難民の問題を報じるドイツの新聞記事を読んでいると、現在起きていることだけでなく、かつてこの国に押し寄せて来た難民の歴史的経緯を取り上げた記事に出会うことがある。背景や規模はそれぞれ違うにせよ、地続きの欧州の人々にとって、日本人の私が思う以上に難民は生活の身近なところにいた。その足跡を辿ってみたくなった。
ミッテ地区のジャンダルメンマルクト広場には、長方形の要の位置にコンツェルトハウス(旧シャウシュピールハウス)、左右にフランスドームとドイツドームという2つの教会堂がそびえ、ほかでは見られない壮麗な美しさがある。クリスマスマーケットの準備が進む広場を抜けて、フランスドームの端にひっそりと構えるユグノー博物館の入口を見つけた。この中に入るのは初めてだった。
ジャンダルメンマルクト広場に建つフランスドーム
1685年10月18日、フランス国王ルイ16世は信仰の自由を撤廃した。それまでもしばしば迫害を受けていたフランスの新教徒(ユグノー教徒と呼ばれる)の多くは、これを機に国を去る決意をする。驚くべきことに、そのわずか11日後、ベルリン・ブランデンブルクの大選定候フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ポツダム勅令を発表して彼らの受け入れを決めたのである。約30万人の難民のうち、この地域に逃れて来たユグノー教徒は約2万人に上り、うち5500人はベルリンに定住した。これは当時のベルリンの人口の7分の1を占める数だ。
ユグノー教徒にとって幸運だったのは、30年戦争後の荒廃した地において、国土の再建を手助けする役割を大選定候から期待されたことだろう。実際、彼らは職人や染色工、製革工など、手に職のある人が多かった。信仰の自由を認められただけでなく、6年間税金を納めなくても良いとする優遇措置まで受けたのである。
自治機能を与えられたフランス人の社会施設が集中的に生まれたのも、この時期だ。貧しい避難民のための施設(1688年)、ギムナジウム(1689年、ベルリン最古の公立学校として現存)、孤児院(1725年)など。博物館の説明には、「避難民の困窮は深刻だったが、物乞いや文盲にとどまらなければならない者はいなかったようだ」と書かれていた。彼らは勤勉な上に、教育を重視した。当時、欧州の宮廷社会の中でフランス語は「公用語」に近い存在だったから、よそ者の彼らが洗練された言葉を話す上に、優遇措置を受けて社会的にも成功していったとなると、迎え入れるドイツ人の側には妬みの感情もあったらしい。
シンプルな内装のフランス教会堂
しかし、18世紀にユグノー教徒がもたらした文化は、いつの間にかベルリンの社会に溶け込んだ。フリードリヒ通り周辺の碁盤目のような都市設計から、洗練された食文化(ドイツにアスパラガスを持ち込んだのも彼らである)、作家テオドア・フォンターネのような彼らの子孫から生まれた文学まで(現在の難民問題でしばしばテレビに映るデメジエール内相も、17世紀末にブランデンブルクに逃れたユグノー教徒の末裔だ)。寛容の精神が生んだ産物を、300年後に生きる私たちは意外なところで享受している。
フランスドーム
Französischer Dom
1701~05年にかけて、フランスから逃れてきたユグノー教徒のために教会堂が建設された。18世紀後半、フリードリヒ大王によって教会の隣に華やかな塔が建てられ、現在はこの2つを総称してフランスドームと呼ぶことが多い。火~金曜の12:30からオルガン演奏付きの礼拝が行われる。3ユーロの入場料で、ドームの天井部分にも上ることも可能。
オープン:月~日 10:30〜18:30(4~10月は10:00〜19:00)
住所:Gendarmenmarkt 5, 10117 Berlin
電話番号:030-2041507
URL:www.franzoesischer-dom.de
ユグノー博物館
Hugenottenmuseum
フランスドームの地上階にある私営博物館(ただし、入口はドーム側と異なる)。ポツダム勅令から250周年の1935年にオープンした。フランスのプロテスタントの成り立ちやベルリン・ブランデンブルク地方のユグノー教徒の歴史が、絵画、書物、文書などの豊富な資料と共に展示されている。入場料は3.50ユーロ(割引2ユーロ)。
オープン:火〜日 12:00〜17:00
住所:Gendarmenmarkt 2, 10117 Berlin
電話番号:030-2291760
URL:www.franzoesische-kirche.de