「あなたもここに住んでいたのですか!」。思わず本人にそう声をかけたい気分に駆られた。
地下鉄U7のバイエルン広場駅の周辺は、戦前多くのユダヤ人が住んでいたことで知られる。最近、駅が改装されたのを機に、この場所の歴史を伝える情報コーナーが設置されたというので、見に来たのだ。駅の構内を探し歩いたが、それらしきものは見つからない。ならばと思い、地上に出たところに新しくできたカフェの階段を上がっていくと、赤を基調とした内装の店内に、このシェーネベルク区の界隈の歴史がマルチメディアを駆使して展示されていた。冒頭の私の感想は、誰がどこに住んでいたかを示す店内の大きな地図を初めて見たときのものだ。
カフェ・ハーバーラントの窓ガラスに描かれた地図。
かつてバイエルン地区に住んだ著名人の居住地が示されている
シェーネベルク区の北側、バイエルン広場と名付けられた広場の周辺に、装飾豊かな住宅が次々と建てられたのは1900年から1914年頃にかけてのこと。ほどなくしてここに医者、芸術家、学者、文学者など多くのインテリ層が移り住むようになる。とりわけ有名な住人は、物理学者のアルベルト・アインシュタイン(在住期間1918〜33)、作家のエーリヒ・ケストナー(同1927〜31)らだが、ピアニストのクラウディオ・アラウ(同1930〜37)、作家のアンナ・ゼーガース(同1926〜32)など意外な名前もあった。ユダヤ系住民が多い中、ナチス時代に悪名高き人種法の作成に携わりながら、戦後アデナウアー内閣の首相府長官を務めたことで論議を呼んだハンス・グロプケといった人も一時期ここにいたことを知る。
ヒトラーが政権を執った1933年以降、「ユダヤ人のスイス」とまで呼ばれていたバイエルン地区は変貌していった。この周辺を歩くと、白地に文字が書かれた一見看板のような記念プレートをよく見掛ける。そこには、例えばこう書いてある。
「ユダヤ人公務員は職務から解雇される。1933年4月7日」
「ベルリンに並べられていた反ユダヤ主義の看板は、1936年のベルリンオリンピックの期間中、一時的に取り除かれた」
「ユダヤ人はバイエルン広場で黄色に塗られたベンチにしか座ることが許されない。1939年」
「ユダヤ人の出国は禁止する。1941年10月23日」
「ユダヤ人は合唱団から除名される。1933年」と書かれたプレート
地元の人々のイニシアチブによって設置されたこのプレートに出会うたびに、権力者の1つひとつの決定がここに住んでいたユダヤ人、さらにはドイツ人の日常生活や心をどのように狂わせていったのかと想像する。ホロコーストの悲劇は、一夜にして生まれたのではない。小さな変化を見逃して、あるいは見ない振りをして言葉にする努力を怠っていたら、やがて取り返しのつかない事態が襲ってくる……それは、過去の話ではなく現在も。
私は時々、ベビーカーを押してカフェ・ハーバーラントまで散歩にやって来る。コーヒーを飲みながら歴史を知ることができる素敵な空間だ。ここを去らざるを得なかった人たちの歩みを学びながら、かつての「隣人たち」と交流している。
カフェ・ハーバーラント
Café Haberland
バイエルン地区の開発を指揮したゲオルク・ハーバーラント(1861〜1933)に因んだカフェ。戦前ここに住んでいた文学者や音楽家の映像や演奏を視聴できるコーナーがあるほか、無料のパンフレット(英独表記)も置かれている。夏は広場を望めるテラス席でくつろぐことも可能。U7 バイエルン広場駅の地上に出てすぐ。
オープン:10:00〜18:00
住所:U-Bahnhof Bayerischer Platz, 10779 Berlin
電話番号:030-30106090
URL:www.cafe-haberland.de
展示『われわれは隣人だった』
Die Ausstellung “Wir waren Nachbarn“
シェーネベルク区の市庁舎内にある常設展示。かつて、こ のエリアに住みながらナチスによって追われ、または殺さ れた芸術家、学者、スポーツ選手など約150人のユダヤ 系住民の歩みが、体験者のインタビュー、プライベート写真、 レポートなど膨大な資料と共に展示されている。展示はド イツ語だが、親切なスタッフが応対してくれる。入場無料。
開館:10:00〜18:00 ※金曜休館
住所:John-F.-Kennedy-Platz 1, 10825 Berlin
電話番号:030-902774527
URL:www.wirwarennachbarn.de