denkmal
1992年に連邦議会が建設を決定してから、約20年の月日を経て完成した記念碑。2012年10月の落成式にはガウク大統領とメルケル首相も同席した。直径12メートルの池の淵には、ロマの出自を持つ詩人サンティーノ・スピネッリの「アウシュヴィッツ」が、英語、ドイツ語、ロマ語で刻まれている。入り口は1カ所だが、24時間見学可能。
住所:Simsonweg / Scheidemannstr., 10117 Berlin
URL: www.stiftung-denkmal.de
ホロコースト記念碑
Holocaust-Mahnmal
正式名称は「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」。ブランデンブルク門南側の広大な敷地に、約2700もの石碑が並ぶ。東側の情報センターでは、ホロコーストの悲劇の歩みが展示され、日本語の簡単なパンフレットもある。同記念碑の財団が、近くの同性愛者の記念碑とシンティ・ロマの記念碑も管理・運営している。
オープン:(情報センター)火~日10:00~20:00
冬期は~19:00
住所:Cora-Berliner-Str. 1, 10117 Berlin
電話番号:030-26 39 430
URL: www.stiftung-denkmal.de